もうひとつの再会
厩戸王子の死から、はや一年が過ぎた。
主のいなくなった宮に、今年も春は訪れ、木々は可憐な花ばなを、その枝に競うように咲かせている。
今朝、斑鳩からの使者が、畝傍の入鹿の元を訪れた。
山背が彼の地に行って以来、一度も便りなど、お互い送りあったことはない。便りがないのがいい便り、とばかりに、過剰な狎れ合いを、まめな音信を厭うふたりだ。その彼が、初めて寄越した使者である。ただ事であろうはずはない。
「至急、斑鳩にお越し頂きたいと、山背王からの伝言です」
斑鳩宮の舎人なのだろうか、薄い茶の染めていない麻の着物、飾りの何もない腰帯。粗末な格好であったが、きびきびした身のこなしと話し方は、好感が持てる男だった。
いずれ来ると覚悟はしていた使者だったので、入鹿はすぐに「わかった」と短く頷いて、責務を果たした使いの男が、屋形を出たのを追いかけるように、自分も支度を整えようとする。
「山背様の御用向きは何なのでしょう」
斑鳩からの使いを珍しいと訝しんだのは、永刀も同じらしかった。しかも永刀には思い当たる節がまるでない。頻りに首を捻って考えこむ。
「さあ。言伝てなかったところを見ると、大したことじゃないんだろ」
入鹿は彼なりに見当をつけていた事実を秘したくて、永刀の憂いを跳ね飛ばすように言ってのける。だが、永刀は疑わしげな目線を遠慮無く主に向ける。
「本当ですか? あちらの采女に手をつけたりしてませんか?」
采女どころか、女王に手を出したなんてわかったら、お固いこの目付け役は卒倒してしまうに違いない。
「して…ないよ」
「どうして、永刀の目を見て仰せにならないんですか?」
うるさく詰め寄る永刀を振りきって、入鹿は屋敷を飛び出した。
思い当たる件などひとつしかない。
(片岡のことだろうな)
先年の殯の宮で、片岡と再会した。
5年ぶりの再会は、引き裂かれたあの日の感情を、あっという間に甦らせた。重なり合った偶然が、入鹿と片岡、どちらにも思慕の念だけを増大させ、理性を擲たせる。
抑制が効かぬ恋心に惑わされ、魔がさした。
手引きをした片岡の采女の緋良しか知らぬ逢瀬を、ふたりは持った。
明るみに出たら、身の破滅をも招きかねない禁忌を犯したことは承知してる。蘇我は飽くまで大王に仕える臣族。王家の姫を妻になど、持てようはずもない。
だが、後悔はしていない。山背への弁解も用意せず、厩舎に繋いであった鹿毛の手綱を引き寄せて、彼はひらりと馬上に跨った。
入鹿が斑鳩に向かうその間。呼び出した張本人の山背は山背で悩んでいた。
妹の片岡の発言は、全く衝撃的だった。
幼い頃よりの、従兄弟に向けられた淡い思慕の情は、兄である自分も知悉しているつもりだった。
だから、湧き上がった長谷との婚姻の話も、山背自身は是非にでもという熱心さはなく、ただ長谷と舂米の熱意にほだされて、はっきり否を言えずにいたのである。
のらりくらりと返答をかわす、兄であり夫である山背の態度に焦れて、舂米が遂に、片岡に詰め寄ったものらしい。
「春を待って、貴女は長谷の妃になるのです」と。
拒否権などなさげな宣告に、切羽詰った片岡が、自棄になって山背にぶちまけたのだ。
「入鹿と逢いました、互いの気持ちも確認してます」
凛とした声も姿勢も美しく、とても後ろ暗さはなかった。ふいの告白に、山背は虚をつかれた。
「お前…」
片岡の思いつめた表情を見れば、ただ、見かけた、言葉を交わした、程度のではなかろう。
気持ちを打ち明け、身体を重ね、契りを交わした、それを「逢う」と言っているのなら、つきまとうのは、もう一つの疑問。
(一体、いつ何処で…)
混乱している山背に、片岡は続けた。
「全部、私が悪いんです」
彼女の頬を流れる涙を、袖口に受け止めながら。
「そんなわけがあるか、いいから話してみろ」
促しておきながら、片岡が赤裸々に語りだした内容に。
(聞かなきゃ良かった…)
山背は後悔するのだが。
殯宮で、異母兄の長谷に、無理やり身体を奪われそうになったことに始まり、父の亡骸を安置した夜に、入鹿がこっそり御陵に来ていたこと。
彼が追悼の念で吹いた笛の音に、誘い出されるように殯宮を飛び出し、ばったり再会してしまったこと。
離れがたくて、そのまま朝まで共に一夜を過ごしたこと。そして、性急で強引な舂米の命まで…。
片岡は冷静に淡々と語る。
片岡は嘘はつかない。だから、この俄かには受け入れがたい告白も、真実なのであろう。だが、山背には重すぎて手に余す真実だ。
最後に。
「長谷の兄上の妃になるのは、死んでも嫌です。それくらいなら、一夜の逢瀬を胸に、自ら命を絶った方がましにございます」
などと、涙も見せずに、気丈に言われては、途方に暮れてしまうのは山背のほうだった。
それで、とにかくもう一方の当事者の話を聞きたくて、入鹿を呼び出したのだ。
彼が来るまでの間、山背は斑鳩寺の金堂に籠もって、瞑想に耽った。片岡の話を聞いたのもここであった。
父が作らせた薬師如来の静謐な視線の中で、山背は片岡の話を反芻する。片岡の話を信じるならば。
逢瀬はその夜ただ一度きりだという。
その後は、使者を介しての伝言、文のやりとりのみ。
片岡には、一生を賭けた夜だったとしても、相手の入鹿の側が、かりそめの一夜でないとは言い切れない。
幼い頃のふたりを良く知る彼としては。
(そうではあるまい)
と信じたいのだが、何せ5年も経っている。
そして、こと女に関する限り、蘇我の御曹司の噂はとかく芳しくない。まるで、蝶が花から花に移る如くに、あちらこちらの女の間を行き来している話は、飛鳥から遠い斑鳩の山背の耳にすら入ってくるのだから、相当有名なのだろう。
片岡が知っているかは確かめなかったが、恋は盲目。知ったところで、自分に向けられた睦言だけは、真実の囁きであったと、信じられるのが女性というもの。彼女の想いを断ち切る手段にはなるまい。
(どうしたものか…)
勢いで入鹿を呼びつけたはいいが、山背もまた彼に対する態度を決めかねていた。
送り出した舎人が戻ってきて、程なくして、入鹿はに金堂に現れた。即、馬を飛ばして駆けつけたのが、誠意だとでも言いたげな迅速さで。
乱暴に開け放たれた扉。彼が現れたと同時に差し込んだ外の光は、目眩を覚えた程に目映い。何度か目を瞬かせた山背には構わずに、入鹿は扉を閉めて、ずかずかとこちらに歩み寄る。
「久しぶり」
照れたような挨拶を述べる声も、自分を見下ろす上背も、すでに山背の記憶の中の彼とは全く異なっていた。




