第09話 北の海の伝説
「霧が出たぞー!」
「帆を畳めー、船足落とせぇ!」
「甲板あがれッ、監視増やすぞー!」
包み込むように周囲に広がり始めた濃霧に、極北航路を航海中の商船『自由の翼』号の船内は、にわかに騒がしくなった。
矢継ぎ早に響き渡る甲板長の声に、一切の無駄なく応える船員たちの様は、まさに熟練。百戦錬磨の海の男たちの姿だった。
そんな中、甲板に駆けあがった船員のビッグスは、相棒とも呼べる同僚のウェッジに悪戯っ気に笑いかけた。
「今回も俺の勝ちだな、陸に着いたら一杯奢れよ」
「チッ、こうも毎回毎回霧が出たんじゃ賭けにもならねぇじゃねぇか」
「そう言いながら、大穴狙って晴れに賭けるお前みたいなヤツがいるから、オレは毎度ただ酒が飲めるってもんだ」
「うるせぇよ、次は絶対晴れるから見てやがれッ」
目下六連敗中のウェッジは、忌々しげにそう言い放つも、その目に、耳に集中し、航路の監視に努める。
帝国北端の岬に近いこの場所は、岩礁も多く、今回のような霧をはじめ、降雪、嵐など視界を覆う自然現象の発生しやすい地点であり、多くの船を水底に誘ってきた、極北航路の中でも難所の一つとして知られる場所だった。
軽口を叩いてはいるものの、難破すればもちろん命の保証はない。
明日への期待を口にすることこそが、そんな命がけの状況に対する何よりの精神安定剤となっていた。
「そういえばピエットのヤツに聞いたんだが、最近、このあたりの霧の中から、女の歌声が聞こえることがあるらしいんだってよ」
「……セイレーン、とかか?」
ビッグスの言葉に、ウェッジは眉をひそめた。
霧の中、歌声で船乗りを惑わす件の魔物の伝説は、眉唾物だとはいっても、屈強な男たちにとっての見えざる恐怖の一つだった。
だが、ビッグスはウェッジの言葉を否定する。
「それが、どうにも違うらしい。なんでも、響き渡る歌声が導きになるとかなんとか……」
――歌が導き?
伝説のセイレーンだとすれば、水底に誘い込むでもなく、逆に導きになるなんてお粗末な話だ。
だが、違うとするのならば一体何なのだろうか。
他に考えられるとすれば、灯台のある断崖の上には村があったはずだが……いや、これまでそのような話は聞かなかった。
それならば――?
要領を得ない思索に首を捻るウェッジを助けるかのように、周りの船員たちから声が上がった。
「おうビッグス、俺もその話聞いたぜ!」
「俺もだ!」
「ぼ、ぼくも聞きました」
周りの船員たちは、口々にビッグスの噂話が本当だと言わんばかりに同意の声をあげる。
曰く、天使のような美しい音色だ。
曰く、身体の底から力が沸き上がるような歌声だ。
曰く、聞いたことのないリズムとメロディの歌――
「テメェら、船、沈めるつもりかッッ!! 集中して見張りしやがれッッ!」
甲板長から雷が落ちた。
当然だ。
船足を落としているとはいえ、微速で進むこの船が座礁すれば、全員まとめて海の藻屑だ。油断している余裕など、ありはしない。
それが分かっている船員たちは、一様に、ばつが悪そうな表情で監視に戻る。
しかし、変な噂話を聞いたせいだろうか。
「……ん?」
「ウェッジ、どうした?」
「何か……聞こえないか?」
ウェッジの耳に、風に乗った音色が歌声のように響いてくるような気がした。
「何か? 何だ……?」
そして、ウェッジの声に耳を傾けたビッグスにも、その音色は届く。
だが――
「歌……じゃないよな?」
「当たり前だろ、速すぎる。こんな歌、聞いたこともない」
「だよな……聞いてて気分はいいけどな」
「ああ」
その音は、故郷を想う優しく身体を揺らすような歌でもなく、仲間たちと肩を組みながら杯を掲げるような歌でもなく、なにか……そう、前へ進めと背中を押されるような響きだった。
その響きが、この難所に抱く恐怖を穿ち抜いた。
「……いける」
誰かの声に、方々から同意の声が上がる。
ビッグスも、言葉ではなく、力強く拳を握ることでその声に応える。
その隣ではウェッジも大きく頷いていた。
そして――
「いくぞ、野郎ども!」
甲板長の号令一下、『自由の翼』号に気炎が上がった。




