第103話 【忘れんといてあげてね】
和也からの電話を切り、次の日の夜。
冷めきったアパートの部屋で、凪は相変わらず電灯も点けず、昨日と同じように壁に背中を預けていた。
テーブルの上に置いていたスマホが静かに震える。
画面に浮かび上がったのは、美津子の文字だった。
凪は応答ボタンをタップして耳に当てた。
「……凪くん、夜分にすまんね。急に電話して」
「……いえ。どうしたんですか、こんな時間に」
「……英理のこと、聞いたとやろ? あんな人を連れて帰ってきて……凪くんには、本当に申し訳ないことをしたね」
「……謝らんといてください。あいつが選んだ人なら、俺は……」
「そうじゃなかとよ、凪くん」
美津子は、凪の言葉を遮った。
「……あの子、あの棟方さんという人と一緒におる時、一回も長崎弁が出んかったとよ。
ずっと、テレビで見るときと同じ、綺麗な標準語で笑っとった。
あの子、自分の実家におるのに、ずっと『テレビの中の女優』ば演じとったとよ」
「……」
「……棟方さんも、悪い人じゃなかったよ。礼儀正しかったし、英理の仕事のこともよう分かっとった」
「……そうですか」
「でもね……」
美津子は少し間を置いた。
「……あの子、帰る間際に、あんたが昔勧めてくれたお茶を一口だけ飲んでね……その時だけ、一瞬だけ、昔の英理の顔に戻ったとよ」
「…………」
「……私にも、何が正しいのかは分からんよ」
美津子は静かに続けた。
「ただね、凪くん。あの子がどれだけ遠くへ行っても、長崎に帰ってきた時くらいは、昔の自分を忘れんでほしいと……そう思っとる」
「……」
「凪くんも、自分のことばかり責めんでよかとよ」
その言葉を最後に、電話は切れた。
凪はしばらく、暗い部屋の中でスマホを握ったまま動かなかった。
自分は「過去」だと思っていた。
自分は「格差」に負けたのだと思っていた。
けれど――。
「……英理……」




