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最初は、誰も気づかなかった。
元々、昼と夜とが逆転しているような生活をしている傾向があった人だったし、仕事で、何日も東京を留守にすることも多かった。おまけに、携帯電話はいつも圏外のことも多かったりしたから、本当に誰も気づかなかったのだ。連絡が取りにくいことを、それほど、不思議に思わなかった。
けれど、いつの間にか携帯電話は解約されて使えなくなっていた。自宅の電話も、同じことだった。慌てた恵梨が自宅マンションに行った時には、彼はとっくに引っ越した後だった。その行き先を誰にも言わず、杉浦は、消えてしまったのだ。
それでも、あまりショックではない自分がいることの方が、美雪には不思議だった。杉浦がいなくなったことよりも、そのことにあまり驚いていないし、それほどショックでもない自分がいることが、不思議でならなかった。
それは、一体何だと言うのだろう?
何となく、予感があったのかもしれない。
心のどこかで、彼はいつかいなくなるような、そんな気がしていたから。
そう、思う。
でなければ、どうして自分はこんなに落ち着いていられるのだろう。
杉浦のことが嫌いになったわけでは、ない。今でも大好きだし、会いたい気持ちはとても大きい。
でも、前とは何かが違って見えた。
今は、放っておいてあげたい。たぶん、そういうことのような気がした。
そんなふうに、微妙に冷めて現実を見ている美雪とは正反対に、恵梨は怒り狂っていた。
連絡もなく、姿を消したこと。美雪に対して、いい加減な態度のままだということ。
どちらかと言うと、それは、美雪が怒らなくてはならないようなことだ。そんな気がしないでもない。けれど、恵梨のその剣幕に、当事者である美雪の方が毒気を抜かれてしまった、というのは本当のことだ。
美雪の気持ちは、ひとつだった。
彼の行動を、少しでも信じてあげたかった。いなくなったことにも彼なりの理由があると、そう思いたい気持ちが、強かった。
美雪が杉浦を選んで恋をしたのと同じように、彼も美雪を選んでくれたのだと、そう、信じていられるから。
どうして、だろう。自分でも、不思議だった。
どうして、自分はこんなにも杉浦のことを信じていられるのだろう。
何かを約束したわけではない。杉浦が戻って来る確信が、あるわけでもない。
そんなことに簡単に答えなんか見つかるわけはなかったし、美雪も、焦って答えを出すつもりもなかった。
ただ、美雪は杉浦のことを好きでいたかった。彼を、待っていたかった。
きっと、それだけのことだった。
杉浦がいなくなったことがはっきりしてから、一ヶ月が過ぎる頃、有線やラジオでTURBOの新曲が流れ始めた。相変わらずの軽快なテンポを持った、元気付けられるようなラブ・ソングだった。
そして、その曲のプロデューサーとしてKOU-Fの名前が前と変わりなくクレジットされていた。それは、その曲が紛れもなく杉浦のもので、彼が変わらない生活をどこかで続けていることを教えてくれた。
その事実は、美雪にとって杉浦の消息を知るための唯一の場所だった。TURBOの存在だけが、美雪と杉浦とをつなぐ細い糸だった。
そんなある日、慎が、美雪を訪ねてお店に来た。
「……こんにちは」
外はもう真っ暗になっていて、そう言うのもかなり抵抗はあった。だけど、咄嗟に出て来たのはその言葉だった。
慎が着ているのは、いつも雑誌で見せるようなシックな感じのスーツ。ステージの野性的な印象とは全く違う、落ち着きを感じさせるものだ。
「今、少し時間あるかな? もし忙しいなら、改めて出直すけど……」
店内をそれとなく見回して、他にお客さんのいないことを確かめながら、慎はそう聞いて来た。その声を耳にして、棚の整理をしていた恵梨が振り返った。
大仰な仕草で溜め息をついて、恵梨は慎を見やる。
「今日は、随分と紳士的な態度じゃない。見てわかるでしょ。もう閉店なの。見計らって来たくせに、回りくどいわね。連れて行ってもいいけど、美雪ちゃんをちゃんと送り届けるという条件付でお願いするわよ。美雪ちゃん、後の片付けは私がしておくから、上がって」
恵梨がそう言ってくれたので、美雪は慎にちょっと待っていてもらうようにお願いすると、急いで帰り支度をした。
店の裏口で待っていてくれた慎は、美雪が出て来ると先に立って歩き出した。
店からちょっと離れた所に車が停めてあって、慎は助手席のドアを開けて「どうぞ」と微笑む。
慎に言われるままに助手席に乗り込んだ美雪は、慎が廻って運転席に滑り込んで来るまでの間、きょろきょろと車の中を見回してしまった。
何となく、そぐわない気がしたのだ。
トップ・アーティストと呼ばれる人が乗るにしては、かなり地味でコンパクトな車だった。普通に、その辺を走っているような国産車だ。杉浦が乗っていた派手な車とは、対照的に思える。
慎は運転席に座ってエンジンをかけはしたけれど、発進はしない。
低いエンジン音だけが響く何とも言えない沈黙の中で、美雪は、どうしたらいいかわからずに黙り込んでいた。
「……杉浦、いなくなったんだって?」
しばらくの沈黙の後、最初に口を開いたのは慎の方だった。
「そうですね」
美雪はうなずいて、ちょっと息をついた。
「怒ってる?」
「え?」
「あいつ、君にも何も言わずにいなくなったんでしょ? 怒りたくならない?」
静かな、抑えた口調。ライブで見せる、バラードを歌い上げる時のような横顔。ずっと憧れていた、水原慎がそこにいる。ステージとは少し違うけれど、確かに彼は本物だった。
今更ながら、自分がこうして話している相手はすごい人なのだと思ってしまう。水原慎の車の助手席に座って、彼の横顔を見ながら彼の話を聞いているなんて、ほんの少し前までは考えもしなかったことだ。
「自分でも余計なお世話かな、って、思ったんだけど。今なら話してもいいかなって、そう思ったんだ。そうと言うよりも、君には言っておかなければならないって。俺と、杉浦とのこと。昔、あいつと何があったのかってことをね。知らないと、君だってどうしたらいいかわからないんじゃない? どうしてあいつがこんな行動に出たのか、思いやれるためには全部知っておく必要があると思う。だから、来たんだ。五十嵐さんたちが話せない分まで、俺が話すよ。君は杉浦の恋人らしいし、知っていていいと思うから。まあ、その……実を言うと、俺、多少は責任を感じていたりするんだ。杉浦がいきなりトンズラしたのも、ある意味、俺のせいだと思うしさ。励まして力づけるつもりが、逆に追い詰めたなんて洒落にならない展開だもんなー」
俺って馬鹿かも、と付け足して、慎は照れ笑いをした。
そんな表情を見ると、やっぱり素直にドキッとしてしまって、結局、美雪は彼のファンであることに変わりはないんだ、と思い知らされてしまった。
何があっても、美雪は彼のファンなのだ。
素直にカッコいいと、思えばいい。
杉浦と慎の間に何かがあったのかということと、美雪が慎のファンでいることとは、関係のないものだから。
でも、いいのかなぁ。とも、思う。
仮にもトップ・アーティストと呼ばれるような人が、こんな所で、美雪みたいな普通の高校生と、車の中で意味深に話し込んでいたりなんかして。
知らない人が見たら、絶対に妙な誤解を招くと思う。それこそ、過激な追っかけに知られでもしたら、袋叩きに合いかねない光景だ。
「この前は、あんなふうに喧嘩腰で口論するつもりじゃなかったんだ。もっと落ち着いて話し合うつもりだったのに、途中で頭に血が上っちゃってさ……。後から考えて、営業妨害もいいとこだったって、すごく反省した。駄目なんだよ、俺。杉浦もそうだと思うけど、音楽のことになると周りが見えなくなるくらい熱中しちゃってね。それでなくても、あいつが俺以外のボーカリストのために曲を書いているのかと思うと、もう、何だかムカついて仕方がないってのに、あんな言い方をされると……。あいつにとって《WING》が特別なのはわかっていたけど、ああいうふうに目の前で言われると、結構ショックでさ。もう、最悪だよ。知ってる? 俺、TURBOのこと、大嫌いなんだよね。はっきり言って、視界にも入れたくないくらいにね。別に、彼らが何かをしたわけじゃないけど、あんなガキがあいつの曲を歌っているってだけで、無性に苛々して来るんだ。あいつらと一緒に、歌番組とか出ることがあるだろ? ああいう時、俺、突っ込んで行ってマイクを奪い取りたくなるからね。その曲は俺が歌うんだよって、言いたくなる。お前らなんかに歌わせてたまるかってね。あいつの曲は俺のためのメロディーだ。あいつは自分のことを変わったって言うけど、変わってないよ。ギターをシンセサイザーに替えても、音の運びは変わらない。あいつは根っこのところで昔のままなんだ。俺には、それがわかる」
そう話す慎の横顔を見ながら、美雪は前に不思議に思っていたことの真相を知って、何だかおかしくなってしまった。
確かに、前にどこかの音楽番組で慎がTURBOと一緒に出ていたことがあった。その時の慎がやたらと不機嫌そうで、苛々としていた様子だったので、鈴子と「何があったのかなぁ」なんて話していた覚えがある。
その舞台裏が、曲を歌われたやきもちなんだというのが不思議な感じだった。
「……そ、それはともかくとして、何か、俺が余計な横槍を入れたせいで杉浦がいなくなっちゃったみたいだから、責任感じてね。君に謝ろうと思って、レコーディングをすっぽかしてきたんだ。……ごめんね」
「……あの、慎が、あ、えっと、水原さんが謝るようなことじゃないです。杉浦さんがいなくなったことと、この前のこととはあまり関係ないんじゃないかって思うし」
「慎でいいよ。普段、そう呼んでいるんでしょ? 水原さんなんて呼ばれると、何か違う人みたいで居心地悪いよ」
慎は、考えていたよりも気さくな人だった。ライブで見せる雰囲気からもっと近寄りがたいものを感じていたけど、実際はそれほどでもないのかもしれない。
初めて見る、慎のプライベートな表情。慎のファンとしては、貴重な体験なのだろう。……他人に自慢できる機会は、残念ながらなさそうだけれど。
「何から話そうか。思いつきで来たようなもんだから、実を言うとあんまり考えてないんだ」
慎はそう言いながら手を伸ばして、プレイヤーのスタート・ボタンを押した。
わずかな間の後に流れ出したのは、ポップなダンス・ビートだった。打ち込みが中心の音作りではあったけれど、基本はバンドのノリだ。
「これさ、俺たちが高校生の時に、今の俺の事務所が開催していたオーディションに送ったデモなんだ。噂には聞いたことがあるかもしれないけど、《BE》として活動していた頃の最後の記録。これが、杉浦の音なんだ。俺たちが追いかけていた夢の、最後の残り火」
まるで自分の歌の歌詞にでも出て来そうなフレーズを歌うようにつぶやいて、慎は遠くを見るような目をした。
彼の目には、今、高校生の頃の自分たちが見えているのかもしれない。
杉浦と二人で、そして《BE》の仲間と一緒に同じものを追いかけていた頃のことを、彼は、思い出しているのかもしれなかった。




