第05話 日常の始まり
「……ん」
微睡を侵す魅惑的な刺激が、ソアラの五感へ覚醒を訴えかけるように届いている。
ぱちぱちと油が爆ぜる音、鼻腔をくすぐる小麦の焼ける香り。
誘われるように硬いベッドから身体を起こせば、寝ぼけ眼には見慣れない、質素で狭い部屋が映った。
「ここは……」
しばし呆然と、その小さな部屋を見回す。
目の前の現実を再確認すると、口から小さなため息がひとつ溢れた。
寝室を出れば、音と香りは一層強くなる。
石造りのかまどの前には、鼻歌を歌いながら栗色の短い髪を揺らす、愛らしいメイドの後ろ姿が見えた。
不満も漏らさず、こんな僻地へ共に落ちてきてくれた姉のような女性。
既に立場を失った自分に、それでも当然のように奉仕する彼女という存在に、ソアラの心は――
「レミィ……ありがとう」
囁くように零れた言葉が聞こえたのだろうか、レミィが振り返る。
「あ、お嬢様、お目覚めになられましたか。
朝食、お召し上がりになりますか?」
その笑顔は、窓から差し込む朝の光よりも、眩しく、優しく輝いていた。
◇◇◇
食卓に並ぶのは、それまでの屋敷の生活を考えれば、非常に質素な朝食だった。
薫製魚で出汁をとった海藻スープと、水で練った小麦粉を鉄板で焼いただけの簡素な平たい焼きパン。
スープの風味は、上品というよりはむしろワイルドさと塩味を感じさせる。
しかし、丁寧に濾されたその水面は、薄く琥珀色に輝いている。
湯気のあがる焼きたてのパンは、パリッとした表面と柔らかな内側のギャップが口に楽しく、溶かした獣脂の与える確かな味わいが、噛むたびに口の中に広がっていく。
そして、付け合わせに添えられた乾燥フルーツ。その素朴な甘み。
そんな、質素な朝食に加えられた様々な一手間は、レミィの精一杯の愛情を感じさせるものだった。
ひとくち、もうひとくち。
口に運ぶたび、ソアラの胸は温かさで満たされていく。
満たされた温かさは、やがて滴となって目尻から零れ落ちてくる。
「お、お嬢様――ッ!?」
食卓の向こう側で狼狽える、最後まで同席することを固辞していたレミィに、今度はソアラが涙を拭いて笑いかけた。
「美味しかったから……びっくりしちゃった」
「そんなハズは……」
「本当よ。温かくて、優しい味……」
「そう、ですか? 保存食ばかりなので、結構濃い味付けになってしまった気がするのですが……」
首をひねるレミィに「きっと愛情のおかげよ」とソアラは微笑む。
「はぁ……そうですか。この冬を越えるまでは、どのみち保存食ばかりになりますし、味にご満足いただけるのならば幸いなことです」
この家の地下貯蔵庫には、二人で食べきれない程の肉、魚、穀物に果物等の保存食が備蓄されている。
レミィ曰く、それは閣下――ソアラの父であるスフォルザンド侯――の配慮によるものだと。
「レミィ、私にも何か手伝えることはないかしら?」
おおよそ食事が終わったあとにソアラの口から出た言葉は、帝都で歌姫ともてはやされた令嬢の口にするようなものではなかった。
やんわりと断るレミィに、食い下がるソアラ。
それは、ソアラの根底にある前世の記憶による知識や経験もさることながら、すべてを失った彼女の、無意識による存在意義の証明だったのかもしれない。
「お嬢様。お嬢様にご奉仕することこそ、私の生きる意味でございます。どうか、私にお任せください。それに、料理や水仕事などは……」
(家事くらい私だって――)
みなまで言わないレミィに反論する前に、ソアラは自分の前世の経験を思い出す。
自炊はしていた。
米は洗って炊飯器で炊いていたし、小麦粉とドライイーストをホームベーカリーに放り込めばパンも焼けた。動画のレシピを参考に、おかずだってちゃんと作れ……作れ……作れない!?
思い返せばソアラの前世の経験は、そこに至るまでの人類の知恵と知識の集積と、文明の利器の補助があって初めて成り立っていた。
料理だけではない、掃除も、洗濯も、何もかも。
(再現できる……はずがない。調味料の組成は? 原材料は? 発酵時間は? 知らない。知る必要なかった知識を、持ってるはずがない! そもそも私、火すらまともに熾した事すらないのに)
思わず固まってしまったソアラに、レミィは優しく労うように言葉を続けた。
「お嬢様はこれまで多くのことを我慢し、非常に頑張ってこられました。ことここに至って、ご自愛いただくことを誰が咎めましょうか」
「でも……」
「大丈夫です。すべてこのレミィにお任せください!」
揺るぎない包容力を湛えた瞳が、じっとソアラを見つめていた。
食後、多くない荷物を解き、てきぱきと家中を整えるレミィの姿を眺めていたソアラの元に、灯台守が訪ねてきた。
村人三家族、挨拶に伺ったとのこと。
総勢二十名にも満たない小さな村だが、ソアラと村人たちは、互いの世界が交わることがほぼないということを理解していた。
形式的で簡単な挨拶を交わすと、村人たちは少し安堵したかのような表情で去っていった。
穏やかで狭い世界。
その後の日常は、驚くほど何事もなく、緩やかに時間だけが過ぎていった。
時に潮騒に乗って牧歌が聞こえてくる。
そんな長閑な日々。
いつしかソアラは、灯台に上り、海を見つめることが増えていた。
眼前に、果てしなく広がる荒れた海。
それに比べ、レミィと二人だけの狭い世界を、ソアラは不思議と息苦しく思うことはなかった。
だが――
(私は、なんで生きているんだろう)
そんな自問が、小さく、小さく積み重なっていた。




