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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第2章 見えない楔
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東国の少年(前)

623年 夏

 雨の降らぬ夏だった。

 干からびた田は地面に亀裂を作り、その土から顔を出している稲の穂は、見るからに軽く中味が詰まっていない。

 実りの秋を迎えても、これでは幾らも米の収穫はないだろう。

(飢饉になるよなあ)

 入鹿は、馬の背に揺れながら、乾いた大地にため息をついた。

 井戸も、枯れかけ、田に水を引く灌漑では、連日あちこちでどの田に水をひくかで、争いが絶えぬという。

 陽射しは容赦なく田を畑を照りつけ、夕刻になって吹き抜ける風も熱く、とても涼を感じるどころではない。

 畑仕事の最中に、村から村への往来に、熱波によって、倒れる者は後を絶たぬという。

(確かに…)

 入鹿は、斑鳩に向かう道すがら、生駒の山に消えていこうとする日輪を、むしろ恨めしげに眺めた。

 西日に傾いても、未だその勢力を誇示するように、気温は下がらず、涼を運ぶ一陣の風すら吹かない。

「どうされましたか」

 駒を止めた入鹿を、不審げに永刀が見た。

 片岡に逢いに行くだけだから、一人でいいと言うのに、毎度毎度無粋なこの従者はついてくる。

 自分の方が、遥かに上背も剣の腕も上なのだから、用心棒にもなりはしないのに。

「いや、何でもない」

 永刀の杞憂を苦笑して、入鹿は再び駒を進めた。



 斑鳩宮の門前は、ちょっとした騒ぎになっていた。

 主である山背王が、大きな荷物を抱えて、戻ったというのだ。

 小治田オハリダ宮に朝参し、いつものように筋違い道を馬で駆けていたところ、丁度中ほど、の辺りで、倒れている少年を拾ったというのだ。

 舎人と共に、抱きかかえるように馬に乗せ、戻ってきたのが、先ほどで、入鹿と入れ違うように宮の中に入ったらしい。

 筋違い道なら、入鹿も通ってきた道だ。

 少し時間が狂っていたら、自分がその少年に出くわしていたかもしれぬ、ということか。

(物好きな)

 行き倒れの少年なんて珍しくもなんともないものを。

 入鹿は呆れながら、挨拶がてら山背の部屋を覗いた。

「何だ、入鹿来ていたのか」

 汚れてしまった着物を取り替える為、采女をふたり、かしづかせながら、山背は屈託なく笑った。


 常陸ヒタチの国からやってきたという少年は、鎌子と名乗った。


 用意された粥を、瞬く間に五杯もぺろりと平らげて、深々と頭を下げる。

 道端に倒れこんでいたのも、疲労や衰弱ではなく、空腹からきたもののようで、腹を存分に満たした後では、山背の問いにもスラスラ答えた。

 東国の訛りはあるが、少年の答えは、簡便で明快。彼の頭の良さが窺えた。

 十になったばかりだというのだが、体躯は骨太で逞しく、声も大きい。見た目よりも年かさに思える。

「そなたのような年端も行かぬ少年が何故飛鳥まで」

 山背の問いに、鎌子は胸を張り、誇らしげに答えた。

「はい、中臣の御気古ミケコさまの元に…と思いまして」

「中臣?」

 思わず、入鹿と山背の声が重なった。

 中臣は、人と神との間――という意を持つカバネ。神祇を司る一族だ。

 日本古来の神を奉じる彼らと、異国の宗教、仏教を篤く信仰する蘇我氏とは到底相容れない。

 今は蘇我の権勢が強すぎて、中臣氏は及ぶべくもないが、鞍作の祖父、馬子の若かりし頃には、物部氏と組んで、散々に仏教を理由に、蘇我を排斥しようとしていた氏族だ。

 祖父から、そんな昔話を聞かされてきたふたりである。

 当然、胸にわだかまりは覚えたが、鎌子の堂々とした態度に当てられて、それを口にすることは出来なかった。

「何故、御気古の元になど」

「御気古さまは、私の母の兄に当たります。父も母も失くし、縋れるお方が私にはもうあの方しか残っていないので」

 悲壮な話なのに、涙を見せるどころか、俯くこともせず、鎌子ははきはきと語る。

 寧ろ。中央に出てくる好機くらいにしか、思ってなかったりして。

 そんな穿った考えを入鹿に浮かばせる程、鎌子は堂々と見える。

 少年らしい物怖じしない態度。そして。

 少年らしからぬ老成した眸の光。

(胡散臭い野郎だなあ)

 大体、御気古の身内って、彼の口が語るだけで、証明できるものなど何もない。

 隣で親身になって、身の上話を聞いている山背にも呆れながら、入鹿は溜息をついた。


「この度は、危ないところを助けていただき、真にありがとうございました。このご恩は一生忘れません。それでは…」

 恭しく床に額をこすりつけんばかりに礼をして、鎌子は立ち上がろうとした。が。その彼を、山背が引きとめる。

「今から御気古のおる三嶋まで行くというのか? 奥に寝所も設えたから、今宵はゆっくり休み、明朝立てばいいのではないか?」

「しかし」

 安堵の表情を見せながらも、山背の厚意を鎌子は一旦は辞退した。

「一日くらい、到着が遅れてもどうということはなかろう。それこそ、入鹿、そなたが送っていってやったらどうだ」

 山背の提案に入鹿の苛苛は頂点に達した。

「断固断る」

(冗談じゃない)

 行き倒れ寸前の旅の童を、わざわざ宮まで連れて戻り、施しを十分に恵み、一夜の宿を施すだけでも、山背の行為は常軌を逸している。

 中臣氏自体は歴史と格式を持つ家柄だが、常陸くんだりからやってきた、本当に身内だか遠縁だか確かめようもない少年にまで、これほどの厚遇を与えることはあるまい。

 山背が目配せをすると、傍に控えていた采女が立ち上がり、鎌子を誘導して、部屋を出た。

 その背中を見送ってから、入鹿は切り出す。

「山背、いつもこんなことをしているのか」

「こんな事とは?」

 とぼけているのか、山背は逆に入鹿に質問を返す。

「行き倒れの旅人に粥を恵んだり宿を貸したり…だよ」

「いけないことか?」

 尋ねながら山背は一向に悪びれてはいない。

 貧しい者を救うのだ、困っている者に手を差し伸べるのだ。賞賛されこそすれ、非難される筋合いはない、と彼の眸は己の正しさを疑わない。

「流石は、聖徳の誉れ高い厩戸王子の御嫡子様、仏の道に適った立派な行いでございます――なんて、追従はアホらしくて言えねえな」

「追従だと?」

 山背はカッとなった。

「あんたのその行動。確かに、尊くはあるだろうさ。助けられた者からは、称えられもするだろう。だが、一歩飛鳥の都を出れば、浮浪の民、行き倒れの旅人なんて、掃いて捨てるほどいる。あんたは、それらの者一人ひとりに、今のような手を差し伸べていくってのか」

「出来うる限りのことはしよう」

「そういうの、偽善っていうんだよ」

 入鹿はふっと、その形のいい口元を歪めた。

「考えてもみろ、あんたの行動によって救われた者がいる。その者が、あんたの行為を称え、他の者にも伝える。あそこに行けば救われる。そんな評判が広まってもみろ、あっという間に、斑鳩宮は貧民の行列に取り囲まれる。そして――」

 飛鳥で政務を執る者にとって、山背の行為はいかに邪魔くさく、迷惑なものになるのか、わからないのか?

 が、入鹿は最後まで言い終えることが出来なかった。

 手元にあった瑠璃の杯を、山背が入鹿に向かって投げつけたから。

「…っ」

 顔に向かって飛んできたそれを、入鹿は咄嗟に身を反らして避けて、ぶつかる対象を無くした杯は弧を描いて、勢いよく床に落ち、砕けて散った。

 脆くはかない音をさせ、粉々になった杯に、一同があっと息を飲んで、そして、静けさだけが広まった。次の言葉をどちらが発するのか、見守りでもするように。


 結局、派手に割れた杯の残骸の傍で。

「帰る」「帰れ」の大人気ない応酬に割って入って、ことを収めたのは片岡だった。

「偽善でも自己満足でも構わないじゃない。少なくとも」

 片岡は、兄と恋人の顔を交互に見ながら言った。

「あの少年は助かった。それだけのことでしょう?」



出てきた少年は後の有名なあの人です。

常陸出身は大鏡の説ですが、他はすべて創作。

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