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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第一章 葬送の笛
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月夜の笛

622年2月

「本当に行かれるのですか?」

 入鹿の意図に驚くのみならず、毛人様に止められたのに、と永刀はまたしても、余計な一言を付け加えた。普段なら聞き流せる差し出口が、妙に癇に障った。

 落としてた地図から目線を上げて、永刀を睨めつける。

「以前から尋ねてみたいと思っていたが、ひとついいか? お前の主は、父か俺か――」

 答に窮した永刀の視線が泳ぎ、飲み下した唾に喉仏が上下する。永刀の困惑は、傍目にも明らかだ。普段仕えてるのは入鹿だが、そもそも入鹿に仕えよ、と永刀を彼の元に遣ったのは毛人だ。どちらも敬い、大切に思っている。謹厳実直、生真面目な永刀の性分からすれば、一方を選ぶのは難いし、不忠な気がした。

「…わかった」

 長い沈黙が答えだと入鹿は断を下したのだろう、ふいに淋しげな笑みをこぼして、そのまま永刀から視線を逸らした。

「父に告げるなら告げよ。俺は俺で勝手にするから」

 しまった、と永刀は臍を噛む。

 居丈高なくせに繊細な、この主を傷つけた、と思ったのだ。迷うことなく自分を選ぶと、予想して…いや、期待していたのかもしれない。資質も身分も人が羨むほどに持っていながら、入鹿はいつも満たされない風情だ。望んでるものはこれじゃない…と言いたげな。

 そんな入鹿の闇の深淵を覗き、ぽっかり空いた空洞を埋めるのも、自分の役割ではないのか。

「た、大郎君っ」

 向けられた背中に呼びかけて、すかさず足元に擦り寄って跪いた。

「わ、私もお供させてください」

 振り返って永刀を見下ろす眸は、永刀の真意を見定めるように、鋭く光る。

「来なくていい。ひとりで行く」

 そして入鹿は永刀を拒絶した。このままでは、溝は埋まらないままだろう。危機感を覚えて、永刀は必死に叫ぶ。まるで、去っていく恋人に愛を訴えるような、語る者と聞く者の温度差なのは承知で。

「私は大郎君のためなら、命を賭すことも厭いませんから」

 痛切で大仰な言葉に引いたのか、心が解れたのか、入鹿の視線が和らいだ。はっ、と呆れたように息を吐き出す口元は、心持ち上がっていた。

「…命は大事にしろよ。俺のためなんかに使ったらもったいない」

 背中越しに掛けられた言葉は恐らく本心で、だからこそ永刀はやはりこの主が好きだ。毛人には畏怖と敬意が混在するが、入鹿には情愛を覚える。

 繊細で脆くて、一国の大臣なんか預かる家の御曹司としては…優し過ぎる

 彼の不安定さは、与えられた物資と愛情の不均衡さ故なのかもしれない。永刀や嘉陽や、山背や片岡ですらも当たり前に享受してきた両親からの愛情、というものが、入鹿には殆ど与えられてない。身内の中で彼を盲愛してるのは馬子だし、止利なども親ばかに近い愛情を注いでいるものとは思うが…。

(大郎君が本気で愛して、大郎君を本気で愛してくれる存在が、早く現れればいいのに)


 ◇◇◇



 丘陵の上に、月が皓々と輝いている。

 春の夜の月にしては、冴え渡るような清冽な光は、ここに眠る人に相応しい。

 篝火の焚かれた陵の入口に入鹿は立った。

 墓を守る衛士の姿もなく、山の木々が風に揺れる音が響くだけの静寂が広がる。

 祖父馬子の話だと、厩戸王子の亡骸が葬られたのは、今朝のことらしい。

 亡くなってから、十日も立たぬ慌ただしさと、身内のみの参列という静けさの内に、彼の人は永遠の眠りについた。

 自己満足なのはわかっている。それでもどうしても、厩戸皇子に別れは告げておきたかった。

「聖なる太子」などと持ち上げずとも、入鹿には敬愛する伯父であり、目標の人物だった。

「いずれは、この国を唐と並ぶ国にしたいものだ。条理制を整えた、立派な都を作り、法を整備し、大王の命が北から南まであまねく行き渡り、皆が仏法を敬う争い事のない国に」

 厩戸皇子が何度か入鹿に語りかけた、理想の国の話を思い出した。

 どんな国が出来上がるのか、少年だった入鹿には想像もつかぬ、途方もない理想(ゆめ)に思えた。

 しかし、厩戸皇子ならば、実現し得るのではないか――と、胸を震わせたのも事実だ。


(この国は、どうなるのか)

 厩戸皇子という目標の光を失って、未来(さき)の見えない闇。

 手探りでも進みたい。闇を切り開いて、いつか自分が作りあげたい。

 厩戸皇子が理想とした国を――。

「だから…、天上からご覧ください」

 潤んだ声で、陵に語りかけると、入鹿は袍の合わせから、愛用の笛を取り出した。

 祈るような思いを込めて、そっと口を当てた。これくらいしか出来ないから、届いて欲しい。厩戸皇子の御霊にも。

 殯宮の何処かにいる片岡にも――。







 ◇◇◇


(笛の…音?)

 風に乗って流れてきた、その物悲しい旋律に、片岡は耳をすませた。

緋良(ひら)、あの笛はどなたが?」

「笛?」

 片岡に尋ねられて、緋良も耳をすませた。

 確かに、微かではあるが、幽玄な調べは、緋良の耳にも聞こえてきた。

 が、どなたが、と訊く片岡を満足させる答弁を、緋良は持っていない。

「さあ…、遊部(あそびべ)の者の吹きすさびでは」

 殯宮には、そう呼ばれる妓楽集団がいる。

 哀しみにくれる遺族の傍らで、明るく楽しい音楽で盛り上げる。

「でも、これ外から聴こえてくるわ」

 片岡は気になって仕方ない。

 そわそわと席を立って、回廊の方まで出てみるが、やはり、建物の中ではなく、外で吹いているようだ。

(好奇心が旺盛というか、何というか…)

 そんな彼女の行動を、緋良は観察するように眺めた。

 片岡の世話をするようになって、まだ3日。新しい主人のことは、まだよくわからない。

 そして、片岡の次の一言に、緋良は目を向いた。

「どなたが吹いているのか、確かめに行っては駄目かしら」

(い、いいわけないだろーっ)

 郷里の妹が言ったなら、頭をはたいて、首根っこ掴んで、部屋に連れ戻してるところだ。

(主人主人)

 呪文のように心で唱えてから、緋良は冷静に言った。

「およしなさいませ。こんな夜更けに、陵に出向くなど。禍々しきもののけでもいたら、どうなさいます」

「この笛は外で吹いているものだし、もののけに拠るものとも思えないわ。吹いているその人が、大丈夫なのだから、私たちも平気よ」

 にっこり笑って、片岡は通っているんだかいないんだかわからない理屈を並べた。

(こ、こういう姫だったとは…)

 緋良は、既に3日前の自分の選択を悔いていた。でも、今ならわかる。

 何故、橘郎女様が、自分の両手を強く握って「くれぐれも片岡殿をよしなに」と、念を押した意味が。

破天荒で無鉄砲、好奇心は旺盛で、確かにそういう姫でもなければ、野外で異母兄に襲われる…なんていう事態にはなりえないだろう。

「それに、父上の霊になら、逢ってみたいものだわ。お前が行かないのなら、私一人で行くわ」

 言いながら、既に片岡の身は、下に降りるための階へ向かっている。

 一人でふらふら歩いてて、受けた乱暴を忘れているのか、この姫は。

「お待ちください」

 一人でなんて行かせられるものか。緋良は慌てて、片岡を追いかけた。


 月の光が、片岡の行く道を照らす。そして、背後からは、緋良の持つ松明が。

 不思議な程、怖くなかった。片岡の心を占めていたのは、期待と確信。

 誰が?と、緋良に問いながら、片岡はとっくに笛の主の見当をつけていた。早鐘を打つ胸の鼓動に合わせるように、歩調を早める。


 ぼんやりと陵の前に焚かれた篝火が目に入る。

 その下に座り込んで、笛を奏でている人影は、自分と同じ年頃に見えた。

 人の気配に気付くと、彼は音楽を止めて、彼女の方に視線を向けた。

 互いの面差しを確認した二人が、声をあげたのは、ほぼ同時だった。


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