再会
夢かと、思った。
と、いうか。夢でも妖かしでも良かった。
「いるか…」
「か…たおか?」
互いに名を呼び合っても、まだ現実の事とは信じられない。
「何でこんなところに」
沸き立つ疑問も、声がかぶさる。
「わ、たしは…、綺麗な笛の音に惹かれて」
けれど、夢ではないらしい。見誤りでもないらしい。彼は、はっきり片岡の名を口にした。
童形ではなく、一人前の青年として現れた約束の相手。それでも、表情や目元には、片岡の知る入鹿の名残があって、離れていた時間の長さを埋めるように、片岡は入鹿の姿を凝視してしまう。
自分を縫い止めるような片岡の熱い視線に、耐えかねたように入鹿は照れくさそうに笑った。
「そんなに見ないでよ」
「だって何で入鹿がこんなところに」
「片岡は?」
「わ、たしは…、綺麗な笛の音に惹かれて」
「それでわざわざ? よくも、こんな所まで歩いてこれたね」
入鹿は可笑しそうに笑いながら言う。
五年分の思い。
離れていた時間を、どう言葉で埋めようか、片岡は入鹿の眼を見つめながら、考える。
が、彼の瞳に引き結ばれた自分の姿が、ふっと消える。
「それでわざわざ?
よくも、こんな所まで歩いてこれたね」
入鹿は可笑しそうに笑いながら言う。
(わ、笑うことないのに)
悔しくて、ギュッと握った拳に力を込めた。
自分でも、突拍子もない行動だって、思ってるよ。あの音色を聴いた時、入鹿の顔しか浮かばなかった。そんな筈はない、と頭が否定しても、気持ちが足が前へ前へと向かっていくのを抑えられなかった。
(それを、わざわざ?こんな所?)
からかうようなその口調に、片岡は向きになって言い返す。
「入鹿のもののような気がしたの。何か呼ばれているような…」
「へえ」
片岡の言葉に、入鹿は眉を上げた。
「入鹿は何を?」
「厩戸皇子に最後の別れをしに」
入鹿は陵を振り返ってから、答えた。
「殯の儀式には出られなかったから、せめて…」
(こんな故人の偲び方もあるのか)
そういえば…と、片岡は記憶を手繰る。父は、甥にあたる入鹿を可愛がっていたっけ。
「父も喜んでいることと思います。続きを聞かせてもらえませんか」
「笛を聴かせるのはいいけれど」
勿体つけて、入鹿は笑う。
「俺、もの凄い不審な目で見られてるんだけど」
「あ…」
片岡が漸く振り返ると、不審そうな恨みがましそうな眸で、緋良がじっと片岡を見ていた。
「女にこんな眸で見られたのは初めて」
言葉の割に、怒りは含まれていない快活な口調で言うと、彼は笑った。
(さもあろう)
緋良は、改めて彼を上から下まで眺めた。
冠の下の、端正な顔立ち。片岡より、頭1つ高い上背。模様の織り込まれた絹折りの袍も、腰に差した刀も、緋良が見てさえ、一目で上物とわかる。憧憬とか羨望とか、そんな視線を浴びることはあっても、自分のように、不躾な視線を送る者は珍しいのだろう。
「緋良、この方は蘇我入鹿殿。嶋大臣の孫に当たるわ」
片岡は、そう彼を緋良に紹介した。
蘇我の若君。片岡の説明に、緋良の脳裡に、系図が展開する。片岡の祖父も嶋大臣馬子なのだから、二人は従兄の関係になる。
けれど、血の繋がりだけの関係には、見えない。片岡が想いをかける相手だということも、容易に察しがついた。
「ええ。ずっと、逢っていないから、向こうはもう私のことなど、どうでもいいのかもしれないし、この先も逢えないままかもしれないけれど」
先日橘郎女に片岡が語っていた台詞がすんなりと脳内にこだまする。離れても忘れ得なかった彼が、きっと今、片岡の真ん前にいる彼なのだろう。懐かしさの匂う声。過去を眼前に引き寄せんとでもするような遠い眼差し。大王の血を引く女王でも、誰かを恋う気持ちは、緋良ら下々の者と変わらない。そう知ると、急に片岡が近しく思えて、橘郎女のやや押し付けがましい提案にも、乗ってしまったのはその為だ。
「緋良」
片岡が緋良の手をひいて、入鹿の側を離れる。
「お願い。先に戻っていて」
命令と言うよりも、懇願に近い、片岡の声の必死さ。
「二人で話をしたいだけ。お前に迷惑掛けるようなことにはしないから」
「けれど…」
片岡の恋心は、手に取るようにわかる。
(何とかして差し上げたい)
そうは思うが、この場合何をどうすれば、片岡の為になる?そもそも、片岡の恋情を受け止められる男なのか、緋良には、入鹿の度量も気持ちも量れない。
ふいに頭上に影がさす。
見上げると、雲が月を覆い始めている。緋良の手にした松明の火は、短く小さくなっていく。じりじりと燃える炎は、まるで片岡の心の中のようだ。
早く決めなきゃ。月夜が闇に覆われる前に。燃える火が、尽きてしまう前に。
「片岡」
女同士の密談に、水を差す入鹿の声が響く。
「暗くなってきた。戻ろう。送るから」
残酷な入鹿の言葉に、片岡の黒目が揺れる。緋良のほうが男の無神経さと鈍感さにひやひやした。
「…いやです」
低い声で、しかしはっきりと片岡は拒絶の意を示した。
「また来るよ」
駄々をこねる子どもや妹をあやすように、入鹿は優しく言う。けれど、そのひとことが更に片岡の気持ちを逆撫でした。
「信じません。そんなこと言って、一度も逢いに来なかったくせに」
一年目は信じて毎日待っていた。二年目になると、彼の言葉の信憑性を疑い始め、三年目には諦めて、四年目は忘れようと努力した。もう埋み火みたいな小さな炎だったのに、彼に会えたことでたやすく再燃し、今また片岡の胸に燃え盛っている。入鹿に引導を渡されない限り、きっと消えない。
彼の今の気持ちを確かめない限りは、「じゃあまた」などど諾し、手を振ったりすることは片岡には耐えられなかった。
「…行ったよ」
不貞腐れて入鹿が言う。
「え?」
初耳の事実は、片岡の耳にはすんなりと入っていかず、彼女は聞き返した。すると入鹿は同じことを、もう少し詳細に語りだす。
「何度も行った。けど…その度に追い返された。子どもじゃないんだから軽挙に走るな、って。厩戸王子にも諭された」
「嘘…」
だってそんな話は父からも兄からも聞いたことがない。呆然とした片岡の呟きに、入鹿は口元を歪めて、更に彼女がのけぞることを囁いた。
「長谷の后になるんだろ?」
瞬時に片岡の肌がぞぞと粟立ったのは、耳打ちされた内容もだが、先日の暴行が体内の隅々まで蘇ってしまったからだ。耳や項を赤く染めた羞恥に、入鹿は何かを感じたらしい。
「もう、とっくにあいつに抱かれた?」
「ばかなことを…」
言わないで、と断固否定しようとしたのに、入鹿は片岡の二の腕を両脇から掴んで、彼女を真正面に見据える。
「他の奴のものにならないで、って。俺、あんなに言ったのに…」
弱々しい声で言い、瞳は彼女の裏切りを責め立てるように揺れる。
(何、勝手に傷ついてるの?)
いかに事情があったからって、約束を反故にしたのは、自分だって同じなのに。勝手だって詰りたいのに、出来そうもない。5年も放置しておきながら、まだ自分を束縛する入鹿の気持ちが嬉しいなんて。
「長谷の兄上の后になんて、未来永劫になりません。だって、私は…」
縋るように彼の前に出した手を、覆うように握られた。5年ぶりの彼の手は、大きくて熱い。一度離れた手もまた繋ぎ直せるように、心もまた結び直せるだろうか。
「小さくなった?」
久しぶりに繋いだ手が、入鹿は照れくさいのかおどけて笑う。その目にもう妬心の炎は燃えてない。そうそう、この気まぐれさも変わってない、と昔の彼の面影を見つけるのが嬉しい。
「入鹿が大きくなったの」
「そっか」
身長差を確かめるように、入鹿は片岡の額にこつんと自分の額を当てた。
「さっきの続き…言ってよ。だって、私は…何?」
「い、言いたくありません」
「俺は聞きたい」
「どうして私が入鹿の願いを聞き入れなくてはいけないの?」
あー、またやっちゃった。この理屈っぽさ、橘郎女がここにいたら、袖で顔を隠しながら、くすくす笑うに違いない。けれど長年の付き合いの入鹿は片岡の御し方を心得てる。
「俺の願いを叶えられるのは、片岡しかいないから」
殺し文句だ、こんなの。
「だって私は…私が好きなのは…入鹿だから」
「俺も」
甘い言葉のあとで、入鹿の唇が片岡のそれに降りてきた。
優しくて柔らかい感触が、片岡の心を充たしていく。
好きな人に、触れられると、こんなに暖かくて嬉しい気持ちになるんだ。そして。同時に同じだけの切なさも。
(どうして、わかっちゃったんだろう)
愛しさと、さよならを伝える為の口付けだって。彼の唇が別れを告げるまで気付かなければ、せめて、唇が離れる間までは、幸せな気持ちでいられたのに。
いろんな想いで、飽和した胸の内から、溢れ出てしまった感情が、涙になって、片岡の瞳に溜まる。
(泣きたくないのに)
せめて、涙を零したくなくて、上を向いたら、入鹿と目が合った。
「ったく」
そう聞こえたのは、空耳だったのか、気がつくと、片岡は入鹿の腕の中にいた。




