思わぬ味方
「絶対いや…」
吐き出す言葉くらいしか、抗う術がないのが哀しい。
「そのお気の強さも好きですよ。おとなしくしていれば、すぐに終わります」
片岡の背を片腕で抱きとめながら、長谷は足元の茂みに、彼女を横たえ、上衣を左右に引き裂いた。
この男には、蘇我の血が入った体さえあればいいんだ。心なんて、欠片も必要としていない。
そんな男に組敷かれて、体も心も、蹂躙されるくらいなら…
死んだ方がマシ。
舌に歯を立てて、ぐっと噛み切ろうとした瞬間だった。
「おやめなさい」
天からの声のように、片岡には思えた。
思わず、二人同時に声の方を振り返る。
凛としたその声は、父の妃、橘大郎女だった。
父の妃では一番新しく、一番若い彼女は、まだ二十代半ばを過ぎたばかり。
小墾田宮の額田部大王の孫娘にあたる彼女は、祖母譲りの、大きな瞳や唇、血色のいい肌。そして優雅な佇まい。
女の片岡でさえ、見とれてしまうような、華やかな女の魅力に溢れている。
「橘郎女様…」
長谷は慌てて、片岡の体にかけていた手を放す。
「神聖なる殯宮で、一体これは何事です、長谷殿」
「これは…」
橘郎女に詰問され、言い逃れは出来ないと踏んだのか、長谷は後退りしながら、その場を立ち去った。
「もう大丈夫ですよ」
放心状態で、身体を動かすことも出来ない片岡を、橘郎女は、優しい薫りのする袖で、ゆっくり抱き起こした。
「あ、ありがとうございます…」
「力ずくで女を、それも半ば血の繋がった妹を、我が物にしようなんて」
許せない、と橘郎女は、その形の整った美しい眉に、怒りを表した。
「悔しい…」
己が身を己が手で、守れないなんて。
「怖かった、とおっしゃらないところが、片岡殿らしいわね」
震える声で漏らした、片岡の呟きを、橘郎女は、包み込むような笑顔で受け止めた。
「殯宮だから何もないのだけれど」
前置きした上で、橘郎女が招き入れた部屋は、彼女の袖と同じ薫りがした。春先には爽やか過ぎる薫りが立ち込める。
橘郎女が目配せをすると、二人の采女が、片岡の傍らにかしづいた。
あっという間に、片岡の破れた上衣を着替えさせ、砂埃のついた裳を取り替え、その間に、もう一人が髪を結い直す。
全ての支度を終えると、大きな姿見を持って、片岡を映してくれた。
「見違えましたね」
満足気に、橘郎女が微笑む。これで、先程受けた暴力を忘れることは出来ないけれど、片岡の気分も晴れやかになった。
「ありがとうございます。でも、どうして…」
「人を助けるのに理由が必要なの?理屈っぽい方ね」
片岡の疑問を一笑に付して、橘郎女は片岡にある提案を持ちかける。
「ここにいる間は、私の隣の部屋に起居されてはどう? いつまた…」
言い掛けて、橘郎女はその美しい面差しに翳を作って、言葉を切った。
長谷のことを言っているのだろう。
「そこまで、御好意には甘えられません」
「でも…」
橘郎女は、頬に手を当てて、考え込む。袖口から現れた手指の細く長く白いこと。
(綺麗な人って、見えない部分も綺麗…)
彼女の仕種に見とれながら、片岡はぼんやりと全くどうでもいいことに、思いをめぐらしていた。
「あ、そうだわ、ねえ」
突然、橘郎女の声が高くなる。名案を思い付いた、と言わんばかりの、にこやかな顔。片岡はつい訊ねてしまう。
「どうされましたか?」
「この女、片岡殿のお側で使ってくださらない?」
そう言うと、橘郎女は椅子から立ち上がり、先ほど片岡の髪を結ってくれた采女を片岡の前に立たせた。
まだ、二十歳くらいだろう。広い額に、女にしてはつり上がったキリッとした眉。その下にある瞳も、意思の強そうな輝きを放っている。顔立ちは整っているが、美女という感じではない。
でも。
(いい眸をしてる)
媚びて片岡に笑いかけたりしない、彼女の態度を、片岡は好ましく思った。
「私のお側に…そんな訳には参りません」
彼女に惹かれるものはあったが、片岡は橘郎女の申し出を断る。
采女は、地方の豪族から献上された生きた貢ぎ物。大王や王族の身の回りの世話をしたり、時には伽の相手も務める。
そんな風に見初められ、子をもうけたりするのは、采女には名誉なこと。自分などに仕えてしまったら、彼女の未来は何もなくなってしまう。
「緋良と申しますの。年は片岡殿よりひとつ上の19になります。実は…」
橘郎女は、一旦言葉を切って、緋良を見つめた。これから話すことの了解を取っているのだろうか、含みを持たせた橘郎女の視線に、緋良は小さく頷いた。女主人との呼吸の合せ方を見ても、聡明な勘の良さを思わせる。
「実はこの娘、郷に恋しい人を残してきているそうです。初めは厩戸王子にお仕えしていたのですが、お声がかかってしまい、伽をするのは、どうしても嫌だと、私の所に泣きついて参りました」
「そんな」
片岡は、思わず緋良を見た。
(もったいない)
誰もがそう思うであろう愚かさと一途さ。咎めを受けるのも覚悟の上で、彼女が守ろうとしたものを、片岡は哂えない。
「厩戸皇子は笑ってお許しになり、以来、私がお預かりしている娘なんです」
「再び、逢えるといいですね、その方に」
自分の姿と重なり、つい、掛ける言葉も気持ちのこもったものになった。
「片岡殿は心に思う方がおいでなのね」
すっかり緋良に同情した様子の片岡に、橘郎女が尋ねる。自然に彼の姿が瞼の裏に浮かんだ。今日はよく入鹿のことを思い出す。
「ええ。ずっと、逢っていないから、向こうはもう私のことなど、どうでもいいのかもしれないし、この先も逢えないままかもしれないけれど」
繋いだ手が離れても、気持ちまで離れるわけじゃない。
あの言葉は、今も片岡の心に、宝物みたいに煌いているし、彼とのことを思い出すだけで、幸せな気持ちになれる。
「そんな方がいるのなら、なおさら、信頼できるものを近くに置いた方がいいわ。この娘が気に入らないのなら、他の誰でも構わないけれど」
「気に入らないなんてそんな」
「あら、じゃあ決まり?」
(ご、強引な)
橘の勢いに片岡はつい押されてしまう。伊達に、やり手と評判の大王の血、引いてないよ、この方…。
「でも緋良の気持ちも…。こんな風にあちこち盥回しされたんじゃ、気の毒ですわ」
「私は構いません」
今まで一言も発しなかった緋良の言葉に、片岡と橘郎女は目を見合わせた、
「構わないって?」
「あ、え、えっと…片岡さまに従います」
頬を紅潮させて、緋良は宣言した。
「…いいの?」
片岡は思わず念を押す。まだ赤い顔のまま、緋良ははっきりと首を縦に振った。
「じゃあ…よろしく」
「緋良、片岡殿を守って差し上げてね」
橘郎女は心の籠もった声で言う。親身になってくれているのが、胸を熱くするとともに、一つの疑問が湧いてくる。
「何故、そんなに私に良くしてくださるのですか?」
(また理屈っぽいと笑われるかしら)
けれど、片岡は確かめずにはいられない。
橘郎女にとって、片岡は他の妃の娘。先ほどのような場面を目撃し、同じ女として、同情しているのかと思っても、橘郎女の行為はその枠を超えている。
「嬉しかったの」
「え?」
「厩戸皇子の陵。美郎女との合葬に異を唱えてくれたのは、貴女だけだった」
橘郎女は、微笑んではいるものの、その表情は何処かさびしげでもあった。
(そうだ、この方は父の正妃。身分的には格下の后と、夫が並んで永久の眠りに就くなんて、面白かろうはずがない)
『ほぼ、同時期に亡くなったというだけで、何故菩岐美々郎女が、父と同じ陵墓に眠るのですか? しかも、そのことが、父の亡くなった次の朝には決まっているのでしょう』
納得行かないと、上宮の人々が集まった合議の場で、片岡は声をあげた。
父の正后は別にいる。菩岐美々郎女が、父と共に葬られるなど、僭越ではないのか。
だが結局、「菩岐美々郎女の為に、もう一つ墓を造るよりも、この方が効率的だ」山背の言葉に、片岡の意見は退けられた。
(兄上はわかっていない)
効率も大事だが、もっと優先すべきことはある。確かに、陵墓を造るには、労力も財も使う。無益に造れ、と言っているわけではない。
けれど、では何故労力も財力も惜しみ無く使い、こんな魂の入れ物を造るのか――。未来永劫に、その誇った権力を誇示する為ではないのか。
その箱の中に入るものが、祭祀を司る大王の孫でもなく、政の実権を担う大臣の娘でもない。
彼らがこの決定に、何を思うか、兄は考えないのだろうか。
「毅然として、素敵な姫だと思ったの。だから、気になさらないで」
大輪の花を思わせるくらい、艶やかな女性から、面と向かって、そんな風に言われて、片岡は返す言葉が見つからない。
「私のことは、姉のように思ってね」
重ねてかけられた優しい言葉も。
「は、はい…」
頷くのが精一杯だった。
◇◇◇
山の中腹を抉るように、開けつくられた石室。
工人たちが四人がかりで、その内に父の遺骸を収めた棺をじりじりと入れていく。
木棺が安置され、石室の入り口が閉じられた時が、本当の訣別の時。
(もう会えないんだな)
山背は猛烈に寂しさを覚えた。
無論、殯宮に収められていた亡骸とて、既に在りし日の父ではない。
だが、骸であっても、そこに存在はしていた。
が、陵に葬られてしまえば、永遠に触れることも見えることも叶わない。
今、彼を襲うのは、拠り所としていた者に、去られてしまったような、やり場のない空虚感だった。
(父という支柱を失い、この先我らはどうしていけばいいのか)
「山背王」
感傷的に棺を見つめる彼に、背後から声をかけた者がある。
咄嗟に振り向くと、境部臣摩理勢だった。
馬子の弟の彼は、山背の父厩戸皇子を尊敬し、厩戸の一族にも何かと世話をしていた。
父も「摩理勢は武辺者だが、裏がなくて気持ちがすがしい」と、褒めていた人物だ。
「境部臣殿」
懐かしくなり、山背の顔が綻んだ。
「偉大な人が、行ってしまわれましたなあ」
「人の命は儚いものです」
「全くです。あんなに優れたお方が、大王にもならずに、この世を去るなど」
摩理勢の発言に、山背は周囲を見回し、しーっ、と摩理勢を制した。
「大臣もおいでです。不用意な発言はおつつしみください」
山背が身を屈め、小声で摩理勢に注意するのを、待っていたかのように、摩理勢は更に際どい発言をした。
「厩戸皇子がなれなかった大王の御位。次は当然貴方の番ですな」
「な…」
大胆不敵な摩理勢の言葉に、山背は絶句する。
老いたりとは言え、大王はまだ健在なのだ。
しかし、迂闊な発言をしまいと口をつぐんだ山背に、摩理勢は更にかぶせる。
「不肖この摩理勢、王を大王にするためには、労苦を厭いません」
言いたいことだけを言うと、摩理勢はすっと人波に消えていく。
(大王…)
父がなれなかったから、私には、その資格がないと思っていたが…。
しかし、もしも大王になれたのなら。
(父を越えることが出来る…?)
一瞬去来した甘美な夢想を、山背は自嘲する。
多くを望むな、とは父の遺言でもあったではないか。この地で一族仲良く暮らす以上の幸せは他にあるまい。
なだらかな丘陵の上に広がった空を、山背は感謝と尊敬と畏怖の念を込めて見上げた。




