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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第一章 葬送の笛
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光の夜と闇の朝

 いつから。

 そして、どこにどうして惹かれたかなんて、そんなこともう憶えていない。手を繋げば、何処までも走って行ける気がしたし、彼女が泣くと、自分まで泣きたくなる胸の軋みを覚えたし、笑ってくれるなら、どんなことだって出来る。

 たった一人の存在が、感情も感覚も揺さぶり続けて、彼を捉えて離さない。

 そんな気持ちを恋と言うのだと、知ったのは、いつだったのだろう。



 四方を覆っていたぬばたまの闇が、少しずつ朝の光に溶けていく。

(もう行かなくては)

 去りがたい思いを振り切るように、彼は立ち上がると、帯をしめ、太刀をつけた。

 片岡は、隣で眠ってしまっている。余程、眠りが深いのか身動ぎ一つしない。先程までの、淫らな行為など、まるでなかったかのような、あどけない寝顔で。


 無論、帰るつもりだった。


 微かに触れた唇の温もりに満足して、緋良に片岡を託して――。

 彼女の肩を掴んで、緋良の前に押しだそうとした時、片岡が、振り向きざま入鹿を見上げた。瞳いっぱいに溢れんばかりの涙は、言葉より雄弁に彼女の気持ちを訴える。

(離れたくない)

「ったく」、

 咄嗟に腕を引いて、胸に閉じ込めるように、抱き締めてしまったのは、愛しさが制御出来なくなったのか、その眸を見ていられなかったのか。

 助けを乞うように、入鹿は緋良に視線を向けた。

 が、緋良は片岡を諭すでもなく、すっと松明をかざし、殯宮の方に、彼を誘導するように歩き始めた。

 彼女は、飽くまで片岡の気持ちに寄り添うつもりらしい。僅かに残っていた理性が瓦解する。


 前の前の御代、のちの敏達天皇の殯の際に、皇后であった額田部王女に迫った穴穂部王子の(ためし)など、思い出すまでもなく、罪なことはわかっている。けれど、その罪の意識さえ、激情を焚き付ける火種の一つにしかならなかったら、もうどうしようもない。

 衣擦れの音さえ憚るような、口付けの合間の吐息さえ許さないような、静寂の中で、入鹿は片岡を抱いた。

 月の明かりが洩れるだけの、暗闇の中で、何度か片岡と目が合った。

 全ての行為を、この眼に焼き付けようとでもするような貪欲な光は、こんな場面でも変わらないのかと、入鹿は可笑しくなった。

「何見てる?」

「何も…というか、何でも。全部、憶えておきたいから」

「ばかだな」

 入鹿は笑った。視覚の記憶なんかよりも、肌の記憶の方が、時にずっと、鮮明で生々しいのに。

 抱きしめた肩の華奢なぬくもり。こぼれた吐息を受け止めた胸の熱さ。

 絡めた脚の吸い付くような、なめらかさ。

 羞恥と快感の狭間(はざま)をさまよう、言葉にならない声。全て、彼の体に残ってる。

(余韻に浸ってる場合じゃないか)

 片岡の瞼に口付けを落とすと、入鹿は部屋を出た。


「…ら、緋良」

 意識の向こうで、彼女の名を呼ぶ声がする。いつの間にか、柱にもたれかかり、緋良は眠ってしまっていたらしい。

「起こしてすまない」

 目を開けると、先程の少年の顔が間近にあった。

「俺は帰るから、後を頼む」

 隣の部屋をそっと覗くと、片岡はまだ眠っていた。

「目覚めた時、あなた様がおいでにならないと、片岡様は一瞬戸惑われませんか。夢だったのか現だったのか」

 隣にあった筈の温もりが、ふいになくなったのを知り、寂しくはならないだろうか。

 片岡の心情を思いやり、緋良はつい批判めいた口調になる。

「…それくらいの儚さの方がいいんじゃない?こんな場所での逢瀬なんて」

「けれど…」

「起きたら、きっと離れがたくなる。斑鳩に戻ったら、また逢いに行くって伝えて」

「わかりました…」

「あと、もし、何か俺に伝えたいことがあるなら、俺の屋形の永刀というものに託して。融通の効かない奴だけど、信頼はおけるから」

「はい」

 入鹿の言葉は、どれも片岡への優しさと愛情に溢れてる。頷きながら、緋良は意外な思いで、入鹿を見上げた。

「…何?」

「…いえ」

「次はないと思った?」

「はい…」

 屈託のない笑顔に釣られて、つい本音を漏らしてしまってから、緋良は焦る。

「い、いえ、そういうわけでは」

「行きずりかもしれない相手に、よく大事な姫を渡したね」

「一夜でもいい、と片岡様は思っておいでのようでしたから」

「片岡は、覚悟の決め方が、潔すぎるから。見てて切なくなるくらい」

(あ、わかる…)

 緋良も納得してしまった。大切なものは、いつも一つで、後は切り捨てて行ってるような生き方。ひどく潔くて、そして危うい。

「よくご存じなんですね」

「兄妹みたいに育ったからな」

 入鹿は、緋良の肩に、大きな手をぽんと置いた。

「何やらかすかわからないから、大変だと思うけど、片岡を頼む。気丈に見えるけど、本当は、そんなに強くないから」

 そう言い残して、入鹿は帰って行った。





 眼を覚ましたら、きっといない。自分の気配を全て消して、いなくなるだろうな、って。

 わかっていたのに、どうして瞳を閉じてしまったんだろう。


 片岡はガランとした、部屋を見回した。朝の光は、余す所なく、室内を照らす。見えぬものなど、ある筈もないのに、片岡はまだ探してしまう。闇の中には、確かにあった彼の姿を。


「――お目覚めですか?」

 片岡の気配に気付いたのか、緋良が入ってきた。

「入鹿は…帰った?」

「はい」

「そう」

 片岡は、感情を込めずに頷いた。

「斑鳩に戻ったら、また逢いに行く。もし、何か伝えたいことがあれば、入鹿様の屋形の永刀というものに、言付けてくれと」

「それ…、入鹿が緋良に言い置いて行ったの?」

 残していってくれたんだ。次に繋がる言葉と手蔓。片岡の瞳から、一筋の涙が零れる。

 昨夜の一夜があれば、後はどうなってもいいと覚悟は決めていたのに。

 片岡の身体と記憶にだけ残った、彼の温もりが、こんなに恋しくて、こんなに切ないなんて、思わなかった。

 「片岡様…」

 緋良がせつなげに片岡を見る。

 どれだけ心配かけたのだろう。昨夜も、緋良が入鹿を手引きしたんだよね、ここまで。誰かに見つかれば、緋良だって、只じゃ済まなかったのに。

 片岡はギュッと握った拳の中で爪を立てた。掌に刺さる痛みが、胸の軋みを忘れさせる。

 自分のことばっかり、考えてる場合じゃない。そんなんだから、入鹿に置いて行かれたんだ。

 置き去りにしようが、目の前で別れを告げようが、どうせ、片岡は泣く。

 だったら…と、緋良に伝言を残していった彼のやり方は、憎らしいくらい的確だ。

 だから、もう入鹿のことでなんか泣かない。

 片岡は、顔をあげて、緋良を見て微笑んだ。


「緋良、ありがとう」

 突然、掛けられた労いの言葉に、緋良は驚いた。

 さっきまで、夢の名残を探して、見つからなくて、迷い子のように泣いていたのに。

「気丈に見えるけれど、本当はそんなに強くない」

 入鹿は、緋良に片岡をそう評して去っていったけれど、緋良の眸には、逆に映る。

 脆そうで儚げで、危なっかしいのに、自分でちゃんと現実を見据える強さも持っている。

 迷って悩んで、でも、誰の手も借りないで、誰の言葉も聞かないで、片岡は自分の答えを見つけ出す。

 表に見える部分が、緋良と入鹿では違うだけで、どちらも本当の彼女なのだろうけど。


「ありがとう、なんて勿体ないです」

「だって、どうして…」

 みなまで言わない片岡の問い。でも、何を訊きたいかはわかる。

 どうして、自分達の恋に手を貸したのか。

「自分に重なったんです、片岡様の姿が」

 緋良は哀しく笑った。

 郷里には思う人がいる、って、橘郎女様がいってらしたっけ。

 緋良の切ない笑顔で、片岡は思い出す。

「えっと、じゃあ…」

「これ以上は、ご容赦ください」

 そう頭を下げた緋良の言葉には、秘密めいた真実の響きがあった。

 もしかして、緋良もこんな風に、誰にも明かせない夜があって。

 処女(おとめ)であること、が絶対条件の采女が、過去に過ちのあったことなんて知れたら、咎められるのは、本人だけではなくて。

 だから、伽なんて出来なくて、決死の覚悟で応じなかったのだとしたら…?

 愚かしくて激しい想い。

 緋良だから、わかってくれたんだ…。

「お前がいて良かった」

 片岡は、緋良の肩を両腕で抱き締めた。

「姫様?」

 恐れ多いと、緋良は片岡の腕の中でもがく。

「大丈夫。緋良は絶対、他の者には仕えさせない。お前の想いごと、私が守るから」

「そんな勿体ない」

「そしていつか、逢わせてあげる。その(ひと)に」

 片岡の瞳にも、緋良の瞳にも、涙が光っていた。





 後の歴史に鑑みれば。

 逢わない方が、逢わせない方が良かったのではないか…。そんな思いを、緋良は抱くことになるのだが。


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