第104話 【佐伯さんの撤退宣言】
2016年、春。
凪は、かつて絶望と酒に溺れていたあの暗いアパートをあとにし、清々しい春の朝の光の中に立っていた。
あの日、英理の母・美津子からの電話を受けた彼は、自らの弱さと向き合い、もう一度立ち上がることを決意していた。
厳しいレスキュー隊の選抜試験に挑み、見事に合格。
消防学校での救助研修でも、厳しい訓練を一つずつ乗り越えていった。
消防士としてさらなる高みを目指し、オレンジ色の救助服を身に纏うレスキュー隊員としての道を切り拓いた凪。
♢
非番の夜。消防署の近くにある行きつけの居酒屋では、救助服から私服に着替えた隊員たちによる、賑やかな飲み会が開かれていた。
「いやいや、そこは絶対違うって! 今のドラマ見てないんか? 俺は断然、神之浦英理ちゃんが好きやね! あの透明感、たまらんやろ!」
「お前、ミーハーやなー。でも確かに、今の英理ちゃんは別格やけどな」
テーブルの向こう側では、同僚たちがテレビを賑わせる女優たちの話題で大盛り上がりしている。
凪は一人、ジョッキのビールの泡を見つめた。
(……頼むから、俺にその話を振らんといてくれよ)
「佐伯さん、このだし巻き卵、めっちゃ美味いですね。もう一個頼みましょか?」
「そうねえ、お願いしようかしら。……でも凪くん、さっきから妙に食べるペース早くない?」
「えっ、そ、そうですか? 腹減ってただけやと思いますけど……」
佐伯は、凪よりも一回り年上の頼れる姉御肌だ。
鋭い観察眼を持つ彼女の視線に、凪が少し冷や汗をかいたその時だった。
「おい、凪! お前さっきから女優の話、完全にスルーやんけ!」
同僚の一人が、ニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「お前、そういえば彼女とかおるんか? 署内でも浮いた話、全っっく聞かへんけど!」
その声に、周りの隊員たちの視線が一斉に凪に集まった。
「……いや、おらんよ。彼女なんて、全然」
凪が苦笑いで誤魔化そうとすると、隣の佐伯もグラスを置き、面白そうに目を細めた。
「そういえばそうね。凪くん、普段の休日って何してるの? 訓練して寝てるだけじゃないでしょ? 案外、私生活が謎なのよねぇ」
「えっ、いや……ホンマに大したことしてへんよ。走ったり、本読んだり……」
「お前、寂しいやつやなー!」と同僚がゲラゲラ笑う。
「なぁ佐伯さん、凪に誰かええ子紹介したってくださいよ! こいつ、顔は悪くないんやから!」
振られた佐伯は「あら」と口元に手を当てて、少し楽しそうに考え込む。
「凪くんなら真面目だし、良いわね。……そういえば、私がよく行く東中病院に、すっごく可愛くて気立ての良い看護師さんがいるのよ。
彼氏と別れたばっかりらしいし……どう、凪くん? 今度セッティングしようか?」
「ええっ!? い、いや、大丈夫です! 俺、今はホンマにそういうのええんで!」
凪は慌てて両手を振り、顔を引きつらせて全力拒否。
しかし、その必死すぎる態度が、逆に周囲の疑念に火をつけてしまう。
「……おいおい、ナースの紹介を食い気味に断るって、おかしくないか?」
「お前、さては……本当は彼女おるのに隠しとるんやろ!」
「えっ? いや、ちゃうって! ホンマにおらんから!」
「怪しいわねぇ、凪くん。この必死さ、絶対に裏に誰かいる反応よ」
佐伯までがニヤリと笑い、同僚たちが「吐け!」「写真出せ!」とテーブルを叩き始めた。
(ヤバい、ヤバい、ヤバい……!!)
焦った凪は、咄嗟に全く別の言い訳を口走ってしまった。
「い、いやぁ……俺、実は……」
「実は?」
「その……地下アイドルグループの『エンジェル・ドロップス99』の……ファンで……」
居酒屋のテーブルが、一瞬にして静まり返った。
「…………は?」
「……えんじぇる、どろっぷす?」
凪は顔を真っ赤にして、勢いに任せてまくし立てた。
数秒の沈黙。
「ぶわっはははは!! お前、地下アイドルのオタクやったんか!!」
「あのストイックな凪が『エンジェル・ドロップス99』!? マジかよ!!」
「ちょっと待て、今スマホで調べたるわ!」
同僚の一人が素早くスマホを取り出し、画面をタップし始めた。
「どれどれ……『エンジェル・ドロップス99』っと……お、出てきた! えーっと、メンバーは。
『七瀬 めるも』に『夢見 るり』
なんやこのメルヘン全開の名前! おい凪、お前この中の誰の推しなんや! おうおう、誰やねん! 言ってみぃ!」
「ぐっ……そ、それは……個人の自由でしょうが……!」
「恥ずかしがんなって! ほら、めるもちゃんか? るりちゃんか? どっちや!」
スマホ画面を突きつけられ、凪は冷や汗をダラダラ流しながら必死で目を泳がせた。
佐伯は突然、何かを思い出したように表情を引き締める。
「……待って。凪くん、それって本当に本気のオタクってことよね?」
「ダメだわ、これ。凪くん、さっきの看護師さんの話、今のなし! なかったことにしてね!」
「えっ!?」
「あんたはアイドルと結婚しなさい!」
「そんなん、アイドルと結婚なんて無理ですよ……!!」
必死の凪の叫びも虚しく、その夜、「アイドルオタクの凪」という新たな伝説が刻まれてしまった。




