12
美雪が、次に杉浦に会ったのは、それから、三日後のことだった。
両腕でようやく抱えられるくらいの、大きな薔薇の花束を持って、彼は、やたらと笑顔を振りまきながら小さなパン屋の中に入って来た。
その大きな荷物を見て、美雪は驚きのあまり硬直する。元から大きな瞳を、更にまんまるに見開いている美雪の目の前にその花束を突き出して、おまけに、にっこりと笑って杉浦は言ってのけた。
「美雪ちゃんにあげるよ」
と。
正気じゃない、と、失礼ながら思ってしまった美雪を誰が責められるだろう。
薔薇の花束、だ。正真正銘の。しかも、その辺の花屋で無造作に売っているような感じのものではなくて、見るからに高級そうな雰囲気の漂う花だった。それだけでもびっくりするというのに、その花を両腕でも抱えきれないほどの花束にして、けろっとして「あげる」と言ってのけてしまう彼の考え方に、美雪はくらくらしてしまった。
普通、こんなことはしない。考え付いたって、行動に移したりしない。
どこかの安っぽいTVドラマではないのだから、実際にやって見せたって、嫌味なだけで似合うわけがない。
そう、思うのに。
何故だか、それが、妙に似合ってしまった辺りが杉浦の不思議なところだった。
確かに、普通とは違うことなのだ。けれど、彼はその行動を実際に取っても不自然ではないくらいに、様になっていたということになる。
「俺さぁ、一度でいいからやってみたかったんだよねぇ。恋人に、薔薇の花束を贈るっていうの。よく映画とかで見るでしょう? あれ、妙にやってみたくなって」
「あの、こういうのって映画とかドラマだから嵌まるのであって、現実にこんな平凡な女子高生相手にってのはどうかと思うんですけど…………」
美雪の半泣きの抗議の声など、杉浦には聞こえていないみたいだった。
「……あんた、馬鹿?」
恵梨の冷たい台詞にも動じることなく、杉浦はやたらとにこにこしている。
そういうところは、やっぱり謎の人だ。
恵梨は額を押さえ、大きく溜め息をついている。どうやら、彼女も杉浦の行動にはついて行けないものを感じているらしい。美雪は美雪で、どうしたらいいかわからなくてムードもへったくれもない。
「……とにかく、その花束は預かっておくから、美雪ちゃんは休憩に入っていいわよ」
恵梨が更に溜め息の混じった声でそう言うと、杉浦は恵梨に花束を押し付けるように渡して、美雪を振り返った。
「ちょっとだけ、外に行こう?」
美雪はうなずいて、足早にお店の外へ向かった杉浦の後を追った。
「……ねえ、気に入らなかった?」
店の前に置いてあるベンチに腰掛けて、美雪の顔を覗き込むように杉浦は言った。
「薔薇は嫌いだった? そしたら、胡蝶蘭の鉢植えとかのがよかったかなぁ。あ、胡蝶蘭の花言葉は知ってる?」
「べ、別に嫌いじゃないです!」
止めないと際限なく喋っていそうなので、美雪は慌てて言葉を挟んだ。
すると、杉浦はまた嬉しそうに笑った。
あ、駄目だ。と、思ってしまう。
この笑顔に、弱いのだ。最初に、この笑顔を見てドッキリしてしまった美雪は、彼の笑顔を見たら、何だか他のことはどうでもよくなってしまうのだ。
「よかった。俺がやってみたかったっていうのはあるけど、それで嫌がられたらカッコ悪いからね。映画のワン・シーンみたく決まれば、言うことないけど。でも、女の子ってああいうの嫌いじゃないでしょ?」
「たぶん、嫌いじゃないけど……」
嫌いではないけれど、びっくりする。
自分にそんなことが起きるなんてこと、想像したこともなかったから。
映画みたいなことを実際にやってみようと本気で考える辺りが、やはり普通とは少しずれているような気が、しないでもない。
「じゃ、問題ないよね」
ないかもしれないけれど、杉浦は、ある意味その言動に問題ありかも……。と、思ったけれど。
その笑顔を見ていたら、やはり何も言えなくなってしまった美雪である。
完全に、美雪は杉浦のペースに巻き込まれていた。
けれど、それは嫌ということではないのだ。ただ、何とも不思議な気分になるだけで。
「しばらく、連絡できなくてごめんね。レコーディングでずっとスタジオにこもっていたんだ。毎日、ほとんど徹夜だったし、昼間は寝ていたしね。しかもさぁ、あいつら、俺の曲は難しすぎて歌えないとか言い出すし、宥めるのに飴と鞭で大変だったんだよ。なぁにを我儘を言っているんだ、って怒鳴りたかったね。天下のプロデューサーさまに向かってさぁ」
ぶつぶつ言いながら、晃は足元の小石を蹴飛ばした。
何か、可愛い。
普段のイメージとはまた違って見えるけど、これはこれでかっこいいのかも、と思ってしまうのは、美雪の贔屓目なのかもしれない。
子供みたいに見えるけどどこか大人びていて、無邪気な顔で笑ったかと思えばとても冷たい瞳をする。
そのどれもが同じ人で、美雪は、その違う面を見るたびにどきどきしている。
杉浦のいろいろな面を知ることができるのは嬉しいけれど、逆に怖くなる。
いつの間にか、杉浦は見知らぬ人になっていそうな、そんな気がして。
「……美雪ちゃん?」
美雪が黙り込んでしまったのを不思議に思ったのか、杉浦は美雪の顔を覗き込むようにして名前を呼んだ。
「え?」
「……ごめん。俺の仕事の話なんて、美雪ちゃんにはつまんないよね。でも、今のって、連絡できなかったことに対する言い訳なんだけどな」
えへへ、と照れたように笑って、杉浦は所在なさげに視線を彷徨わせる。
頬をかくのは、困った時の杉浦の癖なのかもしれない。
いろいろと余計なことも考えてしまうけれど、杉浦本人を前にすると、美雪は何も言えなくなってしまった。
本当は、たくさん言いたいことがあったような気がするのに、全部どうでもよくなってしまった。
たぶん、それは、杉浦のペースに巻き込まれているからだ。彼に振り回されているからなのだ。
けれど、それは嫌ではなかった。
……ひょっとして、晃はそういうことまで全部計算して行動しているのかもしれない、と、考えてしまうくらいに彼には隙がない。
知ろうとすればするほど、実際に会えば会った分だけ、彼は遠ざかって行くような気がする。
けれど。
美雪はめげたりするつもりは、なかった。
この程度のことで諦めるのだったら、最初から彼のことを好きになったりはしない。
あの日、彼がこのお店に来ることがなかったら。
来ていたとしても、その後、慎のライブ会場で見かけたりしなければ、きっと今の状況はなかったのだろう。それは、偶然であり、必然で。
だから、自分は、杉浦晃という人を、知りたい。
そう、思っていたのだ。
その日が境だったように、杉浦は、美雪を連れ出すことが多くなった。
本人が言うには、例のアイドルのレコーディングが一段落したのでしばらく暇だということだった。それでも、相変わらずの強引さは健在だ。はっきり言って、美雪は一方的に連れ回されているような気が、しないでもない。
でも、それはとても楽しい時間だった。
杉浦は、美雪の知らないことをたくさん知っていた。それは単なる年の差だけの問題ではなくて、彼の行動力にもよるものなのではないかと思う。レコーディングの裏話や、いろいろな遊び場所、たくさんの本や映画、音の知識。
杉浦の話を聞くのは、楽しかった。彼の今までを、少しでも知ることができるから。
逆に、杉浦は美雪の学校の話などを聞きたがった。杉浦の作る曲のターゲットは、美雪たちの年代だから、実際にどういう反応があるのかを知りたいというのが本音のようだった。
だから、美雪と杉浦はお互いにたくさんのことを話した。
そんな中でも、二人の間で慎のことが話題になることはなかった。
杉浦が自分からその名前を口にすることはなかったし、美雪も、意識してその話題を出さないようにしていた。
心の片隅に、そのことは小さな棘のように引っ掛かっていたけれど、今、無理にそれを知ろうとは思わなかった。
それでも、一度だけ。
杉浦は、ふとした拍子に慎の名前を口にした。
その日は、学校まで車で迎えに来た杉浦と一緒に、目的もなくドライブしていた帰りのことだった。
それは、割と普通のことだった。
特に目的を決めるわけでもなく、気の向くままに杉浦は車を走らせる。思いついたことや見えた景色なんかを話題にして、二人の時間を過ごす。
そんな時、変な沈黙ができた。
その中で、杉浦はポツリと言ったのだ。
「前にさ、美雪ちゃんに似た子がいたんだ」
と。
それは、本当に小さな声で、車の中に流れるBGMに聞き入っていた美雪は、危うく聞き逃すところだった。
「……え?」
びっくりして彼の方を見たけれど、すぐに返事は返って来なかった。
もしかして独り言なのだろうか、と思いながらプレイヤーををいじくっていると、杉浦はぼそぼそと口の中でつぶやくように言った。
「俺、あの頃は子供だったからさ。今でも、充分子供かもしれないけど、それ以上にね。だから、そいつのこと、傷つけた。一生かけても償えないんじゃないかって、思うくらいに。だから、慎とは会いたくないんだ」
「……杉浦さん?」
その瞬間、こんなに近くにいるのに彼のことがとても遠くに感じた。美雪と杉浦との間には、決して乗り越えられない透明で高い壁があるような、そんな錯覚を感じた。
苦しい。
心臓の鼓動が、めちゃくちゃ速くなる。
杉浦の言葉を、聞きたくない。
そう、感じてしまって。
意味もわからないままに、美雪は唇を噛んで窓の外に目を向けた。
どうしよう。
ただ、動揺している。
怖いと、思っている。
何かを言葉にしたら、全部が終わってしまいそうでとても怖かった。
杉浦といることも、そもそも、この人の存在自体が美雪の夢だったりするのではないかと、まるで意味もないことまで考えてしまったりして。
それは、とても気まずい沈黙だった。
「……ごめん」
沈黙を破るように、杉浦は一言だけ言った。
それが何に対しての謝罪の言葉なのか、美雪にはそこまではわからなかった。
その意味を美雪が知ることになるのは、もう少し、先のことだった。




