第102話 【色を失った世界】
夜八時。
電灯も点けず、テレビの青白い光だけが揺れるアパートの一室。
凪は床に座り込み、壁に背中を預けていた。
テーブルの上には、何日も片づけられていない郵便物が重なっていた。
その時、床に置いたスマホが震えた。
凪はすぐには手を伸ばさなかった。
着信が一度途切れても、また震える。
それでもしばらく、画面を見つめたままだった。
ようやく手を伸ばす。
「……もしもし……和也か?」
「凪、お前、大丈夫か? ……声、おかしいぞ」
「別に。大丈夫や」
「さっき、母さんから聞いたんだ」
「英理が、長崎に帰っとったらしい」
凪の指が止まった。
「……長崎に?」
「ああ。……あの俳優を連れてな。母さんに会わせに来たらしいんだ」
棟方を連れて。
母親に会わせるために。
「凪、お前……これ、知っとったんか?」
「……いや」
凪は目を伏せた。
「知らんよ。……俺は、もう……何も、聞かされてへんから」
「凪、お前……! あの坂道で、お前が命がけで守ったあいつが……あんな男を母さんに引き合わせて……。あいつ、全部忘れてしもたんか!」
「……もう、ええんよ。和也」
「ええわけあるか!」
「ええんよ」
凪はスマホを両手で握りしめた。
「俺が、あかんかったんや」
「凪……」
「英理が遠くへ行っていくのを……俺、ずっと見てることしかできへんかった」
声が震えた。
「仕事が忙しいんやって……東京で頑張っとるんやって……俺は、そう思って待っとった」
「……」
「いつかまた、俺のところに帰ってきてくれるって……勝手に思っとったんや」
「そんなこと……」
「……俺の声なんて、もう……あいつには届かんのよ」
「凪……!」
「……和也」
「……もう、疲れたわ」
通話を切った。
部屋には、テレビの音だけが残った。
「なんで、守ってしもたんやろ」
「……こんなに、苦しいんなら……」
♢
俺の住む世界は、いつからこんなに色を失うてしもうたんやろ。
テレビの中では、英理が笑っている。
今では、誰もが知っとる女優。
綺麗な衣装を着て、眩しい場所に立って、誰かに囲まれて笑っとる。
(……綺麗やな、ほんまに)
そう思った。
悔しいくらいに。
けれど、その笑顔を見ていると、別の英理が浮かんでくる。
長崎の坂道。
泥だらけになって、泣きそうな顔をしながら、それでも俺のそばにおった、あの頃の英理。
俺の名前を呼んで。
くだらんことで笑って。
何でもないことで喧嘩して。
俺の手を握っていた。
(……あの英理は、もうおらんのやろか)
画面の中の英理は、俺なんか見てへん。
当たり前や。
あいつの世界は、もう俺の知らん場所まで行ってしもうた。
棟方みたいな男が隣にいて。
華やかな場所で笑っている。
……それが、今の英理なんや。
俺だけが、あの日の坂道に取り残されとる。
高校生だった頃のまま。
英理を守った、あの日のまま。
(……俺がおらんでも、もう大丈夫なんやな)
その言葉が、胸の奥に残った。
俺はずっと、あいつを守ることが自分の役目やと思っとった。
東京に来たのも。
消防士になったのも。
強くなろうと思ったのも。
全部、誰かを守れる人間になりたかったからや。
その中には、いつも英理がおった。
けれど――。
(……そういうことやったんかな)
凪は、テレビの中で笑う英理を見つめた。
昔と同じ笑顔。
なのに、どうしてこんなにも遠いんやろ。
(俺は……何のために、あの日お前を守ったんやろ)
あの日は、それだけでよかった。
ただ、英理を守りたかった。
それだけやった。
なのに――。
「……こんなに遠くなるなら……」
凪の声が、静かな部屋に落ちた。
「……こんなに、惨めになるんなら……」




