血族
◇◇◇
広間には、馬子と毛人、入鹿のみが残った。
無論、入鹿の本意ではない。
バラバラと散る人波に、その身を任せようと腰を浮かせた所を、毛人についてこいと目で促されたのだ。
否も諾も言わず、無言で自分の足音についてくる足音に満足したように、毛人は回廊を振り返りもせずに進む。桜の樹なんてあったっけ。池の畔の五分咲の桜を、入鹿は今年初めて見た。
「お前と摩理勢、もう少し何とかならんのか」
祖父と父と自分。三人が座につくと、早速、馬子が腕を組み、嘆息を洩らした。
西日の差し混む部屋だが、既にその陽も暮れかかっている。
既に齢七十を超える馬子には、厩戸王子の死も、明日は我が身、と哀しみよりも、怖れの方が強い。
自分亡き後、蘇我を託せるのは、息子の毛人。弟の摩理勢には、それを補佐して貰いたいのに、馬子の思惑とは真逆に、足を引っ張り合っている二人だ。
「何とか…と、おっしゃられましても、私の方からけしかけたことはありません。境部臣殿に、注進申し上げた方がよろしいかと」
境部臣殿、と毛人は他人行儀に叔父の摩理勢をそう呼ぶ。四角四面の慇懃無礼な物言いが、年上の摩理勢を刺激するのではないか、と馬子は思うのだが、言葉遣いそのものを改めよ、などと言った日には、
「では、境部臣殿が血気盛んな御気性を改められたら、毛人も変わりましょう」
木で鼻をくくったような答えが返ってくるだけであろう。生真面目だが尊大で、己の非を認めることを潔しとしない。血を分けた息子だというのに、扱いにくいことこの上ない。
相容れない者同士だとしても、同じ目的の為には、私情を殺せるようならばいいのだが。
「そもそも大郎」
毛人はつと、入鹿の方に、厳しい視線を投げ掛けた。
「そなたが、あちらこちらで、乞われるに任せて、笛など吹くからであろう。笛吹部でもあるまいに、蘇我の嫡流として、為すべきことは、他にあるはずぞ」
残れ、と促された時から、説教されるのは、覚悟していた。
確かに、宴の席では、専門の妓楽集団が、その場を盛り上げることが多い。
身分卑しからぬ人のすべきことではない、と父が自分が笛を吹くのを、好まないのも知っている。
そこまで悪し様に罵られることでもないと思うが、毛人は自分の価値観に合わぬ者を嫌う。
厭々ながら、詫びをのべようとした時。
「良いではないか」
鷹揚な台詞は祖父の馬子のものだった。
「大郎が、蘇我の嫡流に相応しくない、とは、わしは思わぬ。笛の一つや二つ、許してやれ」
「父上は大郎に甘いから」
毛人は祖父の盲愛を嘲るように笑う。
「そなたが厳し過ぎるのじゃ。大郎はまだ18ぞ」
「仏法は軽んじ、何か人より秀でるものがあるとすれば、笛と剣の腕前。行くあてといえば、養い親の司馬氏の工房か女のところばかり。さりとて、妻を貰うわけでもなく、一人一夜の行きずりで。
これでも、蘇我の嫡流といえますか」
(い、居心地わる…)
毛人の辛辣な自分への評価。
馬子に語りかけてはいるが、これじゃあ叱責を受けているのと変わらない。只でさえ、寡黙な入鹿はますます口が重たくなる。
「さて、大郎が相応しからぬとして、そちには他に後を享ける子はおるのか」
「おりません。だからこそ、言っています。こんな折でもなければ、我が屋形に近寄りもしなければ、私の話に耳を傾けもしないでしょうからね。--大郎」
毛人はその鋭い視線を、漸く入鹿の方に向けた。
「先日も申したであろう。妻でも貰い、腰を落ち着け、心を入れ替えてはどうか」
やっぱり、父の話はそこに行き着くのかと、見え透いた話の流れに、うんざりだ。
「まだ、妻だの子だの、私には早すぎます」
父の提案を、入鹿はにべもなく撥ね付けた。
これだから…と、諦めたような顔で、毛人は小さく笑う。
「父上は健在だ、蘇我の行く末を今、取り沙汰するには早いとして。斑鳩はこれから、どうなるのでしょう」
意外にあっけなく、毛人は話題を変えた。
「どう…とは」
馬子は毛人の問いの意味を、図りかねた表情になる。
「いや、あそこに固まった厩戸王子の一族。山背王に、まとめ切れるのかと。陵のことでは、菩岐美々郎女の所生の姉弟らが、かなり要らざる口を挟んだようで」
毛人の口振りは、斑鳩を案じていると言うより、面白がっているに近い。
「膳夫臣出身の、あんな身分の低い妃と、合葬させるなんて、父上も、額田部大王もよく、お許しになられましたね」
「仕方あるまい。身内の話じゃ」
そう言いながら、馬子も、決して納得ずくの顔はしていなかった。
下世話ながら、毛人の話は入鹿にも興味深い。
山背の妃が、確か菩岐美々郎女の娘だ。異母兄妹同士の婚姻など、この時代珍しくも何ともない。
そして彼女には、確か弟がいた。殯のことは、彼等が主導したのか。先程、馬子の話を聞いて感じた違和感はこの為か…?
「気になるか」
入鹿が、あれこれめぐらした思いを、見透かしたように毛人が笑う。
「山背王は昔なじみです故」
「気にするくらいならいいが、首は突っ込むなよ。ややこしくなる」
自分が、どう首を突っ込むって言うんだ。山背なんて、斑鳩に移ってから、会ってもいない。
どうしているかと気にはなっても、自分から便りを出すのはシャク――。
それが入鹿と山背の距離感だ。
片岡もどうしているだろう。
父にも死なれ、母の死の時のように、抜け殻になってなければいいのだが…。
「そういえば」
毛人が、さも今思い出したかのように、何気なく放った言葉に、入鹿は手にしていた杯を取り落としそうになった。
「山背王の同母妹が、長谷王の妃に…なんて話も出ていたようだが、父の死で、延びるやも知れぬな」
話題を変えたわけではなかった。父が自分に伝えたかったのはこれか、と臍を噛む思いで、入鹿は一度は手から離れて行きそうだった盃を、掴み直した。
◇◇◇
「てっきり今宵は、嶋の屋形に泊まられるのかと思いました」
開口一番、嘉陽は、そう言って、主人を出迎えた。
「私もそうされるかと…。折角の水入らずでしたのに」
共に馬首を並べて帰ってきた永刀も不審さを隠さない。
(うるさいうるさいうるさい。一人で考えたいことだってあるんだ)
屋形に戻れば、少しは癒されると思ってたのに。左右からの質問攻めに、返事をする気力もなくて、入鹿は自室に入ると、床に身を投げ出した。
厩戸王子の死と。
片岡の結婚話と。
嶋の屋形で聞いた話は、衝撃的過ぎた。
ゆっくりしていけ、と盛んに引き留める馬子に別れを告げ、日が落ち、暗い夜道を厭がる永刀を、強引に引っ張り、自邸に戻ってきたのは、ひとりになりたかったからだ。
見上げた天井に、二人の顔が浮かぶ。
と言っても、五年も逢ってないんだから、面差しも体型も、自分の知るかの人たちではないだろう。
「片岡が結婚…ねえ」
口に出しても、現実感が浮かばないのは、彼の引き結ぶ片岡の姿が、童形のせいか、それとも、まだ信じているからだろうか。
再会の約束。
「片岡様、結婚なさるのですか?」
ふいに聞こえた言葉に、入鹿はギョッとなった。
灯りも灯さない暗い部屋。簾の向こうに、嘉陽が控えていた。
「お前、いたのか?」
「はい。兄に、大郎君の様子が変だから、傍に控えているよう、申しつかりました」
(永刀の奴、余計なことを…)
「心配いらないから、戻っていいぞ」
「鬱いでおられたのは、片岡様が結婚されるからだったんですね」
戻っていいと言ったのに、嘉陽はまだ居座って、入鹿の気持ちを忖度し始める。
(…断言してるし)
「けれど、あれだけ他の女君と戯れていながら、片岡女王が他の殿と幸せにおなりになるのは、嫌がられるなんて…」
嘉陽の言葉は、女らしい正論だ。それだけに、腹が立つ。
「お前、本当に出ていけっ」
今度は威圧的に怒鳴りつける。
「わかりました」
命令通り律儀に、嘉陽は一例をして、立ち上がろうとする。
「――待て」
出ていけ、って言ったり、待て、って言ったり。
(訳わからないな、もう)
困惑しながらも、嘉陽は命令通り立ち止まり、簾の中の人を見た。
「何ですか」
「灯りと…酒を持て」
投げ槍に入鹿は嘉陽に命じる。
灯りは必要だろうけれど、御酒を召し上がるのは…珍しい。
不思議に思いながら、厨の方に歩く。
「器量は良くない、気は利かない、口数は多い。あんた達なんか、大郎君じゃなけりゃ、とっくにお屋敷追い出されてるよ」
鞍作止利の姪で、入鹿の乳母を勤めた母に、兄と二人で、よくそんな小言を言われた。
入鹿が、司馬氏の養育の手を離れて、己が屋形を持つことになった時、永刀と嘉陽を傍に置くことを望んだ。
能力を信頼している…と言うより、生まれた時から、一緒にいる兄弟同然に育った自分たちを必要としたのだと、嘉陽は思っている。神経質で繊細だが、意外に入鹿は懐が深い。自分の不用意な発言も、気の利かなさも、本気の本気で叱られたことはない。
(望めばもっと、器量のいい聡明な女性だって、使えるだろうに)
柄の良くない言葉で罵倒しつつ、追い出さないでいてくれる主人に、嘉陽は常に感謝はしている。言葉にしたことはないけれど。
酒と、少しばかりの肴を用意させ、嘉陽は入鹿の元に戻った。
入鹿の前に、盃と肴を並べ、用事は済んだとばかりに、帰ろうとした嘉陽の袖を入鹿が掴む。
「――酌は?」
(しまった)
嘉陽は、自分の気のまわらなさに歯噛みした。
若くて美しい侍女にでも、運ばせるんだった。
「何方か呼んで参りましょうか?」
「いいよ、お前で」
「私が嫌です」
嘉陽が断言すると、入鹿はカラカラ笑った。
「それならさ」
入鹿は、嘉陽の肩に手を回し、袖を掴んでいた手をぐいと引き、自分の胸元に引き寄せる。
「夜伽をするのと、どちらがいい?」
夜伽とは即ち、夜のお相手。つまり…、身体を差し出せ、と。
鼓動が聞こえるような至近距離で、卑猥な言葉を囁かれ、嘉陽は真っ赤になって叫んだ。
「お戯れはお止めください!」
「だったら、最初から素直に命に従うんだな」
嘉陽の初な反応に、満足気に笑いながら、入鹿は嘉陽の前に、盃を出す。
(からかわれただけとわかっているのに、どぎまぎした自分が悔しい)
嘉陽は、渋々その盃に酒を充たした。
「少し元気になられましたね」
入鹿が酒を仰ぐ様子をじっと見て、嘉陽はほっとしたように洩らす。
「そうか?」
「屋形にお戻りになられた時は、表情は暗い、顔色は蒼白い。若の取り柄は、美貌なんですから、あんな病人みたいなお姿見たくありません」
「あっ、そ」
相変わらず口の悪い奴…と呆れながらも、嘉陽の毒舌を適当にあしらいながら、呑むのも悪くない。
屋形に戻った時は、喧しさに、耳を覆いたくなったのだから、彼女の言葉を受け止める余裕がある分だけ、嘉陽の言う通り、(元気に)なったのかもしれない。
「けれど、本当の話なんですか? 片岡女王が婚姻なさるって」
嘉陽は先程から入鹿も胸に抱き続けてる疑問を口にする。
「さあな」
冷静になってみれば。あの片岡が、簡単に他の男に靡くだろうか…と、そう思うのは、希望的観測なのか自惚れか。
5年の間、全く接触をしていない隔たりは大きい。長谷との話が事実であったとして、約束の反故を責められる自分でもない。それでも。
「俺のだっての…」
意味がないとわかってる所有権を、ぽつりと彼は口にした。




