ヒロインの救出 (後編)
ついに直接対決――すべての元凶である男と向き合う時が来た。しかし、想定外の事態が次々と襲いかかる。守ると誓ったその身を、再び危機が包み込む。
彼は、運命を変えられるのか。
授業はいつものように流れていった。数学の公式を解説する教師の声は、ただのホワイトノイズと化している。俺の思考は別の場所にあった――木下のこと、真冬の家のこと、そして刻一刻と迫る夕暮れのこと。
教室の時計は15時30分を指していた。
もうすぐだ。
前の席で大人しくノートを取る真冬を、俺は横目で見た。彼女は何も知らない。この後、何が待ち受けているのかを。
「トイレ行ってきます」
教師は無言で頷いた。俺は教室を出た。だが、足はトイレへは向かわない。裏門へと早足で向かっていた。
悪い、真冬。後で説明する。
警察署
警察署のガラス扉をくぐる。中はほどほどに混雑していた。窓口には数人の市民が列をなしている。奥のデスクでは、数人の警官がそれぞれパソコンに向かっていた。夕方の空気は緩い――コーヒーを啜る者、スマホを眺める者、同僚と軽口を叩き合う者。
俺は受付窓口へ向かった。面倒臭そうな顔をした中年の警官が、こちらを一瞥する。
「はい? 何か用か、坊主」
息を吸い込んだ。
「通報したいんです。襲撃があります。今日。今夜。友人の家で」
警官が眉を顰めた。「襲撃? どういう意味だ?」
「誰かが友人の家に侵入します。ナイフを持って。もしかしたら銃も」
警官の眉が上がる。「証拠はあるのか? 直接見たのか? それともどこから情報を得た?」
俺は黙り込んだ。真実を話せるはずもない。
「……勘定、か?」
質問ですらなかった。そこにあったのは明らかな嘲笑だ。
「勘じゃない。確かなんです」
「確かって、どうやって?」
また沈黙が落ちる。
警官は長々とため息を吐いた。そして、小さく嘲笑う。後ろの数人の警官も、こちらに視線を向けた。
「いいか、坊主。俺たちは警察であって、霊媒師じゃないんだ。通報するなら証拠を持ってこい。ただの勘定ならな……」彼は首を振った。「帰れ。友達と遊んでいろ。虚偽通報は厄介なことになるぞ」
「しかし――」
「帰れ。時間の無駄だ」
小さな笑い声が聞こえた。後ろの席の警官がひとこと、「最近の高校生は創作でも始めたのか?」
拳を握り締めた。怒りが込み上げる。だが、何もできなかった。
俺は背を向けた。受付を後にして、出口へと歩き出す。感情が胸の内で燃え盛っていた。
馬鹿どもが。信じちゃくれない。当然だ。信じるわけがない。
ちょうど正面玄関を出ようとしたその時、背後から声がかかった。
「おい、待ってくれ!」
振り返る。若い男――22、3歳くらいだろうか――が、小走りで駆け寄ってくる。制服は警官のものだが、ポケットには研修中と書かれた札が付いている。息を切らしていた。
「は……はぁ……すまない」彼は一度軽く頭を下げ、息を整えた。「さっきの話、聞こえたんだ」
「あなたも笑いに来たんですか?」
「違う」彼は真剣な眼差しで俺を見た。「俺は研修中の山田拓実っていうんだ。君のこと、信じるよ」
目を瞬いた。
「信じる、ですか?」
「話し方でわかる……君は本気だ。目に恐怖があった。あれは嘘じゃない」彼は息を吐いた。「ベテランは時に無頓着だってことは、俺もわかってる。でも、もし本当に何か起ころうとしているなら、俺は臆病者ではいたくない」
俺は彼を見た。彼の頭上に、ステータスが浮かび上がる。
【名前:山田拓実】
【役割:研修警察官――一時的な味方】
【説明:高い理想を抱く若手警察官。形式的な仕事ではなく、本当に人を助けたいと願っている。研修中のため、先輩からは少々軽く見られている。】
【注記:主人公を助けるだろう。途中で迷いが生じても、彼の心は正しい。】
「あなた……本当に、手伝ってくれるんですか?」
「その友達の家、案内してくれ」
真冬の家――夕闇が迫る
俺たちは二人、隣の空き家の塀の陰に身を潜めていた。真冬の家が見渡せる場所だ。正面の扉は閉まったまま。カーテンも微動だにしない。
山田さんが腕時計を確認する。「本当に中に誰かいるのか?」
「間違いないです」
「もう一時間近く待ってるんだが。まさか――」
「待ってください」
時間が過ぎる。夕闇はますます濃くなる。街灯がひとつ、またひとつと灯り始めた。
その時――足音。
真冬が路地の向こうから現れた。制服姿のままだ。鞄を肩に提げて、何も知らずに、のんびりと歩いてくる。
俺は立ち上がった。
「あれが友達です。止めないと」
「伊藤くん!」山田さんが小声で呼び止める。
俺は走って真冬に近づいた。闇から突然現れた俺に、彼女は驚いた顔をする。
「伊藤? どうして――」
「真冬、聞いてくれ」彼女の肩を掴んだ。「まだ家に入るな」
「え? でもここ、私の家――」
「俺と山田さんが先に入る。ここで待っててくれ。何があっても、俺たちが呼ぶまで絶対に入るな」
真冬の顔が困惑に染まる。「な、何があったの? 伊藤、怖がらせないでよ……」
「信じてくれ」彼女の目を見た。「頼む」
彼女は口を噤んだ。そして、小さく頷いた。
「……わかった。待ってる」
振り返る。山田さんが隣に立っていた。
「準備はいいか?」小声で訊く。
頷いた。俺たちは真冬の家の扉へと向かった。
扉は鍵が掛かっていなかった。
山田さんが静かに開く。かすかに軋む音。暗い。窓から差し込む夕暮れの光だけが、かろうじて室内を照らしている。
慎重に足を踏み入れる。リビングは無人。台所も無人。トイレも無人。
「いつもこんなに静かなのか?」山田さんが囁く。
「両親は働いてます。帰りは遅いです」
廊下を進む。最初の部屋:家族用の居間。無人。二つ目の部屋:客間。無人。三つ目の部屋は――
山田さんがこちらを見る。「最後の部屋だけだな」
頷いた。心臓が早鐘を打っている。
真冬の部屋の前で足を止める。無地の白い木の扉。その向こうに――何がいるのか。
山田さんが囁く。「いいか?」
頷く。身構える。山田さんの手がドアノブにかかる。俺はその横で、いつでも――
バンッ!
扉が開き放たれる。
闇から、影が真っ直ぐに飛び出してきた! 手にしたナイフが鈍く光る!
木下だ!
反射神経が働いた。体を捻り、横に逸れる。刃が首筋を掠めた。床に転がり、即座に起き上がる。
「今だ!」叫んだ。
山田さんが飛びかかる。木下が叫び、ナイフを狂ったように振り回す。だが、山田さんは訓練を受けている。木下の腕を極め、床に叩きつけた。
俺も加わり、暴れる木下の足を押さえ込む。
「離せ! 離せ!」
「大人しくしろ!」山田さんが手錠をかける。
木下は身を捩る。右手が腰へ伸びる――銃を探っている!
「早く! それを!」叫んだ。
山田さんの動きは速かった。木下の腰に手を伸ばし、黒い銃を奪い取る。部屋の隅へ放り投げた。
木下が唸る。だが、もう何もできない。手錠ががっちりと固定されていた。
息を切らしながら、俺は初めて、はっきりとその顔を見た。
【名前:木下雄大】
【役割:主要な敵対者――危険なストーカー】
【危険度:極めて高い】
【説明:真冬の中学校時代の同級生。告白を断られたことをきっかけに、長年にわたる執着に発展。密かに真冬を尾行し、情報を収集し、「永遠の逢瀬」を計画していた。常に平静を装うが、いつ爆発してもおかしくないサイコパス。】
【注記:真冬が自らの手で死ぬか、自分が死ぬまで、決して止まらない。】
「お前……」奴を見据えた。「木下雄大」
木下が奇妙に微笑んだ。「名前を知ってるのか? すごいな」
熱い怒りが胸の内で弾けた。これまでのループ全て。真冬の死全て。こいつの手で。
ドガッ!
奴の頭を蹴り飛ばしていた。
「伊藤くん!」山田さんが引き剥がそうとする。「止せ! 殺す気か!」
「離せ!」抵抗する。「こいつは――こいつが殺したんだ――」
だが、山田さんは止まらなかった。俺を押さえ込み、木下から引き離す。木下は血の滲む唇に、まだあの薄ら笑いを浮かべたまま、ぐったりと横たわっていた。
「伊藤くん! 落ち着け! もう捕まえたんだ!」
息が荒い。涙が滲みそうになる。悲しみじゃない。怒りだ。
山田さんは息を吐き、携帯電話を手に取った。
「署に連絡する。応援を呼ぶ」
数分後、俺たちは真冬の家の外に出ていた。木下は先頭に立たされ、手錠をかけられ、到着した二人の警官に挟まれている。山田さんが隣に立つ。
そして――真冬。
彼女は門の前に立っていた。俺たちが出てくるのを見ている。木下を見ている。
「木……木下くん?」
木下が顔を上げる。唇にはまだ血が滲んでいる。だが、彼は微笑んでいた。
「白雪……久しぶりだな」
真冬が一歩後ずさる。目を見開いていた。
「あ、あなたが……?」
「会いたかったんだ」木下の声は優しかった。あまりに優しすぎた。「ずっと待っていた。だが、君はいつもあの男と一緒だった」その目が、憎しみを込めて俺を睨む。「小崎……伊藤」
真冬は信じられないものを見る目で彼を見つめている。
「木下くん……何が……どういうことなの? 私を襲おうとしてたの?」
「今に始まったことじゃない。お前はいつもそうだ、白雪!」
木下が激昂した。瞬間、彼は体を捻り――油断した警官の拘束を振りほどいた! 手錠をかけられたままの手を、器用に動かす。上着の内ポケットへ――
奴は、二本目のナイフを隠し持っていたのだ。
「真冬さん!」山田さんの叫び。
木下が真冬目掛けて突進する。ナイフが振りかざされる。距離はあと数メートル。
だが、俺の方が速かった。
走った。何も考えなかった。ただ、走った。
もう二度と、彼女は失わない。
ズッ、という鈍い音。
肉を貫く音。だが、それは真冬じゃない。
俺は彼女に正面から抱きついていた。背中を木下に向けて。全身で彼女を覆って。
背中に熱いものが走る。だが、構うものか。
「伊藤?」真冬の声が震えている。「伊藤……伊藤!」
彼女に微笑んだ。手を上げ、濡れ始めた彼女の頬に触れた。
「泣くなよ……」
山田さんが木下を乱暴に引き倒す。地面に叩きつけられた。ナイフが飛ぶ。他の警官がすぐに覆い被さり、今度こそ完全に押さえ込んだ。
だが、俺は――倒れた。
膝が地面に着き、そのまま全身の力が抜けた。
「伊藤ッ!」
真冬が膝まづき、俺の顔を�き込む。彼女の手が俺の頬を包む。彼女の顔は涙で濡れていた。滴る涙が、俺の頬に落ちる。温かい。
「やだ……やだよ、伊藤……ごめんね……ごめんね……全部、私のせいで……」
息が重い。だが、彼女の膝の温かさは感じられる。髪の香り。彼女の手の感触。
「ゆる……してくれ」
「何が『許して』なのよ!」嗚咽混じりの声。「あなたが私のために傷ついて……ずっと、ずっと私を助けてくれて……なのに私、私、何も返せてない!」
手を上げた。重い。だが、無理に持ち上げる。
指が彼女の頬に触れる。溢れる涙を、そっと拭った。
「真冬」
「なに? なに、ここにいるよ……」
「お前は……何も……返さなくていい」
「でも――」
「いいんだ……無事でいてくれたら……それで」
真冬は咽び泣く。彼女の手が、俺の手をぎゅっと握る。涙が、止めどなく溢れ続ける。
だが、視界が滲み始めていた。真冬の顔が……ぼやける。彼女の泣き声が……遠のいていく。
ダメだ……まだ、俺は……
「伊藤! 伊藤、やめて! 置いて行かないで! 伊藤!」
真冬の呼ぶ声が聞こえる。だが、どんどん遠くなる。どんどん遠くへ。
ここにいるよ、真冬。ただ……疲れただけだ。
目が、閉じた。
……「伊藤?」
……「起きて……起きてよ、伊藤……置いて行かないで……」
その声は、ずっと遠く。でも、温かい。
真冬……
まだ、生きてる。
まだ、生きて……いる。
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