10異世界転生したけど記憶がないので、補習頑張りたいと思います!!
「好きで篭りたいわけじゃないよぅ……お腹痛いのは精神的な問題なんだってば……!」
教官室へと続く重厚な石造りの廊下で、ルノは情けない声を上げながらアリスの袖を引っ張っていた。美味しい食事で満たされたはずのお腹は、目的地が近づくにつれてキリキリと嫌な痛みを訴え始めている。
「ほら、着いたわよ。シャキッとしなさい!」
アリスに背中をバシッと叩かれ、ルノは「ひうっ」と小さな悲鳴を上げた。
目の前に立ちはだかるのは、黒塗りの頑丈な木製ドア。上部には『実技戦闘教官室』と刻まれた銅製のプレートが掲げられている。扉の隙間から漏れ出てくる圧倒的な威圧感だけで、ルノの足は生まれたての仔鹿のようにガクガクと震え出した。
(帰りたい……自室の天蓋付きベッドに潜り込んで、今すぐ永遠の眠りにつきたい……)
ルノが心の底から現実逃避をしていると、扉の向こうからドスの効いた声が響いた。
「――立ち話なら部屋の中で聞こう。入れ、シュバルツ、ローウェル」
(鍵がかかってるドア越しに察知されたーーーっ!?)
ヒッと息をのむルノをよそに、アリスは「失礼します!」と力強く扉を開けた。
室内に足を踏み入れると、そこは教官室というよりは『武器庫兼資料室』のような空間だった。壁一面には使い込まれた数々の魔法具が飾られ、中央の巨大な執務机には膨大な書類がうずたかく積まれている。
その奥で、ガルド教官が鋭い眼光を光らせながら腕を組んで座っていた。
「体調は戻ったようだな、シュバルツ。食堂での一幕も聞いているぞ」
「えっ」
「他の生徒を傷つけることなく、威圧感だけで不遜な者を下がらせたそうだな。己の力量を誇示せず、場を治める……実に貴族の模範たる立ち振る舞いだ。さすがはシュバルツ家」
(なんで食堂のハッタリまで教官の耳に届いてるのーーー!? しかもまた最高に都合よく解釈されてるし!!)
冷や汗を滝のように流すルノに、ガルド教官はふっと満足げに口元を緩めた。
「さて、呼んだのは他でもない。お前に与える『追加課題』についてだ」
教官はそう言うと、机の横から重厚な金属製の箱を取り出し、ドスンと机の上に置いた。それだけで部屋全体が微かに揺れるほどの重量感だ。
「これは、魔族との前線で回収された『魔導遺物』の一つだ。高度な呪詛と無数の二重結界が施されており、現代の解呪魔術体系では手も足も出ん。分析のために解呪班へ回す予定だったのだが……」
ガルド教官の鋭い瞳が、まっすぐにルノをとらえた。
「『虚数魔力』を持つお前ならば、この結界の構造そのものを『無』に還し、一瞬で解呪できるのではないかと思ってな。……どうだ? やってみる気はあるか?」
(あるわけないでしょーーーーっ!? 何その禍々しい箱!? 呪詛って言った!? 触ったら呪われて死んじゃうやつじゃん!!)
ルノの心が絶叫を上げる。
断りたい。今すぐ「無理です! 私はただのポンコツです!」と土下座して叫び出したい。
だが、隣を見ると、アリスが瞳を輝かせてルノを見つめていた。
「すごいわ、ルノ……! 入学初日に教官から魔導遺物の解析を任されるなんて……!」
(アリスちゃん、そんな尊敬の目で見ないで! 私、ただの押し潰されたドライフラワーを持ってるだけの一般人なんだってば!)
さらに、ガルド教官が畳みかけるように言った。
「もちろん、まだ新入生のお前に無理強いはせん。だが、もし成功すれば……お前の評価は決定的なものとなり、将来の進路にも大きな影響を与えるだろう」
もしここで成果を出せば、危険な戦場に行かずに平和な田舎でパン屋さんを開く未来に一歩近づくかもしれない。
(命がけだけど……やるしかないの……!? でも、失敗して爆発でもしたらどうしよう!?)
ポケットの中で、命綱であるドライフラワーを必死に握りしめる。
(お願い……! この怪しい箱の呪いか結界か何か知らないけど、私に害が及ばないように『消えて』……お願いだから!!)
「……分かりました。やってみます」
ルノは覚悟を決め(半ばやけくそになりながら)、震える手を伸ばして、金属製の箱の表面にそっと触れた。
「ルノ、無理はしないでね……!」
アリスが固唾をのんで見守る。
ガルド教官もまた、呼吸を殺してルノの手元を凝視していた。
(消えて消えて消えて消えて消えてーーーーっ!!)
ルノが固く目を瞑り、手の中の花に全身全霊の祈りを込めた――その瞬間。
――カチリ。
部屋の中に、拍子抜けするほど小さな金属音が響いた。
「……え?」
ルノがおそるおそる目を開けると、黒く禍々しいオーラを放っていた金属箱の幾何学模様がすーっと消えていき、固く閉ざされていた蓋が、静かに滑るように開いていた。
爆発も、恐ろしい呪いの発動もない。
ただ、箱に施されていた緻密な呪詛と無数の結界が、最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱり消滅していたのだ。
「……バカな」
あのガルド教官が、ガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。その顔は驚愕で引きつっている。
「解呪班の専門家が数ヶ月かけても一重すら解除できなかった『古代の二重三重結界』を……触れただけで、詠唱も魔法陣の展開すらなく……完全に消滅させたというのか……!?」
「すごすぎるわルノ!! 一瞬じゃない!!」
アリスが「きゃーっ!」と声を上げてルノに抱きついてくる。
(えっ……あ、あれ……? 本当に消えちゃったの……!?)
ルノ自身も信じられない思いで自分の手を見つめた。
ただ祈っただけだ。「消えて」と強く願っただけなのに、なぜか本当に消えてしまった。
(私……もしかして本当に、何かとんでもない力を持ってるの……? でも、出し方は分からないし、打ち消すことしかできないんだけど……!)
呆然とするルノの前で、ガルド教官は深々と息を吐き、感服したように頭を下げた。
「……見事だ、シュバルツ。お前の『虚数魔力』の底深さ、このガルド・シェレッド、完全に思い知らされた。この成果はすぐに学園長へ報告する。お前はもう、ただの新入生ではない……我が校の『至宝』だ」
「し、至宝……!?」
「誇るがいい! 放課後の課題はこれで終了だ。今日はゆっくり休み、明日の実技訓練に備えろ!」
「は、はい……ありがとうございました……」
フラフラとした足取りで教官室を後にするルノ。
アリスは「ルノって本当にすごいのね! 私、もっと頑張らないと置いていかれちゃうわ!」と興奮冷めやらぬ様子で横を歩いている。
(至宝って何……? どんどん評価が跳ね上がっていって、逃げ場がなくなっていくんだけど……!)
夕暮れ時の綺麗なオレンジ色に染まる廊下を歩きながら、ルノは青ざめた顔で天空を仰いだ。
前世の記憶はない。
便利な知識チートもない。
魔法の使い方も知らないし、使えるのは「消えて」と祈って発動する謎の打ち消し現象だけ
(私……本当にこの学園で、無事に生き残れるのかなぁぁぁーーーっ!?)
勘違いとハッタリ、そして謎のポンコツ奇跡に彩られたルノ・シュバルツの異世界学園生活は、まだ始まったばかりであった。
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