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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第一章 葬送の笛
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殯宮

 厩戸皇子の御陵は、河内国磯長(しなが)山の丘陵に建てられた。


 斑鳩からは、四里程。近くには、厩戸皇子の父、豊日の大王(用明天皇)の御陵もある。

 元々は、厩戸皇子が、母間人皇后(はしひとこうごう)の為に、造らせたもの。

 まさかここが、完成するや否やのうちに、自分も妻も入ることになるなど、思いもかけなかったことだろう。


 山背や片岡らが、父の遺骸(なきがら)と共に、この磯長の殯宮に来たのは、三日程前だ。


 後ろに生駒の山を抱く斑鳩と、海が近い河内は、見える景色も、朝夕に吹く風の匂いも、全く違う。

 こちらの方が、広がる平野は大きいのに。

(この閉塞感はなんだろう)

 宮とはいいながら、仮拵えの狭い粗末な建物。そこに、上宮の親族20人余りが集い、遺骸の側で、故人を偲ぶ。けれど、他に為すこともなく、気晴らしになるものもない殯宮の中では、遊部あそびべと呼ばれる集団の奏でる音楽だけが、心の慰めだ。


 片岡は、ここに来てから、夕刻になると、この磯長の山の周りをぐるりと散歩するのが日課になっている。

 片岡の行動を咎める者もいない。

 日輪が山の頂を染めながら、少しずつその姿を隠して行く。

 茜色の空を、烏が啼きながら横切って行き、夜の訪れを告げる風が、片岡の裳の裾を撫でて行く。

 この地に入鹿は来ないらしい。

 過度の期待は持っていなかったつもりなのに、今朝方山背から言い渡された「入鹿は来ないぞ」という最後通牒は、思いの外片岡の心を沈めた。

 会いに行くから。あんな幼い頃の口約束も、想いも、後生大事に抱えてるのは自分だけなのだろう。

(嘘つきの薄情者)

 けれど、尽きぬ罵倒さえも、彼のことを思いきれない自分の未練の表れでしかない。

 諦めた方が、いいかなあ。でも、どうやって?

 恋の決着の付け方など、片岡は知らない。



 ◇◇◇


「――またふらふらと出歩いて…」

 回廊をを歩いていた舂米女王は、建物の外を歩く人影を見つけると、不快感を露にした声で呟いた。

「どうされました、姉上」

 彼女の後ろに付き従っていた男も、同じ方へ目をやる。

 涼しげな声が耳に心地よいこの男は、長谷王。舂米の弟にあたる。

 年は二十歳。

 姉と似て、細面の顔に、一重の切れ長の瞳。

 眉がやや濃く太く、鼻も大きいのが、姉との違いか。

「あれは――片岡女王?」

 意外そうに目をしばたかせる弟に、舂米は忌々しげに頷いた。

 階から庭に降り、あまつさえ敷地の外に出ようとしている。歩みは遅いが、足取りはしっかりしている。これで足元まで覚束なかったら、父の死を嘆いて、乱心でもしたのかと疑う行状だ。

「ここに来てからというもの毎日です」

 理解に苦しむ、と舂米は眉を顰めた。

「深窓の姫がまあ顔を晒して」

「山背さまに申し上げても、他に楽しみもないのだから、と甘いことをおっしゃるばかりで。まあ、元々人の言うことを、素直に聞く方でもないけれど。――あなた、あの姫の何処がいいの?」

 正直言うと、舂米は片岡が苦手だ。きっと向こうも同じだろう。

 いつも自分を監視してるような眸とか、決して自分からは打ち解けようとしない頑なさとか、とにかくやることなすこと舂米のカンに触る。

 それでも、兄の妻として、彼女の心を解すよう、努力はしてきた積りだが、一向に関係は改善しない。

 自分の問題じゃない、とにかく相性が悪いのだ、と、自分で自分を納得させた頃に、長谷が言ってきたのだ。『片岡を我が后にしたい』――と」

「――蘇我の姫と言うのは魅力ですよ。身分低い妃の子――と、彼女が見下す我らに、屈服させたい思いもある」

 卑屈なんだか不遜なんだかわからない執着を、長谷は楽しそうに口にする。

「でも山背さまは、この話、乗り気じゃないのよね」

 舂米は夫の煮え切らない返事を思い出しながら、ぼやいた。

「ああ」とか「そのうち」とか、曖昧な答えばかり。そのくせ、何か引っ掛かる理由があるのか問うても、それはないと言い張る。

 斑鳩宮の結束を強固にする為には、長谷と片岡の結び付きは必要と、舂米は考えているのに。

「兄上のお考えなどどうでも、当人同士が仲良くなってしまえば、問題ないでしょう」

 言いながら長谷は、舂米に背を向け、(きざはし)から庭に降りようとしている。片岡を追い掛けるつもりらしい。

「長谷、お待ちなさい」

 形ばかりの制止を投げかけると、舂米は立ち止まって長谷の動向を見守った。




 ◇◇◇


 磯長の山を、片岡とは反対周りに歩き出した。

 山の周りをぐるりと巡らした小径。土地勘もない片岡が、その径を逸れて、何処かに行くとは考えにくい。

 だったら、反対側から回れば、いつか自分と彼女は巡り逢えるはずだ。


「――あ」

 程なくして、長谷は前方から歩いてくる片岡を見つけた。

 足下の雀に目を止めている彼女は、長谷に気付かない。

 長谷は、近くまで寄って、声を掛けた。

「片岡」

 ふいに名を呼ばれ、片岡は驚き、顔をあげる。

 あげた先に長谷王がいるのを認めて、更に驚いた表情になる。

「あの…」

 驚きも戸惑いも隠さない片岡の並びに長谷は立ち、ヌケヌケと言う。

「奇遇だな」

「はぁ…」

「当てもなく、そぞろ歩きをしていた所です。共に、宮に戻りますか」

「いえ、私は一人で」

 顔を強張らせたまま、片岡は答える。

 目を合わせまいと、伏し目がちになる瞳を覆う睫毛は長く、キュッと噛んだ唇は紅い。

 今まで余り、まじまじと(かお)を見たことがなかったのだが、

(美しいじゃないか)

 長谷は、ますます手に入れたい欲情に駆られる。

「そう言わずに」

 片岡の仏頂面など歯牙にも掛けず、長谷は片岡の肩を抱いて歩き始めた。


 前に身体を持って行かれるので、自然に足も出てしまう。

 強引に連れて行かれるのが嫌で、片岡は肩の手を振り払った。

「――ついて行きますから、手はお離しください」

 長谷は苦笑して、手を離した。けれど、只でなんか退いてやるかと言いたげな、爆弾を投下して。

「つれないおっしゃりようですね。もうじき、夫婦(めおと)にもなろうと言うのに」

 長谷の思いもよらない言葉に、片岡の動きが止まった。

 誰と。誰が。夫婦になるって?


「そんなお話、聞いてません」

 卒倒しそうになるのを、必死に堪え、きっと長谷を睨みつけた。

「それは心外な。てっきり、ご存知と思ってました。こちらは、年の明けぬ内より、父上にも、山背の兄上にも、お願いしていたこと」

「兄上に確かめて参ります」

 蒼白な顔で訴えると、片岡は間近に見えてきた、宮の門へ、足を早めようとする。だが、彼女の動きを封じるように、長谷は先回りして彼女の手首を掴んだ。

「離して」

 と、片岡が言うより早く、もう片方の手首もとり、背中ごと、近くにあった槻の木に押し付けた。

「兄上に何と言う積りですか」

 強い力で片岡の身体を拘束しながら、長谷は薄ら笑いを浮かべながら聞いてくる。

「貴方に言う事ではありません」

 絶対に嫌。

 山背は片岡には甘い。直情径行な自分の性格も知っている。嫌だと訴え続ければ、無理強いはしないはずだ。そんな片岡の脳裏に浮かんだ考えを見透かしたように、小憎らしいまでの分析を長谷は冷徹に披露した。

「山背の兄は人がいい。貴女が泣いて嫌がるものを強いて…とは、思わないでしょうねここまで、貴女の耳にこの話が行かなかったのも、貴女の反応がわかっていたから、とも考えられる」

「それなら」

「それなら、貴女をこのまま兄の所には行かせられない。私だって、簡単には退けません。わかりますよね、姫」

 元から細い目を更に細めて、長谷は片岡に言い含めるように笑った。

(わかるかーっ)

 叫びだしたい。

 この手、振りほどきたい。

 けれど、迂闊に動けない。もがけばもがくほど、彼の拘束が、強くなっていくだけのような気がする。

「何故…」

 渇き切った声で、そう呟くのが精一杯だった。

「愛しているから――とでも言えば満足ですか?」

片岡は、真一文字にキュッと唇を噛んだまま、首を真横に振った。獲物を追い詰める獣のような眸で語る愛情なんて、欠片も信じない。

「言葉よりも、行動にて示した方がよろしいですか」

薄笑いを浮かべて、長谷は片岡の手首をがっちり掴んだ。

逃げなきゃ。と、思った時には遅かった。背けた顔を、乱暴に顎に手を当てられ、上を向かされる。片岡の唇は、長谷の唇に塞がれていた。

(やめて!)

そう言いたいのだが、激しく押し付けらる唇がそれを許さない。

それどころか、片岡の口腔内に舌を入れて、彼女の舌を絡めとる。片岡が少しずつ顔を反らして逃れようとしても、長谷は解放しようとしない。気持ち悪い感触と、簡単に唇を奪われた屈辱感が、片岡の体内をかけめぐる。

(もう、嫌。助けて、兄上。助けて入鹿)

「…っ!」

窮した片岡は、思い切り長谷の舌を噛んだ。繋がっていたお互いの口の中に、長谷の血の味が滲む。

「この…」

予期せぬ抵抗を受けて、頭に血が昇った長谷は、片岡の左頬を平手で張った。

乱暴な仕打ちに、噛んでしまった下唇から、血が滲む。

「何故、と聞いたな。私が欲しいのは、その血だよ、蘇我の血。そして、その血をうける子だ」

片岡の唇の血を指でなぞりながら、長谷はニヤリと笑う。

蘇我の…血? 私がこの男の子どもを…?

片岡には、吐き気がするほど、おぞましい想像だ。

「私のものになるとお約束頂けるのなら、ここでのこれ以上の狼藉は、許して差し上げますよ?」

飽くまでも、切り札を握るのは自分だと、片岡の手に掛けた拘束は少しも緩めないまま、長谷は立場の優位を嵩に掛かった交換条件を突きつけてきた。


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