(44) 大賢者
「それでね、副司教様が来なくなってお兄ちゃんたちもお姉ちゃんたちもみんなションボリしてて」
いつものように朝日よりも早い時間に。
空にはまだ星の残るこんな時間に。
いつものように俺はこの孤児院に来ていたりする。
ちなみに外はまだ真っ暗だけど、この部屋にランプの必要はない。
ここには人間ランプのポポラマがいるからだ。
「みんなあの副司教様に憧れてたから……」
「中身はとんでもない野郎なんだけどなぁ」
「うん。なのにいつかできたら副司教様みたいに教会で働きたいって言ってるお兄ちゃんもいて」
そしていつものように。
発光幼女のポポラマはぐっすり眠る院長先生を治療しながら、こうして俺と他愛のないあれこれを話すのだ。
俺もポポラマもヒソヒソと小声でね。
だって高木さんの遮音魔法で部屋の外に声は漏れないとはいえ、院長先生が起きてしまうといろいろと面倒なことになるからさ。
「なんだキミは! 私の部屋でいったい何をしているんだ! こんな時間から幼女とふたり、いったい何をしているんだッ!」とかなったらアウトじゃん、社会的に。
そんなロシアンルーレットな毎日なんだけど、幸運にもこれまで俺は怒られたことはない。
こうしてポポラマと話していても、この院長先生が起きた事など一度もないからだ。
よほど眠りの深い体質なんだろうね。
「でも教会で働くにはちゃんと学校に通わないといけなくて、そんなのアタシたちには絶対に無理なのに」
「無理? なんで?」
「テツヤくん知らないの? 学校なんてお金持ちの子しか行けないんだよ? 決まってるじゃん」
「ああそうか、こっちには義務教育とかないものなぁ」
「テツヤくん、義務教育ってなあに?」
「ええと、ガキんちょなんて皆、学校に行くものなの。昔からそう決まってるものなの」
そうこうしてるうちに今日も空が白みはじめて。
「じゃあなポポラマ、俺はもう行くわ。便所掃除に遅れると竜兵のヤツがうるさいからな」
「ううぅ、じゃあまたねテツヤくん。また明日……」
「ああ、明日もちゃんと来るからそんな顔すんな」
これもまたいつものように、ついつい言ってしまうのだけど。
そもそもさ、このロシアンルーレットはいつまで続くのよ?
この院長先生ときたら、いったいいつになったら完治するのよ?
脚の傷も頭の傷も、とっくに消えて見えなくなってるんだけどなぁ。
その院長先生に。
最後に振り向いてチラリと見た院長先生の寝顔に。
その目のあたりに。
一瞬だけキラリと光るものが見えたのは、きっと何かの錯覚だと思う。
◇◆◇◆◇
「あれは誰の誕生会だったかねぇ」
王都公爵邸の執務室で、フードリアの女傑バーミヤはひとり瞑目している。
あれはそう、あの孫娘も随分と幼かった頃に。
「いいこと? この子には私がツバをつけたのだからロイホスは横取りしないでね。この子はもう私のモノだからね!」
何かのパーティーの席上で、彼女はそう宣言したのだ。
集まった家臣の子弟の中でも最も賢そうな少女の頬をいきなりペロリと舐めるや、そう宣言したのだ。
そして本当にそのまま自分の侍女に据えてしまったのだ。
多少の勘違いがあるとはいえ、バーミヤの日頃の口癖を真似る程にこの祖母のことを慕ってくれた孫娘であったのだ。
口癖だけではない。
女傑バーミヤの気質を唯一引き継ぎ、それ故にバーミヤが最も愛したのがあの孫娘であったのだ。
「愚物ばかり」と評したフードリア一族の中でも唯一の例外こそは、実はあのサイゼリーナであったのだ。
だからこそ一度目は信じられなかったのだ。
だからこそ二度目は怒りで腹が煮えたのだ。
フードリアで唯一自分に似ているはずの孫娘が、その将来に大きく期待もしていたあの孫娘が、よりにもよって下賤のチンピラ風情に誑かされるままガタナー商会へと加担し、フードリアを危機に晒したのだから。
「でもそうではなかった。サイゼリーナは、はじめから知っていたんだわ。オータニウス王子のことも、彼を匿っているガタナーのことも」
どんな理由によるものなのか、サイゼリーナは新王の即位式典の直前に城壁外にある貧民街を訪れたらしいのだ。
彼女がガタナーと第二王子の事を知ったのはその時なのかもしれない。
それでサイゼリーナは決断したのだ。
フードリア公爵家の命運を丸ごと、あのオータニウス王子に託すことを。
つまりガタナー商会への加担とは、考えなしの成り行きでも無謀な賭けなどでもなく、彼女なりに十分に勝算があっての判断だったのだ。
けして、断じて、その日に出会ったばかりの下賤なチンピラに誑かされての愚行などではなかったのだ。
それがようやく明らかとなったのだ。
この朝運ばれて来た二通の書簡によって、バーミヤにもそれがようやく理解できたのだ。
そのうちの一通とは、現公爵であるガストンからのもの。
ガストンによれば、サイゼリーナが精神集中も詠唱もなく瞬時に七つの火球を出して見せたというのだ。
果てにはなんと、十個もの火球を出しそれを自在に操って見せたというのだ。
そう。
あのときオータニウス王子は自分に何と言ったか。
(たとえ自在に操る火球が四つでなく七つであろうとも……)
そう。
オータニウス王子はとっくに知っていたのだ。
サイゼリーナが古今に稀なる大魔法士となっていることも、その正確な実力の程も、とっくに知っていたのだ。
なぜならばサイゼリーナに魔法の力を与えた者こそ、他ならぬあの。
「赤騎士、スターダスト卿……」
ただのひとりで、無手のままで近衛一隊をねじ伏せたあの赤騎士である。
主君オータニウス王子のため、あの恐ろしげな九首のドラゴンを狩り取ったというあの赤騎士である。
忠義忠節と、世の中の正義を体現したようなあの美しい赤騎士である。
巨大なドラゴンの首という置土産によって、ガタナーを守る天意であることを自ら証した、あの赤騎士である。
そのスターダスト卿が、おそらくは監獄塔のサイゼリーナの元に現れたのだ。
そして、まるで聖職者に聖別痕をお与えになる聖天使様のように、我が孫娘にも格別の力を与えたのだ。
それも、大司教への聖別痕とはまるで比較にならぬほどの破格の力を……。
そのことをバーミヤに理解させたもう一通の書簡。
それは公爵領にある崖の上修道院からのものであった。
『サイゼリーナ様のいらっしゃったお部屋には書物が残っておりました。そこにあるはずのない書物が、なんと数十冊も残されていたのです』
すぐに家人を呼びつけそれらの書名を確認させたところ、バーミヤの予想は的中した。
なんとそれらの書物は全て、この邸宅の蔵書室から持ち出されたものであったのだ。
ならばいったい誰がそれらの書物を持出したのか?
いったい誰がそれらの書物を遠く離れた監獄塔に持ち込んだのか?
決まっている。
その誰かとは厳重に施錠された一室にも、人間には近寄ることもできぬはずの崖の上の高塔にも、まるで射し込む朝日のように侵入してしまう存在だ。
大司教をも凌駕する破格の力を、我が孫娘にポンと与えてしまうような存在だ。
「そんなの、聖天使様以上の力を持つお方なんて……」
自然と天を仰ぎそうになり、バーミヤはフルフルと首を振った。
「とにかく今は情報を、少しでも情報を集めないと。赤騎士スターダスト卿とはいったい何者なのか、このフードリア家にいったい何を望んでいるのか……」
そしておそらくは。
その糸口となるのは監獄塔に残されていたという書物である。
「アリストメデスねぇ……」
赤騎士スターダスト卿が持ち込み、サイゼリーナに読ませていたであろう書物。そのほとんどはアリストメデスによる著作であったのだ。
大賢者アリストメデス。
それは一時期、この王国の知識人サロンを席巻した名であった。
古代からの伝統や常識よりも実際の観測や実験を重視した人物。更にはそこに現れる数字の間に、一定の関係式が成り立つことを証明した大学者である。
その著作は天体の運行から空気の組成から人口と経済の変化率について、果ては大迷宮の構造についてと実に多岐にわたるため「アリストメデスとは一人の人物ではなく複数の研究者たちの連名ではないか」とも噂されていた。
しかし昨今ではその名を耳にする機会もすっかりなくなってしまった。
彼の著作物は全て、教会によって発禁書として認定を受けてしまったからだ。
発禁認定の理由は明かされてはいない。
広範すぎる研究分野のどこかで、教会教義に抵触したのかもしれない。
同時期に異端認定された「懐疑派」との関係も噂されていた。
ともかく。
「大賢者アリストメデスの一件についても探るべきだろうねぇ……」
バーミヤは今度こそ天を仰いで嘆息した。
近頃では心中の「要検討」ボックスが溜まっていく一方なのだ。
◇◆◇◆◇
「ぼ、僕たちに、勉強を教えてくださるのですか?」
孤児たちは当惑していた。
この孤児院に隣接して、新たに教会が建てられたのだ。
聖天使様や歴代の聖人の像もないような、ミサを行う講堂すらもないような、小さな小さな教会である。
そして近隣への挨拶と称して、サン・シーロと名乗る司祭がこの孤児院を訪れたのだ。
そして孤児らに対して、希望するなら読み書きや計算を教えてくれると申し出てくれたのだ。
更に、成績が優秀ならば神学校へも推薦してくれるというのだ。
「あなたたちのことはケニーガ副司教から託されたのですよ。自分は急な人事異動で遠国へと赴任することになってしまったから、後事はこの私に頼むと」
「ああ、ああ、副司教様……」
孤児たちは感激で声もなかった。
自分たちはあの副司教様に見捨てられたわけではなかったのだ。
お金持ちしか通えぬと思っていた学校、諦めていた未来、そんな未来をあの副司教様は残して行ってくれたのだ。
そんな孤児らをニコニコと見ていた院長は、サン・シーロ司祭にペコリと一礼するとヒョコヒョコと脚を引き摺りつつ自室へと戻って行った。
サン・シーロ司祭にお礼を伝えたくともできぬのだ。
この院長は昔負った大怪我によって、とくに頭部の損傷によって頭が弱く、言葉も話せないのだから。
「これでよろしかったのですね」
その院長の前に膝を付き拝礼するのは、サン・シーロ司祭である。
子どもたちには「実はケニーガ副司教には、あの院長の治療についても託さているのです」と告げて、入室するやあたかも高位聖職者と面会するように膝を付いたのだ。
「司教様より連絡を頂戴し、司教様がご存命と知り、ご健在と知り、それが我らにとってどれほどの驚きであったか、ああ、どれほどの喜びであったか……」
「サン・シーロ司祭、私はもう司教などではありませんよ」
落涙するサン・シーロ司祭を穏やかに諭したのはこの孤児院の院長であるイブシコであった。
頭部に負った大怪我により、言葉を失ったはずのイブシコ院長であった。
「なにせ司教位などは、十年も昔に剥奪されていますからね」
「しかし我らにとって貴方は!」
「司祭」
言葉を失ったはずのイブシコは、ポタポタと落涙する司祭に優しく穏やかな声で語りかけるのだ。
「司祭、かつて私は聖職者にありながら知識への渇望を抑えることができませんでした」
「はい」
「天体の運行について、空気の組成について、人口と経済の変化率について、果ては大迷宮の構造についてまで、私はこの知識欲を抑えることができませんでした」
「はい。貴方様は正体を明かさず変名にてそれを世に発表しました。古代以来の誤謬を幾つも幾つも晴らしたことで、不世出の大賢者とも称えられました」
「そして聖職者たる私の知識欲は当然の如く、神に対しても向けられてしまいました。神とはいったいいかなる存在なのかと……」
「その貴方様によって、司教位という高職にありながら神の有り様に初めて理性のメスを入れた貴方様によって、我らは目を覚ましたのです。否応もなく理解させられたのです。神とはけして善なる存在ではないことを。神とはけして正義の存在ではないことを。そして我らは貴方様のもとに懐疑派として……」
「司祭、それは違うのです」
イブシコは穏やかに首を振った。
「司祭、私はもう懐疑派ではないのです」
「そんな、司教様!」
「司祭、聞いてください。私はね」
イブシコ院長は至福の表情を浮かべて。
「私は見つけたのです。ああ、ついに、ついに見つけてしまったのです」
その両頬を、歓喜の涙が伝って落ちたのだ。
「心の正しい者、無力な幼子の痛みも苦しみを見つけてくれて、心悪しき者には掣肘を下す。そんな神を、善にして正義の存在たる神を、私はついに見つけてしまったのです」
「司教様……」
「サン・シーロ司祭、私はもう懐疑派などではありません」
「はい……」
「司祭、どうか皆にもこの私の証言を伝えてください。善にして正義なる神はこの地に降臨なされたのです。これよりは、新しき時代が到来するのです。この地は、新時代の聖地として新しき神に選ばれたのです」
「司教様……」
「ですから」
サン・シーロ司祭の目が驚愕に丸くなった。
貧民街の孤児院の院長が。
元司教にして、大賢者アリストメデスの名をも持つイブシコが、両の掌を天に向けて十字の姿勢を取ったからだ。
これは聖別痕を得た大司教以上の高位聖職者にしか許されぬ「告神託」の姿勢であるからだ。
「子どもたちへの教育について、くれぐれもお願いしますよ」
「は、ははッ」
「貴賎もなく貧富もなく子どもたちは遍く皆、教育を受けるべきなのです。なぜならば」
イブシコは厳かに宣言した。
「それこそが神の、新しき時代の新しき神の、第一の御意思なのですから」




