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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第一章 葬送の笛
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思わぬ味方

 

「絶対いや…」

 吐き出す言葉くらいしか、抗う術がないのが哀しい。

「そのお気の強さも好きですよ。おとなしくしていれば、すぐに終わります」

 片岡の背を片腕で抱きとめながら、長谷は足元の茂みに、彼女を横たえ、上衣を左右に引き裂いた。

 この男には、蘇我の血が入った(いれもの)さえあればいいんだ。心なんて、欠片も必要としていない。

 そんな男に組敷かれて、体も心も、蹂躙されるくらいなら…



 死んだ方がマシ。


 舌に歯を立てて、ぐっと噛み切ろうとした瞬間だった。


「おやめなさい」

 天からの声のように、片岡には思えた。

 思わず、二人同時に声の方を振り返る。

 凛としたその声は、父の妃、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)だった。

 父の妃では一番新しく、一番若い彼女は、まだ二十代半ばを過ぎたばかり。

 小墾田宮の額田部大王の孫娘にあたる彼女は、祖母譲りの、大きな瞳や唇、血色のいい肌。そして優雅な佇まい。

 女の片岡でさえ、見とれてしまうような、華やかな女の魅力に溢れている。

橘郎女たちばなのいらつめ様…」

 長谷は慌てて、片岡の体にかけていた手を放す。

「神聖なる殯宮で、一体これは何事です、長谷殿」

「これは…」

 橘郎女に詰問され、言い逃れは出来ないと踏んだのか、長谷は後退りしながら、その場を立ち去った。

「もう大丈夫ですよ」

 放心状態で、身体を動かすことも出来ない片岡を、橘郎女は、優しい薫りのする袖で、ゆっくり抱き起こした。

「あ、ありがとうございます…」

「力ずくで女を、それも半ば血の繋がった妹を、我が物にしようなんて」

 許せない、と橘郎女は、その形の整った美しい眉に、怒りを表した。

「悔しい…」

 己が身を己が手で、守れないなんて。

「怖かった、とおっしゃらないところが、片岡殿らしいわね」

 震える声で漏らした、片岡の呟きを、橘郎女は、包み込むような笑顔で受け止めた。



「殯宮だから何もないのだけれど」

 前置きした上で、橘郎女が招き入れた部屋は、彼女の袖と同じ薫りがした。春先には爽やか過ぎる薫りが立ち込める。

 橘郎女が目配せをすると、二人の采女うねめが、片岡の傍らにかしづいた。

 あっという間に、片岡の破れた上衣を着替えさせ、砂埃のついた裳を取り替え、その間に、もう一人が髪を結い直す。

 全ての支度を終えると、大きな姿見を持って、片岡を映してくれた。

「見違えましたね」

 満足気に、橘郎女が微笑む。これで、先程受けた暴力を忘れることは出来ないけれど、片岡の気分も晴れやかになった。

「ありがとうございます。でも、どうして…」

 「人を助けるのに理由が必要なの?理屈っぽい方ね」

 片岡の疑問を一笑に付して、橘郎女は片岡にある提案を持ちかける。

「ここにいる間は、私の隣の部屋に起居されてはどう? いつまた…」

 言い掛けて、橘郎女はその美しい面差しに翳を作って、言葉を切った。

 長谷のことを言っているのだろう。

「そこまで、御好意には甘えられません」

「でも…」

 橘郎女は、頬に手を当てて、考え込む。袖口から現れた手指の細く長く白いこと。

(綺麗な人って、見えない部分も綺麗…)

 彼女の仕種に見とれながら、片岡はぼんやりと全くどうでもいいことに、思いをめぐらしていた。

「あ、そうだわ、ねえ」

 突然、橘郎女の声が高くなる。名案を思い付いた、と言わんばかりの、にこやかな顔。片岡はつい訊ねてしまう。

「どうされましたか?」

「この()、片岡殿のお側で使ってくださらない?」

 そう言うと、橘郎女は椅子から立ち上がり、先ほど片岡の髪を結ってくれた采女を片岡の前に立たせた。

 まだ、二十歳くらいだろう。広い額に、女にしてはつり上がったキリッとした眉。その下にある瞳も、意思の強そうな輝きを放っている。顔立ちは整っているが、美女という感じではない。

 でも。

(いい眸をしてる)

 媚びて片岡に笑いかけたりしない、彼女の態度を、片岡は好ましく思った。

「私のお側に…そんな訳には参りません」

 彼女に惹かれるものはあったが、片岡は橘郎女の申し出を断る。

 采女は、地方の豪族から献上された生きた貢ぎ物。大王や王族の身の回りの世話をしたり、時には伽の相手も務める。

 そんな風に見初められ、子をもうけたりするのは、采女には名誉なこと。自分などに仕えてしまったら、彼女の未来は何もなくなってしまう。

緋良(ひら)と申しますの。年は片岡殿よりひとつ上の19になります。実は…」

 橘郎女は、一旦言葉を切って、緋良を見つめた。これから話すことの了解を取っているのだろうか、含みを持たせた橘郎女の視線に、緋良は小さく頷いた。女主人との呼吸の合せ方を見ても、聡明な勘の良さを思わせる。

「実はこの()、郷に恋しい人を残してきているそうです。初めは厩戸王子にお仕えしていたのですが、お声がかかってしまい、伽をするのは、どうしても嫌だと、私の所に泣きついて参りました」

「そんな」

 片岡は、思わず緋良を見た。

(もったいない)

 誰もがそう思うであろう愚かさと一途さ。咎めを受けるのも覚悟の上で、彼女が守ろうとしたものを、片岡はわらえない。

「厩戸皇子は笑ってお許しになり、以来、私がお預かりしている娘なんです」

「再び、逢えるといいですね、その方に」

 自分の姿と重なり、つい、掛ける言葉も気持ちのこもったものになった。

「片岡殿は心に思う方がおいでなのね」

 すっかり緋良に同情した様子の片岡に、橘郎女が尋ねる。自然に彼の姿が瞼の裏に浮かんだ。今日はよく入鹿のことを思い出す。

「ええ。ずっと、逢っていないから、向こうはもう私のことなど、どうでもいいのかもしれないし、この先も逢えないままかもしれないけれど」

 繋いだ手が離れても、気持ちまで離れるわけじゃない。

 あの言葉は、今も片岡の心に、宝物みたいに煌いているし、彼とのことを思い出すだけで、幸せな気持ちになれる。

「そんな方がいるのなら、なおさら、信頼できるものを近くに置いた方がいいわ。この娘が気に入らないのなら、他の誰でも構わないけれど」

「気に入らないなんてそんな」

「あら、じゃあ決まり?」

(ご、強引な)

 橘の勢いに片岡はつい押されてしまう。伊達に、やり手と評判の大王の血、引いてないよ、この方…。

「でも緋良の気持ちも…。こんな風にあちこち盥回しされたんじゃ、気の毒ですわ」

「私は構いません」

 今まで一言も発しなかった緋良の言葉に、片岡と橘郎女は目を見合わせた、

「構わないって?」

「あ、え、えっと…片岡さまに従います」

 頬を紅潮させて、緋良は宣言した。

「…いいの?」

 片岡は思わず念を押す。まだ赤い顔のまま、緋良ははっきりと首を縦に振った。

「じゃあ…よろしく」

「緋良、片岡殿を守って差し上げてね」

 橘郎女は心の籠もった声で言う。親身になってくれているのが、胸を熱くするとともに、一つの疑問が湧いてくる。

「何故、そんなに私に良くしてくださるのですか?」

(また理屈っぽいと笑われるかしら)

 けれど、片岡は確かめずにはいられない。

 橘郎女にとって、片岡は他の妃の娘。先ほどのような場面を目撃し、同じ女として、同情しているのかと思っても、橘郎女の行為はその枠を超えている。

「嬉しかったの」

「え?」

「厩戸皇子の陵。美郎女との合葬に異を唱えてくれたのは、貴女だけだった」

 橘郎女は、微笑んではいるものの、その表情は何処かさびしげでもあった。

(そうだ、この方は父の正妃。身分的には格下の后と、夫が並んで永久の眠りに就くなんて、面白かろうはずがない)


『ほぼ、同時期に亡くなったというだけで、何故菩岐美々郎女が、父と同じ陵墓に眠るのですか? しかも、そのことが、父の亡くなった次の朝には決まっているのでしょう』


 納得行かないと、上宮の人々が集まった合議の場で、片岡は声をあげた。

 父の正后は別にいる。菩岐美々郎女が、父と共に葬られるなど、僭越ではないのか。


 だが結局、「菩岐美々郎女の為に、もう一つ墓を造るよりも、この方が効率的だ」山背の言葉に、片岡の意見は退けられた。

(兄上はわかっていない)

 効率も大事だが、もっと優先すべきことはある。確かに、陵墓を造るには、労力も財も使う。無益に造れ、と言っているわけではない。

 けれど、では何故労力も財力も惜しみ無く使い、こんな魂の入れ物を造るのか――。未来永劫に、その誇った権力を誇示する為ではないのか。

 その箱の中に入るものが、祭祀を司る大王の孫でもなく、政の実権を担う大臣の娘でもない。

 彼らがこの決定に、何を思うか、兄は考えないのだろうか。



 「毅然として、素敵な姫だと思ったの。だから、気になさらないで」

 大輪の花を思わせるくらい、艶やかな女性(ひと)から、面と向かって、そんな風に言われて、片岡は返す言葉が見つからない。

 「私のことは、姉のように思ってね」

 重ねてかけられた優しい言葉も。

 「は、はい…」

 頷くのが精一杯だった。


 ◇◇◇


 山の中腹を抉るように、開けつくられた石室。

 工人たちが四人がかりで、その内に父の遺骸を収めた棺をじりじりと入れていく。


 木棺が安置され、石室の入り口が閉じられた時が、本当の訣別の時。

(もう会えないんだな)

 山背は猛烈に寂しさを覚えた。

 無論、殯宮に収められていた亡骸とて、既に在りし日の父ではない。

 だが、骸であっても、そこに存在はしていた。

 が、陵に葬られてしまえば、永遠に触れることも見えることも叶わない。

 今、彼を襲うのは、拠り所としていた者に、去られてしまったような、やり場のない空虚感だった。


(父という支柱を失い、この先我らはどうしていけばいいのか)


「山背王」

 感傷的に棺を見つめる彼に、背後から声をかけた者がある。

 咄嗟に振り向くと、境部臣摩理勢だった。

 馬子の弟の彼は、山背の父厩戸皇子を尊敬し、厩戸の一族にも何かと世話をしていた。

 父も「摩理勢は武辺者だが、裏がなくて気持ちがすがしい」と、褒めていた人物だ。

「境部臣殿」

 懐かしくなり、山背の顔が(ほころ)んだ。

「偉大な人が、行ってしまわれましたなあ」

「人の命は儚いものです」

「全くです。あんなに優れたお方が、大王にもならずに、この世を去るなど」

 摩理勢の発言に、山背は周囲を見回し、しーっ、と摩理勢を制した。

「大臣もおいでです。不用意な発言はおつつしみください」

 山背が身を屈め、小声で摩理勢に注意するのを、待っていたかのように、摩理勢は更に際どい発言をした。

「厩戸皇子がなれなかった大王の御位。次は当然貴方の番ですな」

「な…」

 大胆不敵な摩理勢の言葉に、山背は絶句する。

 老いたりとは言え、大王はまだ健在なのだ。

 しかし、迂闊な発言をしまいと口をつぐんだ山背に、摩理勢は更にかぶせる。

「不肖この摩理勢、王を大王にするためには、労苦を厭いません」

 言いたいことだけを言うと、摩理勢はすっと人波に消えていく。

(大王…)

 父がなれなかったから、私には、その資格がないと思っていたが…。

 しかし、もしも大王になれたのなら。

(父を越えることが出来る…?)

 一瞬去来した甘美な夢想を、山背は自嘲する。

 多くを望むな、とは父の遺言でもあったではないか。この地で一族仲良く暮らす以上の幸せは他にあるまい。

 なだらかな丘陵の上に広がった空を、山背は感謝と尊敬と畏怖の念を込めて見上げた。

 




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