晴れ渡る空
(相変わらず、人目を惹く男だな)
ふっと笑いが漏れるくらい、目の前の彼の姿は非の打ち所がない。5年の間に、自分を追い越した上背。無造作に後ろで束ねていた髪を挙げて、被った冠の下の、秀麗な眉目。その気品ある姿からは、想像もつかぬ辛辣な言葉が飛び出す、紅い唇も。
片岡が恋焦がれるのも無理はない、とわかってはいても、大事にしてきた妹を、まるで、野に咲く菫のように、たやすく手折った罪は許しがたい。
どう追い詰めてやろうか。山背が顎に手を掛け思慮してる間に。
「片岡と、二度と会うな、と命でも下す?」
入鹿は余りに先走った余裕のない問いかけをしてきた。
自分の感情を無理に覆うような、痛々しいまでに虚勢を張った笑みと声には、覚えがあった。
斑鳩に向かう当日の朝だ。
あの時も、片岡は感情を爆発させて、一人住み慣れた嶋の屋形から姿を消した。
誰にも見つけられなかった彼女を、探し出してきたのが、入鹿で、ふたりは手を結んで戻ってきた。固く握り合った手を解き、片岡は屋敷のうちに入っていく。無言の別れ。その寂しさを堪えるように見せたのが、さっきと同じ表情だった。
地面に崩れ落ちるように座り込んだ入鹿は、きっと泣いていたのだと思う。
彼が立ち上がるまで、まだ小さく細かった背中を、叩いてやった記憶がある。
無理やり引き裂いた絆。それでも入鹿は何度か斑鳩宮に足を運んだ。乗り付けない馬にしがみつくようにやってきた彼を、門前で追い返したのは、一度や二度じゃない。
片岡は病だ、不在だ、と見え透いた嘘をいて、その度に引き取らせたのは、山背なりの温情のつもりだった。
「お前、片岡をどうするつもりだ。叔父上は絶対認めないぞ」
女王が臣下の男の妃になった例はない。たとえ従兄弟であっても、たとえ蘇我の者であっても。
「知らないよ。父上の言い分なんて」
その名が出されたことに入鹿は煩わしそうに、舌打ちする。ほっそりとした首をやや右に傾げて、入鹿は傲然と言い放った。「誰に何言われても関係ない。片岡は俺のだから」
頑なな所有宣言は、まるで駄々っ子だ。
「片岡は、長谷に嫁ぐくらいなら、命を絶つそうだ」
弓月のような入鹿の眉が、きゅっと上がった。一瞬張り詰めた表情を、すぐに緩ませて。
「片岡なら閨に小刀の一つ二つは持って行きかねないな」
山背にも否定出来ない、物騒な言葉を入鹿は平然と吐き捨てた。実際やるだろう。長谷の妃になるのは『死んでも嫌』だと、訴えたのだから。
妹の盲目的な激しさは、ほとほと山背の手に余す。御せるのは入鹿くらいなのだろう。
先のない恋。身分違いの恋。誰からも認められず祝福もされない恋に、恋恋とするふたりは、山背の理解の範疇を越えてる。
全く理解出来ない。出来ないが、同時に羨ましくも思えるのだ。諭したところで無駄と諦めて、山背はふっと笑いをこぼした。
「片岡、連れてくる」
山背の敗北宣言に、入鹿はみっともないくらいうろたえた。
「え? え? ――いいの?」
期待に震える入鹿の声が上擦ってる。目線を下向かせ、自らの装いを確かめて、腕や胸元の埃を払う。舞い上がったその態度、片岡に見せてやりたいね。飛鳥一の貴公子が型なしだと、冷めた視線を送ってから、補足した。
「お前は俺の従兄弟で幼なじみだ。会いに来るのに不思議はないし、そのついでに妹の片岡に会っていったとしても、いちいち咎め立てる人はいないだろう?」
見て見ぬ振り。山背に出来る精一杯がこれだ。それでも十分なのだと、入鹿は歓喜の表情で、何度も首を縦に振る。
山背に導かれて入鹿の待つ金堂に入った片岡は、愛しい人の姿を見つけた瞬間走りだす。ぎゅっと抱きしめあって、互いの温もりを感じられることを、至上の幸福みたいに喜んでるふたりの姿を確かめて、山背はそっと金堂を後にした。
◇◆◇◆◇
昨日の春のうららかな陽光とは打って変わった冷たい雨が、空から降り注ぐ。屋根に庭先に打ち付けられる雨だれの音、湿気た匂い。常であれば、鬱陶しく思うものだが、今朝の片岡には関係ない。
「もう絶対離さないから」
熱っぽい入鹿の声も、囁きながら耳に頬に首筋に受けた唇の感触も、まだ鮮明に片岡の身体に残ってる。夢じゃないかと疑いたくなるくらい、夢の様な幸せな逢瀬。昨日から何度も反芻してる記憶はより濃く、時を置いてなお、彼女の中に浮かび上がってくる。
「これ、持ってて」
別れの際、入鹿は懐から小刀を取り出した。漆黒の鞘に、大きな碧玉が三つも嵌めこまれ、その周りにも装飾が施されている。飾り刀で実用性はなさそうだな、と思いつつ鞘から抜くと、三日月のように反り返った刃は、冴え渡った輝きを放った。その美しさに目を奪われ、細い指を刃先に当てようとしたら、入鹿に手を取られた。
「鋭利に研いだから危ないよ」
見た目のきらびやかさとは裏腹な鋭い刃。まるで誰かみたいだと、片岡は微笑む。
「これを私に?」
「護身のお守り代わりにはなるでしょ?」
入鹿は言って、刀身を鞘に戻してから、片岡に握らせる。「でも、これを使う事態になるような危ないことはしないで」
そう釘を差してきたのはもしや、殯宮で長谷に襲われた一幕を山背から聞いたのではないかと、ひやひやした。
「また来るから」
名残は尽きないけれど、次の約束がこんなに嬉しくて、こんなに安らげるものだなんて片岡は知らなかった。
「お前らには負けたよ」
兄の山背が呆れたように言いながらも、見守ってくれる立場になってくれたのも心強い。
昨日の出来事を思い出し、北叟笑んでる片岡が、傍目には奇異に移ったのか。
「片岡様…?」
比良が心配気に声を掛けてくる。
「あっ、ああ、なあに?」
緩みきった頬と、ぺちぺちと二回掌で叩いて引き締めてから、片岡は比良の方を振り返った。
殯宮での逢瀬は夢の様な儚さで、それきり会うことも叶わないまま。片岡がこの一年、どれほど切ない夜を過ごしてきたか、比良は知っている。涙のあとが片岡の頬についていた朝もあったし、笛の音だけでも彼の夜を思い出すのか、他の者が奏でる旋律をじっと聴き入ってることもあった。
だから幾らでも今の幸せに酔わせてあげたい。比良のささやかな願いすら、現実には難いのか。
「あの…」
比良は両手を前について、告げたくないひとことを述べる。
「舂米女王さまがお見えになられるそうです」
それまで春のひだまりのようだった片岡の表情が、一気に凍りついた。
◇◆◇◆◇
兄の妃が、片岡は好きではない。出すぎた真似をしない、控えめな態度でいながら、兄の耳に何事かを囁き、ひっそりとけれど、確実に、彼女は自分の思いを貫き通す。恐らく、表面に出すか出さないかの違いだけで、相当に舂米女王だって我が強く、気丈なはずだ。お人好しの兄が何処まで理解してるか、甚だ怪しいけれど。自分の母の遺骸のみを、父と共に葬らせたその一事でも、わかるじゃないか。自分本位の人間だと。
そして、長谷のこともまた然り、なのだろう。
「王族に連なる身分でありながら、易々と臣下の者に肌を許すなんて、上宮王家の女王としての、自尊心がおありですの」
挨拶もそこそこに、舂米はそう言って、片岡を面罵した。
滅多に自分と接点を持とうとしない彼女が、わざわざ立ち寄るのだ。話はそれしかないと腹は括っていたが、自分のことはいいとして、愛する人を下に見られるのは、やはり悔しい。
自分の弟と片岡を結びつけることに、躍起になっていた彼女は、どうしても、片岡が入鹿を選んだことが納得出来ないらしい。
易々…ではないし、自尊心だってある。
言い返したい思いを、片岡はぐっと呑み込んだ。
価値観が違うのだ。どんなに言葉を尽くしたところで、この人に、私の思いは届かない。
「出て、お行きなさい」
片岡が黙ってることに、舂米は自分の主張の正しさを確信したのか、更に強い言葉を片岡に投げかける。思わず片岡が顔を上げると、舂米の細い目が更に細く歪んだ。
「元々、貴女は斑鳩の地には来たくなかったそうじゃない? 『行きたくない』と泣いて、何処かに雲隠れしていたとか。丁度、いいじゃない。このまま、その者の元に走れば。長谷だって可哀想に、ここで貴女が他の男と乳繰り合ってるのを見たくはないでしょう」
「ち…」
女王らしくないのは、どっちだ。品性のない言葉遣いに、片岡は絶句する。
「あら、言葉が過ぎたかしら。ごめんなさい。貴女に合わせたつもりだったのだけれど」
私は身分低い男と乳繰り合った下品な女だってこと? 謂れのない暴言を身に受けて、じっと唇を噛み締めて耐えている片岡ではない。昨日入鹿に貰った小刀を、片岡は衣の上から握りしめた。
「出て行くのは嫌です」
入鹿の傍にいたい。離れてる今だって寂しい。でも、おめおめと逃げ出すような真似をするのも嫌だ。
(それにここには兄上もいる)
山背をひとりにはしておけない。人がいい兄を残しておいたら、この宮は舂米のいいようにされてしまう。
「…蘇我の者など選んだこと、いつか悔いる日が来ますよ」
不快な予言を残して、舂米は去っていく。
「片岡さま」
傍で聞いていても不愉快だったのか、比良は舂米の見送りさえ怠って、片岡のそばににじり寄った。
「大丈夫よ?」
心配そうな比良に片岡は微笑む。
身分や立場を乗り越えて、幼い頃からの想いを貫き通してしまった自分たちは、どうやら異端ではあるらしい。
晒される批判は甘んじて受けるつもりだし、その覚悟もある。逆風だって、いつか風向きが変わることも、やむこともあるのだからーー。
「私、強いから」
愛した人に愛されていること。それが、片岡の自尊心、そして強くいられる力の源だ。




