第04話 灯台
ソアラがそのことに気付いたのは、八歳のある日。
特別な事象や衝撃があったわけではない。天啓ともいうべきヒラメキの結果だった。
――今ではもうタイトルも覚えていない、かつて一周二周程度プレイした乙女ゲーム。
聖女の肩書を得た庶民の娘が帝国の皇子と結ばれ、『魔王』を討伐するという内容の物語。
今、自分が生きているのは、そんな世界だということに。
主人公『聖女ファーナ』の敵役である『悪役令嬢ソアラ・スフォルザンド』は、その役割のとおり、ろくでもない性格の女。皇子の婚約者という肩書と権威を振りかざして嫌がらせの限りを尽くし、やがて当然のように皇子から婚約破棄を言い渡されて追放される。
だが――
馬車が停車する。
籠の扉が開くと、深い潮の香の混じった冷たい風がソアラの到着を拒むかのように強く吹き込んできた。
小さな悲鳴をあげるソアラとは対照的に、レミィは野兎のような軽快さで馬車を降り、一頻り周囲の状況を確認すると温かな木漏れ日のような声で呼びかけ、ソアラに手を差し伸べてくる。
「お嬢様、さぁ」
その手を取ろうと腰を浮かしたが、長時間同じ姿勢で凝り固まった身体の節々はバランスを取る事さえ許さず、ソアラは無様にも馬車から放り出されるような形で飛び出すことになった。
――そもそもこの国には一つの予言があった。
『聖女の愛を受けた勇者が、魔王を滅ぼし人族の世界に平和を齎す』
その予言に従えば、ソアラの婚約破棄は世界にとっての必要経費だった。
だが、当の本人であるソアラ自身、肌身に染みて理解している。
政争に破れ、没落する貴族の悲惨さというものを。
しかし、世界の平穏のため、聖女は排除できない。自分も追放されない。
そんな絶妙なバランスを実現できる程の才覚も、神々の寵愛も、類まれな強運も、圧倒的な世界設定やストーリーに対する知識すらもソアラ自身にはなかった。
馬車の外は、身を切るような冷たい空気と岸壁に打ち付ける波の音が溢れていた。
目の前には、侍女たちが寝泊まりするような簡素な、しかし、スフォルザンド家の家紋が掲げられているログハウス――原作で『悪役令嬢ソアラ・スフォルザンドのその後を知る者はいない』という一言の背景として使われたものと同じ光景――が一軒。
それが、ソアラの知る最後。以後、悪役令嬢については語られることはなかった。……いや、語られないからこそ、ソアラは恐れていた。
粛清されるのではないか。
凄惨な最期を迎えるのではないか。
耐え難い苦しみを受けるのではないか、と。
力が必要だった。
帝国の悪意、社交界の魑魅魍魎から身を守る力が。
だが、すべてその手からすり抜け、こぼれ落ちてしまう。
「それではお嬢様、どうかご健勝で」
旅を共にした御者と護衛たちも、灯台から出てきた老人と何やら話した後、そんな言葉と共に去っていった。
残ったのは、少しばかりの荷物とたった一人の侍女だけ。
唯一の慰めは、残ったのが最も気安いレミィであるという事だけだった。
ただ、岸壁に叩きつけられる波の音と、風の泣き声だけが響いていた。
「お嬢様、ご無沙汰しております」
目の前にはいつの間にか、灯台から出てきた老人が恭しく頭を下げていた。
自分を知っていそうな老人の言葉に、しかしソアラはそのしわがれた声が聞き覚えがなかった。曲がった腰で頼りなく立つその姿も、年月を重ねた哀愁の浮かぶその顔も、ソアラの記憶に当てはまる人物は見当たらなかった。
辛うじて分かることといえば、仕立ての良い、しかし経年によりみすぼらしく劣化した服。腰から下げたランプと彼が灯台から現れたことから、おそらく彼が灯台守なのだろうということくらい。
困惑しているソアラに、老人は朗らかに笑う。
「私がお屋敷に詰めていたのは、お嬢様がまだこんな小さな時分でしたので、覚えておられないのも当然でございましょう」
今はこんなナリだが、と笑いながら老人は語った。かつて使用人の末席としてスフォルザンド家の屋敷に仕えていたこと。ソアラが物心つくかつかないかの頃、新しくスフォルザンド家に下賜されたこの極北の領地の管理運営を任され、以来ここで灯台守兼村長のような役割を担っていることを。
「お嬢様も長旅でお疲れでしょう。お部屋の清掃は済ませておりますので、どうぞごゆっくりお休みください」
「……ありがとう」
その配慮、手際は、確かに貴族の屋敷に仕えていた過去の経験を感じさせた。同時に、優しい老人の瞳に、不思議な懐かしさと気恥ずかしさをソアラは覚えた。
「それよりお嬢様、灯台に登ってみましょうよ」
二人の短い挨拶の裏でせっせと一人で荷物を屋内に運び込んでいたレミィが、一仕事を終え、そんな声をあげる。
レミィの思惑は気遣い半分、好奇心半分だということはソアラにも分かった。しかし、その提案は悪くはなかった。
ソアラの瞳の色から意志を汲み取ったレミィは、その手を取り、灯台の中へと勇ましく進み入る。
「お嬢様方、灯りがないと危ないですよ」
慌てて注意の言葉を上げると、老人も追いかけるように二人に続いた。
老人の言葉の通り、灯台の中は光源が少なく足元の段差すら怪しい状況だった。
日中のため、岩の隙間などから僅かばかりの光が差し込んでいるものの、光源は充分ではない。おまけに石造りの壁は冷気を伝え、そのうえ凌げると思っていた風も螺旋階段上の通路に沿い、逆風のように上階から吹き降ろして来る。
(まるで自分の人生のよう……)
レミィに手を引かれ、そんな事を考えながら一歩一歩、吹付ける逆風に耐えながら階段を上っていく。
(いや――)
これが人生の縮図ならば、まだ幸せなのではないだろうか。
逆風と暗闇の中でも独りじゃない。手を引いてくれるものがいる。追いかけ、光照らしてくれる者がいる。
そんな思考に、自嘲気味であっても、ソアラの口元は何日ぶりかの小さな弧を描いていた。
だんだんと鉛のように重くなっていく足を、なんとか持ち上げながら階段を上る。やがて長く続く暗闇の先、強く差し込む光が見えた。
「ほらお嬢様、外が見えますよ!」
そこは灯台の屋上だった。
露天に鎮座する鉄製の巨大な火籠。傍らには木材が山と積まれている。
閉塞された空間からの解放感以上に、目の前に広がる海、風、潮、波。全周に広がるパノラマ。
「ふあぁぁぁ、すごい……」
隣では、レミィが素直に感嘆の声をあげている。
ソアラは目を閉じ、感覚に身を委ねる。
耳に届く潮騒、鼻腔をくすぐる磯の香り、遮ることのない風の感覚が、果てしない世界の広がりを実感させた。
そっと目を開けば、図ったように曇天の隙間から降る光が目に入る。
喉の奥に力が籠り、自然と口が開いた。
未だ、心は歌を紡いではくれない。
だが、吹き抜ける冷たい風が心の中の何かを叩いた。
ソアラにはそう感じられた。




