(51) 近衛
「ええい、馬鹿なことを申すな!」
フードリアの警護隊長が一喝した。
「王国騎士団が、映えある王国騎士団が、日没とともに我らに襲いかかるだと? くだらぬタワゴトで先公妃様の貴重なお時間を取らせおって!」
「バーミヤ様」
しかしその少年は。
ガタナー商会に勤める金髪の少年は、一切揺らがなかった。
夕刻。
バーミヤの滞在するこの豪華な宿所を訪れて。
「先公妃様に至急お伝えしたいことがあります! どうかお目通りを!」と庶民の分限を超えた無茶な要求をして。
それがなぜかすんなりと許されて。
そして先公妃バーミヤの前に進み膝をつくと、もう一人の少年に説明させたのだ。
ともにここまで来た少年に、その衣服を血で赤く染めた少年に、説明させたのだ。
本日これから起きるであろうことを、説明させたのだ。
その少年。
一切の怪我もないくせになぜか血塗れの衣服の少年は、いろいろと混乱しつつも理路整然と説明をして。
その顔ににじむ汗を拭いながら、これから降りかかるであろう危険について説明をして。
時折自分の手を、その指を、不思議そうな顔でチラチラ見つつもどうにか説明を終えて。
かくして。
そこに同室する警護隊長を怒らせてしまったのだ。
烈火のごとくに怒鳴られてしまったのだ。
それでも金髪の少年は。
「バーミヤ様、にわかには信じ難い話かもしれません。しかし、全てつじつまは合っているのです」
「どういうことですか?」
「馬です」
金髪の少年は応えて。
「この朝、ボクたちは街を出ることができませんでした。たぶん昨日のうちに王都から指令がきて、それで足止めされたんです」
「ですからそれは馬たちが食あたりで……」
「違います。馬たちは毒を盛られたんです。死なない程度の、二三日動けなくなる程度の毒を盛られたんですよ」
「死なない程度の毒ですって?」
「はい。彼らはできれば馬を殺したくないのですよ。彼らにとって馬とは大事な仲間であり戦友なのですから。彼らはそう簡単には馬を殺せないのです」
「そうね……。私たちの馬が死なぬ程度の毒を盛られて、それが王国騎士団による仕業だとするなら……」
バーミヤはしばらく思案してから。
「隊長」
「はッ」
「念のため、総員で警戒態勢を。それと剣聖を至急呼び戻して頂戴」
「は、ははッ」
内心で舌打ちしつつも警護隊長が出て行く。
フードリアの女傑バーミヤはなぜかこのタワゴトを、なぜかこの庶民の少年を信じてしまったようなのだ。
「さてそなた。名前は」
「は、はいッ。俺は、自分は、ザークと申します!」
「ではザーク。騎士団は揉め事を起こすのですよね。それを口実にこの私を「保護」するのですよね」
バーミヤは、まるで女盗賊がお宝をじっくり見分するような目で。
騎士団を追放されたこの少年を、じっくり値踏みするような目で。
「ではそれは如何なる揉め事ですか? これから騎士団は、いったい何を仕掛けてくると思いますか?」
「火です」
値踏みされた少年はこれに迷いなく応えて。
「この宿所に火を放ち、火事の混乱に乗じて先公妃様をば」
「あら」
バーミヤはやや残念そうに。
「ファイヤーボールなんて使って放火したら極刑よ? 査察庁が魔力残滓を調べれば誰がやったか分かってしまうわ」
ここは先公妃バーミヤの宿泊する豪華な宿である。
それなりに強固な造りであるし、セキュリティも高い。
外部からここに付け火するには、火焔魔法で一撃を加えるしかありえないことになる。
だが騎士団の魔法士ならば皆、その魔力紋の登録を義務づけられているのだ。
「そんなすぐに足のつくようなことを、王国騎士団がやるものかしら?」
「やるのは騎士団の魔法士ではありません」
「え」
「おそらくは、魔力紋を登録されていない魔法士が」
「未登録の魔法士ですって? どういうことなの?」
「剣聖様に薬を盛りたいのならば、昨日兵舎に招いた折にできたはずなのです。でもやらなかった。先公妃様を襲うよう、おそらくはその後になってから指令が届いたのです。それで急遽馬に毒を盛り足止めを計ったのです。つまり現在この街には王国騎士団の司令官に指令を下し、これを従わせる者がいるのです。それだけの権限を持っていて、未登録の魔法士を抱えこんでいる存在、つまりそれは……」
「王国情報庁……」
ドオンッ!
バーミヤの言葉を切裂いて。
突然の爆発音が、突然の衝撃が、波となって部屋をビリビリと震わせた。
「ザーク君!」
「うん、予想よりも仕掛けが早かった……。たぶんこちら側が警戒したのを察知されたんだ」
やがて。
パチパチと建材が炎に焼かれて爆ぜる音。
階上から、じんわりと降りてくる白い煙。
そして男や女たち、護衛兵士らの叫ぶ声。
何者かがこの宿に向けて、火焔魔法を放ったのだ。
むろん城外市の粗末な教会とは異なり、ファイヤーボールひとつで建屋が吹き飛ぶようなことはない。
火災への備えもしっかり整った高級宿である。
いずれすぐに鎮火されてしまうことだろう。
しかし。
「バーミヤ様、これで」
「ええ、そうね」
すぐに鎮火するとはいえ、火の手は上がったのだ。
ザークの予言したとおりに「揉め事」が起きてしまったのだ。
これを口実に、これを詮議するためと称して。
「来るわね、王国騎士団が」
◇◆◇◆◇
「ええい、馬鹿なことを申すな!」
フードリアの警護隊長が一喝した。
「王国騎士団が、映えある王国騎士団の貴殿らが、よりにも寄って先公妃様を引き渡せだと!」
日没。
その暗い空に、赤い炎がチロチロと踊っていた。
何者かが放ったファイヤーボールによって生じた火災は、数か所を残してほぼ鎮火されてはいた。
その消火に参加している宿所のスタッフ以外の者は全て、既に屋外へと避難していた。
その集団の中には先公妃バーミヤ、そして庶民の少年ふたりも混じっている。
そのバーミヤの元に、王国騎士団の司令官以下数名がやって来たのだ。
「ここは危険です故、先公妃様をば王国騎士団にて保護致しまする」と、まるでタイミングを計ったかのようにやって来たのだ。
そして今。
「それはならぬ! 先公妃様の御身の安全は、我らが一命を盾に堅守致す故、お気遣いは無用! ここは通しませぬぞ!」
警護隊長以下、完全武装のフードリア家臣団が防壁となって道を塞いでいたのだ。
そう。
あの少年の言った事は本当だったのだ。
警護隊長の背を冷たい汗が伝って落ちた。
あの従卒の少年。
傷どころか痣ひとつないキレイな顔で、それなのになぜか衣服だけは血塗れでボロボロのあの少年。
もしあの少年が、事前にこの危険をこの事態を察知して知らせてくれてなかったら。
もしバーミヤ様がその言をタワゴトと切り捨て、信じていなかったら。
そう。今頃自分たちはこうして武装して備えることもできず、彼らの言うがままにバーミヤの身柄を引き渡してしまったところなのだ。
そしてその身柄を引き渡してしまえば最後、バーミヤは騎士団によって、あるいは騎士団の背後にいる何者かによって暗殺されていたはずなのだ。
警護隊長自身もその悪意に、その殺意に、ファイヤーボールを撃ち込まれる瞬間まで気が付かずにいたのだから。
「ふむ、これは困ったな」
こうして完全武装の家臣団に阻まれるのは予想外であったのか、王国騎士団の司令官は。
「事を大きくしたくはなかったのだが、致し方あるまい」
それまでの「保護する」体の味方面をかなぐり捨てて。
それまで隠していた悪意敵意殺意でその顔を歪ませて。
そして大音声で号令したのだ。
「総員構えぃッ。これより、市中にて火焔魔法を放った賊徒どもを殲滅する!」
いつの間にか彼の背後に集結していた完全武装の騎士たち。その数およそ二百。
その騎士たちに対し、バーミヤ以下フードリア家臣団を皆殺しにせよと命令を下したのだった。
すなわち。
力づくでもバーミヤを連れて行く。
そして事故にみせかけて殺害する。
最初からそのつもりで準備していたのだ。
最初からそのつもりでファイヤーボールを撃ち込んできたのだ。
「くッ」
しかしこれに対するフードリア家臣団はその数二十。
兵数はおろか、実力でも練度でも大きく勝る王国騎士団を前にして警護隊長は。
(おいおいマジかよ。こりゃあどうあがいても勝ち目がない。つうか俺たちはサックリ全滅、騎士団側は無傷のワンサイドゲームじゃないか)
それでも。
「おまえたちいいか、先公妃様には指一本触れさせるんじゃないぞ!」
「応ッ」
獅子に対し鎌を振り上げる蟷螂のような、そんな精一杯の虚勢に部下たちも応えてくれて。
「たとえ我ら尽くここで死すとも、王国の大地に公爵家への忠義忠節、血の赤文字で刻んで見せようぞ!」
「応ッ」
フードリアの一同が死を覚悟して吠えて。
「総員、掛か……」
騎士団司令官が皆殺しの号令を発しようとしたときだった。
パァンッ!
突然、その司令官の兜が弾けて割れたのだ。
いや、割れたのではない。
ボトリと地に落ちたその兜は、キレイに両断されていたからだ。
「斬られた……だと……?」
つぶやいたその額からは血が一筋伝って。
そして司令官は信じられないものを見たのだ。
「うおおおおおぉ!」
フードリアの者たちが大きく沸いている。
なぜなら、憐れな蟷螂だったはずの者たちが熱く見つめるその先には。
「さあさあ騎士たちよ、其許らのお相手は、このワシが仕ろうぞ!」
剣を振払った姿勢の剣聖がいたのだ。
そう。
剣聖は遠く離れたあの場所から、剣など届かぬはずのあんな場所から、この兜を両断してのけたのだ。
「そんなまさか……、今のは……」
「百歩……神剣……」
司令官の背後で騎士のひとりが呟くと。
「あの話は本当だったのか、剣聖様は本当に……」
その動揺は、たちまち騎士団側に広がったのだ。
「無眼無刀、その上に百歩神剣かよ、そんなの……」
まるでドラゴンを前にした仔獅子のように怯えが広がったのだ。
「剣聖様。我らは剣聖様に剣を向けとうありませぬ。どうかここはお引き願えませぬか」
その司令官に。
「剣を向けぬだと? このワシを飯屋に呼びつけ、毒をば盛っておきながら抜け抜けとよう申すわ!」
「く、なぜあれが」
司令官は歯噛みした。
昨夜、王都より届けられた一通の指示命令書。
それとともに渡された特別な毒薬。
死には至らぬが二三日動けなくなる程度の毒薬。
そうそれは。
屈強な軍馬すらグッタリ動けなくなる程の毒薬である。
その毒薬を、剣聖に盛ったはずなのだ。
接待係の者に命じて、剣聖の料理に混ぜたはずなのだ。
剣聖といえど、無味無臭のその毒薬を見破ることなどできぬはずだったのだ。
それに対して剣聖は。
「あのスープはボンヤリ黒く光っておっての」とは言わずに。
「ここはワシらが引き受ける。そなたらは下がっておれ」
後方にいるバーミヤを流れ矢から守るよう、警護隊長に指示を出したのだった。
「さてさて司令官殿よ、騎士たちよ」
老剣聖はニヤリと笑って。
「年寄りを焦らすでない。疾く参られよ!」
「ひッ」
その笑みに、圧倒的な強者の風格に。
「むむむ、無理だ、剣聖様には勝てっこない」
すっかり飲まれて怯えた若い騎士もいて。
「ええい怯むな! 剣聖といえど人の子、この人数で押し潰すのだ!」
司令官は叱咤するように。
「弓隊は前へ! 敵は老人ただひとりだ、射殺せぃッ!」
次の瞬間。
練度の高い弓隊によって、数十もの矢が同時に放たれたのだ。
人には逃れられない数の矢が、一斉に剣聖を襲ったのだ。
「剣聖様ぁ!」
それに後方にいるフードリア勢は揃って絶望の悲鳴を上げて。
「うおおおぉ、剣聖様!」
次の瞬間には感嘆の悲鳴を上げていたのだ。
「ぬおおおお、なぜだ、なぜこれだけの矢を躱せおおせるのだ!」
「そんな馬鹿な! 今一瞬ではあるが、俺の放った矢が、矢筋がズレたぞ!」
必中の矢を放ったはずの弓騎士たち。
その射線の中心に、剣聖は立っていた。
まるきり無傷のままで立っていたのだ。
「ふむ、ビローンからのヌルルもだいたい掴めてきたのぅ」
そんな満足気な剣聖から少し離れて。
「敵はひとりって……。一応私だっているのに……」
不満顔で流れ矢をば一本、斬り払ったカカズチもいたりする。
「第二射、放てッ!」
そしてまた老剣聖に矢が集中し。
それをまた剣聖が当たり前のようにして躱すのだが。
「弓隊どうした、矢数が足りぬぞ!」
先程よりも矢数が半減していたのだ。
「司令官ダメです、俺の弓が……」
「なッ」
いつの間にか、弓隊の持つ弓がスッパリと断ち斬られていたのだ。
そして僅かに残っていた弓もまた。
ビインッ。ビインッ。ビインッ……。
剣聖の百歩神剣によって、次々と斬られているではないか。
「あああ、爺様凄い、凄いです、爺様」
まるで舞うように、まるで演武のように、剣戟を飛ばしては弓を断ち斬っていく老剣聖に対して。
「バインドオオォッ!」
盾騎士の後方で術式を練り上げていた魔法士から、拘束魔法が飛んできたのだ。
しかしこれを。
死角から襲いかかった魔法すらをも。
「むん!」
剣聖は両断してのけたのだった。
だがその一方で。
「ガ、グ、ガガ……」
祖父剣聖の神技に気を取られていた弟子の方は、これをマトモに喰らってしまったようで。
「未熟者。それッ」
「グはぁ、はぁ、はぁ、爺様、面目御座いませぬ……」
その拘束魔法を斬って開放されてなお、カカズチは地に横たわり立てない様子であった。
何本か骨折もしたようで、これ以上は戦力になれそうにはない。
が、しかし。これを見て。
「むむむ、無理だ、魔法まで斬りとばすなんて、剣聖様には絶対に勝てっこない!」
数十もの矢をば鮮やかに躱す無眼無刀。
そして遠く離れた所から、鉄兜や弓をば斬り飛ばす神技、百歩神剣。
それに大半の騎士らは飲まれてしまったのだ。怯えてしまったのだ。
「ええい怯むな! 我らは何としてでも勝たねばならぬのだ!」
司令官は彼らを一喝して。
「よいか、大義は我ら王国騎士団にあり! 我ら王国騎士団こそは常に正義であるのだ! しかし大義とは勝ってこその大義だ! 勝ってこその正義だ! ここで勝たねば我らに大義も正義もない! ここで勝てねば我らは恥知らずの卑怯者となるのだぞ! ここは我ら騎士団の名誉のためにも何としてでも勝たねばならぬのだ! 何としてでもこの老人を葬らねばならぬのだ!」
まるで自らに言い聞かせるようにして。
「盾隊前へ! 身動きとれぬよう四方から押し包め! たとえ我ら尽くここで死すとも、王国騎士団の大義正義名誉、なんとしてでも守り抜くのだ!」
「ふむ、できれば人死には避けたかったのだがの。ここからはワシとて手加減はできそうにはないの」
死を覚悟した司令官に対して。
たとえ全滅してでも刺し違える覚悟を見せた司令官に対して。
老剣聖の纏う空気もまた変わった。
殺される前に殺す、皆殺しにする。
そんな「暴力の匂い」が目視できるほどに強くなったのだ。
老剣聖。対するは王国騎士、二百。
それはドラゴンと獅子二百との殺し合いとなるはずだった。
そう、殺し合い。
これから夥しい量の血が地に流れ、夥しい数の死者が黄泉路へと渡るのだ。
誰もがそれを確信して疑わなかった。
剣聖も、カカズチも、司令官も、王国騎士たちも、後方で見守る警護隊長も、バーミヤも、フードリアの家臣らも、ふたりの少年も。誰もがそれを確信して疑わなかったのだ。
両者ともに引けぬ以上、戦闘は不可避なのだと。
その戦闘が凄絶な殺し合いとなるのも、また不可避なのだと。
ならば殺し合いの果に、勝って生き残るのは剣聖ただひとりなのか、あるいは極少数の騎士たちなのか。
そして。
そんな血みどろの殺し合いの開始を号令せんと、司令官が大きく息を吸ったときだった。
閃光!
「うッ、なんだこれは!」
「青い、光?」
剣聖と騎士団とが対峙したその横方向から。
少し離れた、厩舎がある方向から。
眩い眩い光が射してきて。
そしてよく見れば。
その光を背負って、何者かが立っているではないか。
すると。
「け、剣聖様、何を!」
フードリアの警護隊長が思わず叫んでしまう。
バーミヤも、司令官も、王国騎士たちも、驚愕に目を丸くしてしまう。
なぜならば。
剣聖はその青光に向かって、そこに立つ者に向かって、膝を付くや最敬礼を捧げたのだから。
最敬礼。
それはこの国の騎士が、王族など相当高い身分の者に捧げるものである。
この国の騎士が、自分の主君と認めたただひとりの王者に対し捧げるものなのだ。
それ故に。
これまで、誰も見たことがなかったのだ。
この剣聖が誰かに最敬礼を捧げる姿など、誰ひとりとして見たことがなかったのだ。
どれほどの厚遇を約束されようと士官話は即座に断り、その生涯を無位無官で貫き通したのがこの剣聖なのだ。
それ故に、この剣聖に「主君」などいるはずもないのだから。
それを今。
武の道の頂点に君臨する剣聖が、神技無眼無刀や百歩神剣の剣聖が、ドラゴンの如き圧倒的強者の剣聖が、瞬時に膝を付くや最敬礼を向けたのだから。
あたかも、剣聖が認めた主君がそこにいるかのごとくに。
「あれは……」
夜の暗闇に突然現れた、眩くも青く柔らかな光。
その光にようやく皆の目も慣れた頃。
その光を背負う姿が、次第に明らかとなって。
「赤い鎧? まさか!」
そう。
ドラゴンの如き圧倒的強者、剣聖が最敬礼を捧げる相手こそは。
「ドラゴン殺しの赤騎士……」
「スターダスト卿……」
そう、そこに立つ男こそは。
かつて新王の即位式典に現れ、無手にて近衛兵をねじ伏せた赤騎士であったのだ。
行方不明の第二王子オータニウスの臣下を名乗り、その名代として巨大なドラゴンの首を九つ献上して去ったあの赤騎士であったのだ。
「そんなの、勝てっこねえよ……」
騎士のひとりが呟いたように。
司令官の語った「勝ってこその正義」
あるいはそれは、老剣聖が相手ならば可能性はあったのだ。
二百の騎士らが刺し違える気で当たれば、たとえ自分が死んだとて騎士団の勝利も「正義」もありえたのだ。
しかしこの赤騎士スターダストが相手ならば、その可能性は皆無となる。
更に。
勝ち負け以上に、騎士たちは深く深く絶望していた。
王宮でスターダスト卿は近衛兵を倒しはしたが、ただのひとりも殺しはしなかった。
それは近衛らは行く手を塞ぐ敵であっても「悪」ではなかったからだ。
近衛らはスターダスト卿に対し武人として戦い、武人として敗れた。
だから近衛らはその敗北を、武人として誇ることができたのだ。
正義を体現した赤騎士スターダストと戦って敗れたことを、自らの誉れとできたのだ。
しかし一方で。
大迷宮でスターダスト卿は王国騎士団の精鋭四名をば殺しているのだ。
第二王子オータニウスを騙し討ちするかのごとく、卑劣にもキングオークの部屋に閉じ込めて殺害せんとした四名の騎士。
彼ら四名を、その首を撥ねて成敗しているのだ。
それは彼らが「悪」であったからだ。
だからこそ王国騎士団の名誉は地に落ちたのだ。
忠義忠節、正義を体現した神のごとき赤騎士スターダスト卿。
彼によって仲間が断罪されたことで、悪として不忠として成敗されたことで、自分たちは「不忠騎士団」の不名誉な呼称までつけられて。
それを自分たちは恥じていたはずなのに。
成敗された四名を深く恨み、強く憎んでいたはずなのに。
それなのに。
「あああ、本物の正義が来ちまうなんてよ……」
「なあ、俺たちも成敗されるのかよ……」
「くそぅ、俺たち、卑怯者の悪党として成敗されちまうのかよ……」
「ちくしょう、こんなはずじゃなかったのに、俺が憧れたのは赤騎士みたいな、あんな騎士だったはずなのに……」
「なんだよ、何やってんだよ、俺は……」
やがて。
青い光は静かに消えていき。
光に照らされた赤騎士スターダストの姿も見えなくなって。
残ったのは夜の暗闇と。
「俺たちは……、ああ、こんな死に方ねえよ、俺、悪党として死にたくねえよ……」
戦う以前に心をへし折られ、その首を差し出すように俯く二百の騎士たちであったのだ。
熱い闘争心も勝利への気概もジュッと蒸発し、あとには砂のような敗北と冷たい悔恨だけが残っていたのだ。
「剣聖様」
司令官は剣聖の前に進み膝を付くと。
「此度の一件、すべての責はこの私にあります。さすれば我が首ひとつを以て配下の命ばかりは何卒……」
もはや王国騎士団に勝利の目はなかった。
降伏して勝者の慈悲を乞い願うよりなかったのだ。
老剣聖は、その首を差し出した司令官に。
「のう、司令官殿よ」
これまでと全く変わらぬ口調で。
争いも殺し合いも、まるで一切なかったかのように。
「多少の行き違いはあったがの、幸いにして誰も死んではおらぬ。たいして怪我人も出てはおらぬ」
「剣聖様、なりませぬッ」
後方でフードリアの警護隊長が叫ぶも、それはバーミヤに制止されて。
そのバーミヤに剣聖は目礼してから。
「司令官殿、見ればそなたの額の傷が一番深そうじゃの。早う戻られて手当てなさるといい」
「剣聖様、かたじけない……。しかし、既に死んだ者はいるのです。この私によって、ああ、この私は……」
司令官は剣聖の温情に声を震わせたが、それでも首を差し出したままで。
「今回、私は従卒の子をひとり殺めております。剣聖様を害する命令に従わぬ従卒に腹を立て、その指を落とし、その膝を砕き、殴り殺してしまったのです。私は、私だけは成敗されねばならぬのです」
「ふむ。酷いことをしたものだの」
剣聖はチラリと後方を振り向いてから。
「ならば覚悟致せ。そなたにはここで死んでもらうぞ」
「ははッ」
その首を差し出した司令官に向けて。
剣聖は見えぬ速度で抜刀して。
次の瞬間にはチンと納刀して。
そして。
「ぐッ、剣聖様、これは……」
宙高く舞った指がボトリと地に落ちたのだ。
「そなたは騎士として、道を大きく踏み外した。故にワシは騎士としてのそなたを殺した」
指を落とす。
それは騎士にとって、首を刎ねられるよりも大きな恥辱とされている。
利き手の人差し指。それを失うと剣を満足に振れなくなるからだ。
その指を、騎士の命である利き手の指を、剣聖は奪ったたのだ。
この司令官は騎士としての最大の恥辱を、そして死刑宣告を与えられたのだ。
「剣聖様、後生でございます。どうか、どうかこの首をば!」
「ならぬ!」
剣聖はピシャリと鞭打つように。
「此度の一件は、死者のひとりもなく終わらせねばならぬのだ。ゆえにそなたに死を許す訳には参らぬ」
「しかしザークは既に、私の手によって既に……」
「問題ない!」
剣聖はこれに断言して。
「何も問題はない。ゆえにそなたは生きよ。騎士としては今日ここに死んだが、これよりは人として生きるのだ。その罪業を償うため、人として生きて生きて生き抜くのだ!」
「剣聖様……」
「だから案ずるな。何も問題などない」
剣聖はその袖口を歯でビリリと破ると。
司令官の手をきつく縛って止血してやり。
「今回の一件で死者など出ておらぬのだから。そなたは早う戻られて手当てなさるといい」
「ぐ……」
司令官はしばらく肩を震わせてから。
「本日の演習はここまでとする! 総員、今回御協力頂いた先公妃様に敬礼!」
その号令に、騎士たちは剣を立てて敬礼を送り。
「散会!」
その号令で、ザッザッと靴を鳴らして去っていったのだ。
「ふう、ご苦労さま。剣聖、あなたがいなければ私の命はなかったわ」
「もったいないお言葉、痛み入ります」
「ああ、それにしても」
バーミヤは暗闇に目を向けて。
つい先程まで眩く輝いていた、厩舎の方向をじっと見つめて。
「たしかに赤騎士だったわね……」
まるで幽霊でも見たかのように。
そして大きく落胆した表情で。
「ドラゴン殺しの赤騎士スターダスト卿……。その正体は剣聖ではなかったのね……」
その赤騎士はとうにその姿を消していて。
宿所の火災も鎮火され、二百の騎士たちも去り、夜の中に残ったのは。
神技百歩神剣を会得した剣聖その人と。
その命を賭けて忠義忠節を示して見せたフードリアの家臣団と。
思案顔のバーミヤ、ふたりの少年、それと。
拘束魔法をマトモに喰らって地に倒れ伏したままの……。
「爺様、爺様ぁッ、どうか手を貸してくださいッ。あちこち折れてて立つことも叶わぬのです。たいした怪我人も出ておらぬって、私のことはカウントしてくださらぬのですか? ああ痛い、あちこち骨折してて、ぐす、身も心も痛くて痛くて、泣きそうなんですがあぁッ」
◇◆◇◆◇
「さてザークとやら」
「は、はいッ」
無事に消火の終わった宿所。
その豪華な応接間で。
その室内には四人。
フードリアの先公妃バーミヤ、壁際に立つ年若い侍女、そしてふたりの少年である。
ちなみに警護の家臣団は、先程のような攻撃魔法による襲撃を再び許さぬよう、この宿所の周囲を固めている。
「そなたのお陰で助かりました。騎士団の目論見に対し事前に備えることができたからこそ、剣聖が間に合ってくれたのですから」
「いいえそんな、俺はただ当てずっぽうで、俺みたいなただのガキのタワゴトをまさか本当に信じてくれるなんて」
「いいえ、それは違うわ」
女傑バーミヤはニコニコと嬉しそうな顔で。
最高級の宝石を前にした、女盗賊の笑みで。
「あれはただの当てずっぽうなどではないし、そなたはただの子ではありませんもの」
「はい、バーミヤ様」
これに金髪の少年もニコニコ顔で。
「このザーク君は、実に得難い才の持ち主なのです」
「才? 俺が?」
「はい。ザーク君、昨日君はボクたちに声を掛けましたよね。あの大聖堂破壊事件について、質問しましたよね」
「ああ。でもそれが何だと」
「最初はてっきり騎士団の誰かに命じられたと思っていたんです。上から命令されて、質問したものと思っていたんです」
「それは」
「ええ。それは違いますよね。その後やってきた騎士さんにあんなに怒られていたんですから。つまり命令されたからじゃあない。君は君の意志で知ろうとしたんです。あの事件について」
「いやそれはだって当然だろ。あんなに途轍もない事件があったら、じゃあ魔王って何だよって知りたくもなるだろ」
「そしてボクたちに声を掛けたんです。たぶんこのキャラバン隊で、唯一事情に詳しいボクたちにピンポイントでね」
「それは」
「そしてボクの説明を受け入れました。普通の人なら絶対に信じない事なのに、即座に理解して受け入れたんです」
「あら」
「うん……」
これにバーミヤはやや複雑そうな顔をして。
一方でザークはその手を、その指をじっと見つめて。
「うん、リューへー君の言った事は全部本当だったんだ。正直まだ信じられないけど、あんな子が、あんなとんでもない子がいたなんて、本当に本当に、全部が本当だったんだ……」
「だからそれですよ」
「え」
「情報の重要性をよく理解していて、それを探り当てる嗅覚と、その真贋を判定できる頭脳を兼ね備えていて」
「リューへー君、何を」
「そして人の心を読み、集めた情報から未来を精確に読む。それがザーク君、君の持つ得難い才なのです。君は、君こそは」
「宝石。それもとびきりの、第一級の宝石ね」
「そんな、俺なんかが!」
雲の上の大貴族であるバーミヤにまで断言されて。
「俺はだってただの平民で、剣の才能もない落ちこぼれの従卒で……」
「ザーク君、まだ分からないのですか」
うろたえる少年に、その友もまた断言したのだ。
「情報を制する者は世界を制する」
「え」
「ザーク君、君は世界を制する才を持っているのですよ。その才はこの世界に……」
「この世界に二人といない」と言いかけてから。
ふいにあの院長先生の顔を思い浮かべてしまって。
「この世界に、真に稀有なる才能なのですよ」
「俺が? 俺に世界に稀有なる才能?」
「その上で、そなたに尋ねます」
「はいッ」
「そなた、我が公爵家に仕えませぬか?」
「え」
「そうね、まずは寄り子の男爵家あたりに養子に迎えてもらって家督を譲らせましょうか」
「え、男爵家? え、家督?」
「ええそうよ。まずは文官として、行く行くは家宰として我が公爵家を切盛りしてもらいますからね。格としてはできれば子爵家が望ましいのだけれど」
「ししゃ……、お待ちください!」
「ザーク君」
金髪の少年はいつものニコニコ顔で。
友の才能が、はじめて正当に評価された喜びを満面に表して。
それをまるで我が事のように、いやむしろそれ以上に嬉しそうな顔で。
「バーミヤ様は、人材を見つける名人として知られた方なのです。そのバーミヤ様が、君のことを最大級に評価なさっているのです」
「……」
「いいわね? ザーク、そなたは今日から我がフードリア公爵家の」
「申しわけございません!」
「えッ」
バーミヤは信じられぬものを見た。
王国騎士団の襲撃で絶体絶命の危機にあっても、眉一つ動かさなかった女傑バーミヤが、心底驚愕の顔になったのだ。
「ザーク君、いったいどうして! フードリア公爵家は君をここまで高く評価しているのですよ! 君のことを貴族にしてでも欲しいと仰っているのですよ!」
その手とその額を地につけて、土下座で詫びる友に。
「ザーク君、いったい君は何を……」
「バーミヤ様、そしてリューへー君、ありがとう。俺なんかの事をここまで高く評価してくれて、本当にありがとう。嬉しくて嬉しくて、泣きそうだ!」
「だったら! だったらフードリアに仕えればいいじゃないですか! 貴族になっちゃえばいいじゃないですか!」
「ダメだ、リューへー君、それはダメなんだ」
「ザーク君……」
「理由を……。このフードリアの申し出を蹴るからには、公爵家の家宰の座も、陞爵の栄誉も蹴るからには、それ相応の理由があるのでしょうね」
その表情こそ羽扇で優雅に隠したものの、その羽扇は怒りでプルプルと震えていた。
平民の子に対してこれほど破格の厚遇を用意したのに、それをまさか蹴られるとは予想もしなかったからだ。
「言いなさい! ザークよ、それがつまらぬ理由であるならば許しません。必ずやその命で贖ってもらいますからね!」
「先公妃様、申しわけございません! これはつまらぬ、本当につまらぬ理由なのです!」
ザークはその顔を上げて、バーミヤを真っ直ぐに見て。
「俺は、自分は、最初の戦場で死ぬそうです」
「は? 戦場?」
「はい。剣聖様にはっきり言われたのです。俺には剣の才も槍や弓の才もないと。だから騎士としても兵としても、最初の戦場で死ぬ定めであると」
「はあ? そなたは文官ですよ? 当家に仕えれば貴族となれるのですよ? それがなぜ戦場に行かねばならぬのですか?」
「ですから」
ザークは揺らがず真っ直ぐに見据えたままで。
「ですから俺は、自分が死ぬ戦場を自分で決めたいのです。いいえ、もう決めたのです。指を落とされ膝を砕かれ死ぬほど殴られて、ああ俺はここで死ぬんだなってときになって、やっと分かったんです。本当は俺、どんな死に方をしたかったのか、やっと分かったんです」
「そなた、いったい何を……」
羽扇の下でバーミヤの眉が曇った。
指を落とされたと言うが、この少年は指など失っていないではないか。
膝を砕かれたと言うが、自分の足で歩いているではないか。
死ぬほど殴られたと言うが、その顔には痣一つないではないか。
なのに。
この少年は嘘など言っていない。
その根拠は、血塗れでボロボロになった衣服ではない。
先刻の司令官の「従卒ザークを殺した」発言でもない。
その根拠は、どこまでも透明で真っ直ぐなその目である。
公爵家の宰領者として、これまでたくさんの嘘に接してきたバーミヤだからこそ、はっきり分かってしまうのだ。
この少年は、嘘など言っていないと。
この少年は、到底信じられぬ事を言ってるにも関わらず、何ひとつとして嘘偽りを吐いてはいないのだ。
「それで俺、何がなんだか分からないまま生き返っちまって、それで決めたんです。自分が死ぬ戦場を決めたんです」
「ザーク君……」
「俺は、俺は……」
それは固い決意。
「俺は、オータニウス様の戦場で死にたいんです!」
それは誰にも砕くことのできない、固い固い決意。
「いつかオータニウス様が、行方不明の第二王子様が兵を起こして立ち上がったときに、俺はその戦場に立ちます! 兵卒として殿下の戦場に馳せ参じ、殿下ために戦い、殿下のために死にます! それが俺の成すべき道なのです!」
「理解できないわ」
「申しわけありません!」
「本当に、つまらない理由ね」
「本当に、本当に、申しわけありません!」
「はあぁ」
バーミヤはため息をひとつ。
「私ってね、気に入ったモノを横から人に取られるのが大ッ嫌いなのよね」
「……」
「だから気に入ったモノを見つけたら、まずはツバを付けておく主義なの。これは私のモノよって」
「……」
「ふぅ。でも今回ばかりは怒るワケにはいかないわね」
「え、先公妃様……」
「はあぁ。私よりも先に、ツバが付けられていたなんて」
「え、え?」
「ザーク君」
「え」
「君は曲がりすぎです。とんでもなくひん曲がっています」
「リューへー君、ゴメンな。俺のクソ親父がとんでもなく曲がっちまったからさ、きっと息子の俺は、その反対側に曲がらないといけないんだ」
「どうかしてます。ザーク君、君はまったく、どうかしてます」
「うん。どうかしてるよな、俺」
「はぁ……」
バーミヤが落胆のため息をついて。
ザークは小さくなったまま何も言えずにいて。
金髪の少年も無言のまま天を仰いで瞑目していて。
そんな居心地の悪い沈黙がしばらく続いてから。
やがて。
「ふうぅ」
根負けしたように息を吐いたのは、金髪の少年だった。
「バーミヤ様」
「え」
少年は何事かを決意したように。
「バーミヤ様、お願いがひとつあります」
「う」
それは内心いつ来るかと恐れていた言葉。
数日前、バーミヤはこの少年とある賭けをしたのだ。
負けた者は勝者の願うことをひとつ聞く、そんな賭けを。
絶対に勝つはずの賭けを自ら持ちかけて、その勝負に敗れてしまったのだ。
よって以来、バーミヤはその約束を盾に無理難題を負わされることを内心で恐れていたのだ。
(挙兵のための兵を貸せ、それとも巨額の資金援助かしら……)
しかし少年の要求は、全く予想外のものであった。
「バーミヤ様、その羽扇をば頂けませんか?」
「え、これですか? あなたは勝者の権利として、こんなものを要求するのですか? こんなものでよろしいのですか?」
「はい」
それを爽やかな笑顔で受け取ると。
「ザーク君」
「え、俺? リューへー君、いったい何が、何を?」
「ザーク君、そこで膝を付いて最敬礼を」
「!」
最敬礼。
それはこの国の騎士が、王族など相当高い身分の者に捧げるものである。
この国の騎士が、自分の主君と認めたただひとりの王者に対し捧げるものなのだ。
その最敬礼を、目の前の少年が自分に要求したのである。
友であるはずの、自分と同じ庶民であるはずの少年が、しかもバーミヤという大貴族の眼前で、最敬礼を要求したのである。
それが意味するところは明らかであった。
それが意味することなど、ただひとつしかなかった。
「ああ……、そんな……、あ、あああ……」
蒼白になってまるで崩れ落ちるように膝を付き、ぎこちなく最敬礼する少年に。
ガタガタと震えるその肩に。
貴婦人の羽扇がフワリと乗ったのだ。
それはまるで、王が騎士の肩に剣を置くように。
それはまるで、王宮での近衛任命式典のように。
「俺の……、俺のクソ親父は……、あなたの、あなたの事を……」
「ええ、危うく殺され掛けましたよ。あの方がいらっしゃるのがほんの僅かでも遅れていたら、ボクは死んでいたのです」
「俺のクソ親父が……、くそ、ちくしょう、あなたの事を……、あなたの命を……」
「不思議だったんです。それがなぜか分からなかったんです。騎士たちはこれで近衛になれると皆浮かれていて、笑いながらボクを殺そうとして。でもその中でただひとりだけ、とても辛そうな顔をしてる人がいて」
「くそ、くそ、ちくしょう……」
「不思議だったのに、それを今まで忘れていたんですよ。その騎士の事を。なぜか辛そうだったその顔のことを。でもようやく分かりました。今になってやっと分かりました。あれは父親の顔だったのです。ボクのことを、同じ年頃の自分の息子に重ねていたのです。殺すべきボクと、愛する君の事を重ねて苦しんでいたのです」
「ちくしょう、ああくそ、ちくしょう……」
「ザーク君、今まで黙っていてゴメン。君にとってボクは、お父上の仇なのです」
「違う! あなたは悪くない! 悪いのは俺の……」
「ザーク君、それでも君に頼みたい。今のボクは王太子でもなんでもないただの庶民で、こんな資格などないのだけれど。それでも君に頼みたいんだ。爵位はおろか、ちゃんとした騎士の称号さえも約束できないけれど、君に頼みたいんだ」
「うううぅ……、くそ……、うう、うううぅ……」
「ザーク君、ボクの近衛になってくれ」
「う、ううぅ……、なんだよちくしょう、こういうのは、こういうときのは、剣じゃねえのかよ……」
「ザーク君には、剣なんてあげませんよ」
「ああくそ、くそ、くそぅ……」
「君には金輪際、剣なんて持たせませんから。だってボクにとっては、たったひとりしかいない家臣ですよ? それもとびきり優秀な家臣ですよ? 戦場なんかで失うワケにはいかないじゃないですか」
「くそぅ、ちくしょう、だからって、だからって、なんでこんなフワフワなんだよぉ……」
「古来戦場において、軍師とはこれを持つものだと聞いたもので」
「くそ、くそぅ、なんだよ軍師ってのは……」
「情報を制し政略軍略の限りを尽くして、勝利を高く高く積み上げる天下第一の知恵者のことです」
「くそ、くそ、くそぅ……、俺は一兵卒だぞ……、オータニウス殿下のために馳せ参じて、殿下のために最前線で戦って、そこで死ぬのが俺の、俺の……」
「それは違います。ボクが戦場に立つとき、君の居場所はボクの隣です。ボクが戦場に立たないとき、君はボクの名代で総大将です。君は騎士でもなく兵でもなく、軍師としてボクに勝利を捧げるのです。それが君の定めなのです。戦場で死ぬことなど、ボクは絶対に許しませんからね」
「ちくしょう、あああ……、ちくしょう……、友だちだと、友だちだと、思っていたのによぉ……」
「今でも、そしてこれからもずっと友だちですよ。兵舎の便所掃除を手伝ってあげたのに、そんな悲しいことを言わないでください」
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、貴族じゃないって言ったくせによぉ……」
「ええ、ボクは貴族ではありませんからね」
「ちくしょう、なんだよそれ、そういうことかよ、ちくしょう、ちくしょう……」
最敬礼の姿勢のまま、いつまでもいつまでも肩を震わせる少年と。
その肩に、剣ではなく羽扇を乗せて「最強の家臣」を得た少年と。
それはまさしく荘厳なる名画であった。
この国に語り継がれていくであろう歴史上の名場面であった。
その姿はそう、まるで即位式典の新王と軍務総長の姿にも似ていたのだ。
そう。
あのとき、王衣王冠で神剣を腰に差した父王と。
今、庶民の格好で羽の扇を差し出すこの少年と。
その父子の姿が重なって。
バーミヤの胸にも何か熱いものがこみ上げてきて。
ついにはその口からこぼれて落ちてしまったのだ。
それは。それこそは。
簒奪者によって実権を失ってもなお、エンゲルス王家に確かに受け継がれていた。
「王器……」
「くそ、ちくしょう……、なんなんだよ、便所掃除の上手い王族なんて、聞いたこともねえよ……、ちくしょう、ちくしょう……」
かなり初期から、ずっと書きたかった場面です。
何年も前の夏休みの宿題を、今ようやく提出できたような気分です。




