第15話 悪魔の契約書
――1時間後
『鐘なしの教会』――かつてミカエルの威光を称えていた聖堂は、今や見る影もなく風化し、街の闇に潜む悪徳の巣窟と化していた。
天を突くはずの尖塔は半ばから無惨にへし折れ、本来なら神聖な鐘が吊るされているべき鐘楼には、まるで絶叫する巨人の口のような空洞がぽっかりと暗がりを広げている。
ギィ……と不吉な軋み声を上げて腐ちかけた木扉が開くと、湿った冷気と共にカビと埃、そしてほのかに焦げ付いた肉の匂いが漂い出た。
砕け散ったステンドグラスの隙間から差し込む青白い光が、散乱する長椅子と、頭部を削り取られた神像の影を不気味に浮かび上がらせている。
ヴィランは、足元で乾いた音を立てる瓦礫を踏み越え、静かに聖堂の奥へと踏み込んだ。
その足音だけが、天井の闇へとしみ込むように低く響き渡る。
「……お待たせいたしました、ドイル伯」
ヴィランは闇の奥——かつて祭壇のあった場所へと視線を向け、そこに立っていたドイル伯にお辞儀をする。
「……覚えているか?この場所を……」
「ええ……我々が出会った場所です」
「ああ……最悪な出会いだったな」
「はい。覚えておりますとも。あなたはそこの祭壇で赤子を殺そうとしてましたね。悪魔の生け贄として捧げる為に」
「軽率な行動だと今でも反省しているよ。だが、悪魔にでもすがりたかったのだよ。わかるだろ?闇ギルドを成長させたかったのだ」
「……世間話はそのくらいでいいでしょうギルドマスター……ご用件は?」
「フッ。話が早くて助かるよヴィラン。まもなく、ここに陽だまりの旅団がやってくる。君は、そこの懺悔室で我々の会話の内容を聞いて判断して欲しいのだ」
「どのような判断を?」
「1人の男を殺すか、旅団全員皆殺しにするか」
「……ほう」
「……さあ、急いで入るのだ。姿を見せるなよ?」
ドイル伯が視線で促した先には、半壊した木製の懺悔室がぽつんと佇んでいた。
ヴィランは無言のまま、気配を消してその狭い闇へと身を滑り込ませる。
直後――ジャリジャリッ、と瓦礫を踏みしだく複数の足音が聖堂内に響き渡った。
砕けたステンドグラスの青白い光の中へ、荒々しい影が三つ、滑り込んでくる。
先頭に立つのは、背に大剣を背負った野性味溢れる屈強な剣士――『陽だまりの旅団』のリーダーであり、セシルの父親『ガルド』だ。使い込まれた革鎧と数々の修羅場を潜り抜けてきた男の眼光が、暗がりを鋭く射抜く。
そのすぐ後ろには、豊満な胸元を大胆に覗かせた紫のローブを纏う美しい女性魔法使い『ソフィア』。その妖艶な笑みの裏には、底知れぬ魔力を秘めていることが窺えた。
そして最後尾には、奇抜なモヒカン頭に薄汚れた皮甲冑を付けた小柄な男『ジャック』。腰に何本もの毒塗りの短剣を下げた、見るからに下劣で油断のならない盗賊風の男だ。
懺悔室の木格子の隙間から、ヴィランはその三人の姿を冷徹に観察する。
先頭の剣士が口元を歪め、獰猛な笑みを浮かべた。
「待たせちまったか? ドイル伯爵……いや、こう言うべきかな?」
ガルドは重い一歩を踏み出し、大剣の柄に手を置いたままニヤリと笑いながら言い放つ。
「ドイル宰相閣下!」
ドイルは不快げにガルドを静かに睨み付ける。
「あ?なんだぁてめえ!!その態度は!!」
「落ち着きなさい、ジャック!」
「でも!ソフィアの姉御!」
「ソフィアの言う通りだ。俺たちは言い争いに来たんじゃない。交渉しに来たんだ。
なぁ、ドイルさんよ」
「……さっさと要件を言いたまえ」
「言ったはずだよ?金貨10枚持ってこいってさ!」
ドイルは不快そうに鼻で鳴らした。
「……フンッ!」
ドイルは衣の裏から小さな革の小袋を取り出し、無造作に放り投げた。
チャリッ、と軽い音を立てて飛んできた小袋を、ソフィアは胸の前で片手で受け止める。
巾着の紐をほどいてチラリと中身を確かめると、満足げに口元を歪め、ガルドへ向かって小さく頷いた。
「フフッ……よしよし!流石は貴族の中の貴族と言われているお人だ。金払いが良い!!」
「……教えてくれないか? 金貨300払うと言ったのに、なぜ断った?」
「欲の出しすぎは良くねえだろ?
払うより殺すほうが楽だと思われたくねえからな。それに……金はただの口実にすぎねえ」
「なに?」
「つまりだな!ガルドの兄貴はあんたにこう言いたいのさ!俺たち陽だまりの旅団を支援してくれって!そうですよね!?兄貴!!」
「……そうだ。あんたと俺たちでこの世界を変えようぜ!」
「調べたんでしょ?セシルの正体……あの娘、皇帝の血が流れているのよ!」
ドイルはゆっくりと目を細め、冷ややかな沈黙を返す。ガルドはそれに怯む様子もなく、我が子の自慢をするような誇らしげな笑みを浮かべた。
「あいつは俺たちの自慢の娘だ。だからよ、あの娘を次の勇者として祭り上げる。民衆の支持を集めれば、おのずと玉座への道が開けるはずだろ? そしたら俺たちは、その血筋を後ろ盾にしてこの国のてっぺんに立つ! ……悪くねぇ話だろ、宰相閣下?」
あまりにも現実離れした、脳天気ですらある野望。ドイルは冷淡に告げる。
「そんなのは論外だ」
「やってみなきゃわかんねえだろうが!」
「君たちは政治というものを理解できていない。セシルは悲惨な死を遂げるぞ。悪い事は言わない。静かに冒険稼業を続けるのだ。金は払う。君たちが望む額をな」
「本物なんだよ、セシルは!!
あいつは……あいつはきっとこの世界を平和にしてくれる!!このくだらない戦争を終らせてくれるんだ!!」
「信用できないな」
「……信用するしか、あんたに道はないよ」
「わしに死ねと言うのか!?」
「まさか! あんたには死なれちゃ困るね。長生きしてもらって、俺たちのバックアップをしてもらわなきゃならねえ」
ガルドはニヤリと下品な笑みを浮かべると、使い込まれた革鎧の裏から、ずっしりと重い金属の固まりを取り出した。
砕けたステンドグラスから差し込む青白い光を反射したのは、禍々しい装飾が施された一本の短剣――その柄頭には、ドイル家の家紋がはっきりと刻まれている。
「……ッ! それは……」
ドイルの顔から一瞬で血の気が引き、その双眸が凍りついた。
「この『鐘なしの教会』の祭壇の裏に眠ってたぜ? あんたの家紋が入った、悪魔の儀式用短剣だ。昔、赤子を殺した時の血がべったりこびりついてやがる。これが大聖堂や貴族院に持ち込まれたら……『誰かに盗まれた』なんて言い逃れじゃ済まねえだろ、宰相閣下?」
ガルドは短剣を弄びながら、ドイルの喉元に突きつけるかのように一歩を踏み出す。
「あんたが俺たちの支援を拒むってんなら……この短剣の存在が、表沙汰になるだけの話だ」
「……っ……!」
言葉を失うドイルの額から、嫌な汗がひとすじ伝い落ちた。
政治の表舞台でどれほど権力を握ろうと、この一本の短剣が公になれば、貴族としての地位も生命もすべてが瓦解する。
「……よく分かったろ? あんたに拒否権はねえんだよ。俺たちを仲間に入れて、セシルを女帝にする手助けをしな。そうすれば、この短剣は一生暗闇の中に封印しといてやる」
ガルドの勝利を確信した高笑いが、カビくさい聖堂内に虚しく響き渡る。
——そのやり取りのすべてを。
半壊した懺悔室の木格子の隙間から、ヴィランは呼吸ひとつ乱さず、冷徹な瞳で見つめていた。
「へへっ!じゃあな!次も同じ日同じ時間ここで会おう!より良い返事を期待してるぜ!」
ヘラヘラと笑いながらガルドたちが去り、重い木扉が閉じられる音が静まり返った聖堂に響いた。
その直後、ドイルは膝から崩れ落ちるように近くの長椅子へ腰を下ろし、深く、重いため息を吐き出した。
「ハァ~~……」
頭を抱え、思い出す。
かつてこの聖堂で赤子を殺した時の、あの断末魔の叫びを、手に残る生暖かい感触を。
「ぐっ!? くそ!! くそが!! なんと酷いことを……! い、いや……悔いた所で最早手遅れか……! この手は、すでに血で染まっている……!!」
ギィ……と、軋んだ音を立てて半壊した懺悔室の扉が開いた。
静寂そのものを纏って暗がりから姿を現したのは、まるで命を刈り取る死神のような出で立ちのヴィランだ。
彼は取り乱すドイルを見下ろし、冷徹な声で静かに告げる。
「左様。我々には退路などない。進むしか道がありません。」
ドイルは力なく顔を上げ、すがるような、あるいは品定めするような視線を向けた。
「……闇ギルドの補佐役として……お前はどう感じた、ヴィラン」
ドクロの仮面の片目が怪しく輝くと、ヴィランは壊れかけたミカエル像を睨み付けながら淡々と答えた。
「全員、殺すべきです。無残に、残酷に……。……しかし、セシルという駒が本当に使い物になるかどうか……判断が難しいところです。……そこで、いかがでしょう?奴らに悪魔の契約書を書かせてみては?」
「悪魔の契約書だと?しかし、それはお互いが同意しなければ契約できなかったのではないか?」
「ククク!ご安心下さい。書かせる手はいくらでもございます!」
「……できるか?」
「もし拒むようならば……私が責任を持って全員に死を与えます!」
そう言ってヴィランは深々と頭をさげた。
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