東国の少年(後)
「どうして、いつもいつももめられるんですか」
片岡の自室に戻ってから、永刀がぎゃんぎゃん喚く。
「仲良くなさって下さい、などとは申しません。ただ、合わないなら合わないものとして、お避けになるかして下さい。永刀は、斑鳩に来る度に、ひやひやさせられます」
(誰もついてこいなんて、一度も言った憶えはねえよ)
心の中で呟くものの、そんなことを口走った日には、この小言が二倍にも三倍にもなって、果てはす父の元にまで届きかねない。
かいた胡座の右脚に頬杖をついたまま、入鹿は永刀の小言をやり過ごす。説教は聴くが、わかったとは言わない。いつもの、やり方だ。
「そうは言っても、昔から兄上と入鹿の関係って、こんな感じよ」
押し黙った入鹿の代わりに、口を挟んだのは片岡だった。
「呼び捨てにするな、とか、痴話喧嘩ばっかり。どちらも、絶対謝らないしね。兄弟喧嘩みたいなものよ、次の日にはお互いけろっとしてるんだから。刀でも出て来ないかぎりは、永刀も捨て置いた方がいいわよ」
と、入鹿と山背の口論を切って捨てた後で。
「今夜のことは、入鹿の方が悪いわよ。確かに、兄上がなさっていることが最上とは言いませんが、あんな風に真っ向否定されるものでもないと思うわ」
片岡は更に舌鋒鋭く入鹿を責める。
確かに言い過ぎたとは思った。でも止まらなかった、そしてそれは山背も同じなのだろう。年下の従兄弟と侮って、入鹿の忠告なんて、山背にはハナから受け入れる下地がない。
「嫌いなんだよ、ああいう視野の狭いとこ」
入鹿は片岡の批判を、苦笑いで流してから。
「本当に、あれでいいと思うか、片岡」
脇息にもたれていた腕を外して、片岡の正面に向き直った。
(あれでいいと思うか)
って、自分はいいと思わないから、こっちに同意を求めているんじゃない。
予め、答えの決まったような問いかけに、片岡はふうと息をつく。
入鹿の言いたいことはわかる。
兄は、山背は純真過ぎる。
政治的思惑とか、社会的立場とか、そういったことを、鑑みて行動していない。
父にもそのキライは十分にあったが、それでも父は、自らの立場は弁えていた。
小治田大王の摂政として、存分にその政務を行っていた。恐らく、大王の額田部皇女とも、大臣の馬子とも、政策の上で、意見を異にすることもあったと思うが、それでも表面上は穏やかに、三十年もの間、均衡は保たれていたのである。
が、兄の山背は。
心根が真っ直ぐだといえば、長所にもなろうが、とにかく潔癖なのだ。
清濁併せ持つのが、為政者に課せられた必要条件だとすれば、全くもって満たしていない。
目の前の旅人のひとりやふたり、息絶えていくさまに出会おうが、他の飛鳥の民が守られればそれでいい。それが、頂点に立つ者のある意味、割り切りなのだが、山背は飛鳥の民全てを放り出しても、目の前に消え行く命を、ないがしろに出来ない。そして、年下の従兄弟に指摘され、ああも激昂するのは、つまり自分の行為に非はないと信じて疑っていないのだ。
「いいも悪いも、それが、兄上ですから」
妹の片岡としては、そうとしか答えようがない。
逆に言えば、山背が損得以外でモノを見ることが出来るからこそ、今自分たちはこうして、近しくいられるのだ。この宮の主が、野心に満ち、権力欲の権化のような男だったら、とっくに片岡など政争のとっておきの駒にされてる。長谷の元か、或いは他の宮の王子の妃に収まって、子のひとりやふたり、設けているかもしれない。そして、入鹿とて山背の鷹揚なところは知悉してるし、感謝も覚えているはずなのだ。
「入鹿の方こそ」
「ん?」
「あんな風に兄上を追い詰めるなんてらしくない、と私は思いましたけど?」
しれっと片岡は痛いところを突いてくる。
「そう…?」
とぼけて言葉を濁し、目線を逸らしても、片岡は執拗に追いかけてくる。
「何かありました?」
「片岡はごまかせないね」
くすっと笑って、取っ組み合いのケンカをして、負けを認めた時のように、入鹿は床に上体を投げ出した。
「何があったんです?」
倒れこんだ入鹿の顔に、自らの顔を近づけて、片岡はずずとその瞳を覗きこんでくる。
「何ってわけじゃないんだ…」
説明下手な入鹿だから、余計にこのもやもやした思いを言葉にするのは難しい。
日照りになった。このまま行けば凶作は免れない。天の上のことなど、いかに国の最高権力者といえど、力の及ぶ限りではない。それでも馬子は必死に空に足掻いている。雨乞いの呪術者を呼んだり、灌漑を新たに作ったり、時には自慢の池の水運ばせたり。
それでも民の怨嗟は蘇我に向かうのだ。声なき声。悪意なき悪意。無責任に、無秩序に。
それもこれも、聖なる厩戸皇子の逝去に拠るもの、と民衆の中では、そんな声も聞かれるという。
暗に現大王と大臣への批判も込めたものであるのか。
ばかを言うな、と根拠のないたわ言を囁く耳に怒鳴りつけたいくらいだ。。
たった一人の存在の有無が、この国の存亡に関わるような、それ程大きいわけがない。森羅万象を司っていたわけでもあるまい。
昨年、厩戸皇子が身罷られて、今年日照りが続いた。それだけのこと。何の因果もないはずなのに、わざわざ結びつけて吹聴する者の存在。
いちいち突き止めることは出来ないが、何処から誰が洩らしているかもしれぬのに、簡単に広まる話なだけに厄介なのだ。事実馬子も、暑さより日照りより、この形なき声に参ってる節が在る。
先ほどの山背の鎌子への厚遇が許せなかったのは、東奔西走してる馬子を見てるからだ。楽なところで手を汚さず、気まぐれな施しで祭り上げられる山背に、声を荒らげてしまったのだ。
「うちは敵が多い、って話」
諸々の事情も思いも取っ払って、入鹿は端的な言葉だけを片岡に伝える。
「よく、わからないのですが」
さっきまで入鹿を追い詰めようと炯々と輝いていた瞳が、戸惑いに揺れて、大きく見開かれる。
聡く勝ち気で納得行かないことは、徹底的に追及する。およそ女性らしからぬ性分は、時に入鹿の手に余す。
いくら従兄弟の山背に会いに行っているのだ、という言い訳を用意していても、不自然さから秘密は幾らでも漏れる。どうやら、永刀辺りに真相を聞いたらしい父は、未だにこの件に関しては沈黙を守ってる。
(てっきり、僭越だ身の程知らずだと叱責を受けると思ったのに)
しかし、別れろ、とも言われないものを、入鹿の方からわざわざこれでいいのかと伺いを立てたりはしない。
陽の当たらない恋。山背だけが冗談めかして、『何も、こんな難しい立場の女、選ばなくても他にお前なら、幾らでもいるだろうに』そんなことを言ってくるが、取って代われる女なんか。
「いいよ、もう。こんな話をしにきたわけじゃないんだ」
腕を伸ばして、愛しい恋人の温もりを腕に閉じ込める。
「じゃあ何をしに?」
そっと入鹿の胸に手を置きながら、真顔で聞いてくるのが、いかにも彼女らしい。何処までも要求される言葉を、常の彼なら面倒だと投げ捨てるのに、彼女に対してだけは誠実に饒舌にありたいと願うから不思議だ。
「――片岡に会いに」
返事の代わりに片岡が漏らした吐息を、入鹿は自分の唇で受け止める。重ねあった身体を反転させて、片岡の背中を床に横たえて、くちづけを解くと、真下から漆黒の瞳が入鹿を射抜く。
「私は、入鹿の味方ですから。何があっても、最後まで」
取って代われる女なんかいない。何処にも。
◇◆◇◆◇
雲がひとつも無い青い空を、鎌子は見上げてから、門前に立つ人を振り返った。
麻の着物を荒縄で結んだだけの着物。その一張羅さえ、旅の垢にまみれ、裸足。こんな自分を、屋形にあげて、食事を恵み、着物を替えさせ、暖かな寝台に寝かせ、今こうして、見送りに立つ。
よっぽど、この宮の主の山背王という人は、お人よしと見える。
感謝よりも、寧ろ呆れた思いが、鎌子の脳裡を支配する。
(人は信ずるものではない)
十になったばかりの鎌子の、長くもない人生で、得た教訓がこれだ。
せっかく、中臣氏の娘に生まれながら、母は何処の馬の骨ともわからぬような父と共に飛鳥を逃げ、そして辿り着いた常陸国鹿島の地で、自分が生まれた。
生まれてきた鎌子にしてみれば、こんなに迷惑な話はない。
自分の身丈が伸びて、手足がつんつるてんになったままの着物、一度も満腹など覚えたこともないような質素な食事、屋根に葺いた茅から、雨が降れば、水が滴り落ちてくるような粗末な家。そして、こんなはずではなかった、と、慣れない暮らしに、愚痴ばかりこぼす母と、その母に乱暴ばかりする父。
こんなはずじゃない、と罵りたいのは自分の方だ。
誰も教えもしないのに、文字を読めるようになった自分を、母は中臣の血をひいているのね、と喜び、父は疎ましげに見た。
そんな父と母は、はやり病で殆ど同じ時期に、相次いで亡くなった。
父母の死を悲しむよりも、鎌子は自分の人生の転機が来たと、胸が震えた。
猫の額のような田畑にも、吹けば飛ぶような家にも、彼はなんらの未練も残さず、家に残っていたありったけの食べ物を持って、大和国を目指した。
彼の人生に光を与えてくれるかもしれぬ存在を頼って。
御気古は、母の兄で、鎌子にとっては伯父に当たる。家出した不肖の妹を憂いて、わざわざ鹿島に一度だけ訪れてきた。
眉が八の字に垂れ下がった、見るからに人の良さそうな中年の男で、鎌子に「腹は空いていないか」と言って、飛鳥から持参した珍しい雉の肉を干したものを与えてくれた。
かの人ならば。
自分の未来も、また違う輝きを放つのではないか――。夢想とも野心ともつかぬ、その想像に彼は取り付かれた。
年端もゆかぬ少年の一人旅。世話焼きな人は、何処にでもいるのもので、あちこちで施しを受けたり、宿を借りたりしながら、鎌子は漸く大和国まで辿り着いた。
喉を潤し、川辺で寝転んで休息を取っていたところを、行き倒れの者と勘違いして、助けたのが山背王だった。
「何から何まで、ありがとうございました」
丁重に言って、鎌子は深ぶかと頭を下げた。
「三嶋までの道のりは僅かだが、くれぐれも気をつけろよ」
山背は親身になった言葉を、鎌子に掛けた。
「はい、勿論」
「なあ、何か荷が大きくなってないか」
いつ現れたのか。傲然と山背の横に立ち、鎌子の背に負った荷に、訝しげな視線を送ったのは、昨日も山背の横にいた男だ。
彼は誰なのだろう。鎌子は、上目遣いにそっと、男の姿を覗き見る。
昨日も、この男は、山背の横で、その優雅な貌に似合わぬ鋭すぎる視線を、絶えず鎌子に送っていた。
「荷は、俺が少しばかりの食料を持たせたんだ。三嶋まで、困らぬように」
山背が鎌子の代わりに、男の問いに答えた。
「それだけ?」
「後は、新しい着物を頂いたので、古いぼろきれのような着物も中に入っています」
「ふーん」
鎌子が付け足しても、彼の視線は、一向に和らぐことなく鎌子と、その背の包みに降り注ぐ。
「ちょっと、見せて」
そう言うが早いが、男は鎌子の胸元に手をのべて、くくりつけられた荷の結び目をさっと解いた。
背中からずり落ちそうになるそれも、素早く手の中に収めて、中を検分して、勝ち誇ったように笑った。
「これも?」
その手に握られていたのは、勾玉の首飾り。それに、翡翠の耳飾。鳥皮で作られた靴が二足。ぼろぼろの風呂敷には、眩しすぎるほどの不相応な品物が紛れ込んでいた。
全て、鎌子が昨夜遅くなってから、人気のない部屋に忍び込み、物色し、勝手に荷に加えたものだ。
「……!」
流石の鎌子も咄嗟には言葉が出ずに、現実から目を逸らそうと、固く、その細長い目を閉じた。が。彼の耳に届いたのは、まるで地獄で聞いた釈迦の声。
「いいんだ、入鹿。御気古殿への土産に…と、それも持たせたんだ」
入鹿と呼ばれた男の瞳が大きく見開く。山背の言葉を、真っ向から否定したいのだが、それを証し立てるものがない。そんな悔しさを滲ませて。
「山背」
批判に満ちた眸で見るのが精一杯だった。
「引きとめて済まなかった、鎌子。早く行け」
入鹿の手から、首飾りを奪い、再び鎌子に返すと、山背は追い立てるように、鎌子を門の外に出した。
鎌子も、これ幸いとばかりに、足早に立ち去ろうとする。その素早さはまさしく逃げ足、と言っていい。
「ばかだ、あんた」
鎌子の姿が、遠く小さくなってから、絶望の呟きを、思ったままに口にして、山背の肩をぽんと叩いてから、入鹿は斑鳩宮の母屋に歩を進めた。




