(33) 足止め
俺も竜兵も久しぶりの休日である。
なのに、ずいぶんと慌ただしい朝だった。
例えるならば「もうダメ、産まれそう、産まれそうッ」みたいな状況だったのだ。
いや、この例えは新しい生命を宿し産み出す世のお母さんたちに失礼かもしれない。
なにしろこれから出てくるはそんなにカワイイ奴ではないのだから。
だから例え直すなら「もうダメ、漏らしそう、漏らしそうッ」みたいな状況だったのだ。
いや、この例えは今現在頑張って収納魔法に集中している高木さんに失礼かもしれない。
なにしろ擬態した胴鎧に汗を滲ませながら、必死になって便意に耐えているのだから。
「いや兄様、便意って言っちゃってますよッ」
「ともかく! 竜兵、走るぞ、急げ!」
目的地はあの泥亀のいる川っぺり。
この季節なら誰もいないからとガタナーさんにも確認済みの場所である。
チンタラ歩けば一時間、しかし走ればものの十分程で到着できるはずだった。
それなのに。
「おいおいおい、こんな時にマジかよ」
ここに来て不測の事態発生である。
「どうしたんですか、兄様」
「赤いチカチカ点滅がこっちに向かってるんだ」
「え、それって」
「奴だ、奴が来る。このチカチカはあのチンピラ志望の爺さんだ」
「えええーッ」
実はカルマのレーダーで、あの爺さんが俺たちの住むガタナー商会に近付いてくるのはとっくにキャッチしていた。
だから今日は朝から竜兵を急がせて早めに出発したのだ。
でもまさか、その直後に高木さんが産気付くとは予想していなかったのだ。
そしてまさか、あのガタナーさんが俺たちの行き先をあっさり教えてしまうとも思っていなかったのだ。
「くそ、待ち伏せの次はストーカーかよ、あの爺さん! このままだと爺さんにドラゴンを見られてしまうぞ」
「そんなの見られたら大騒ぎになっちゃいますよッ。今からでもどこか他の場所に……」
「若旦那、く、いけねぇ、野郎がとうとう目覚めたようです、ぐ、今はまだ寝ぼけているみたいですが、もう……」
「マジかよ、高木さん!」
以前高木さんに聞いた話によると、ミミックにとって収納空間とは内臓のようなものらしい。
その内臓の中で、火や氷を吐き出す巨大恐竜が暴れたらどうなるか。
今も高木さんは必死に魔力を込めて、中の時間経過を遅らせようとはしているんだけど、中にいるドラゴンは魔物として格上すぎるからあんまり効果がないとかで。
「ともかく! 時間がない、予定変更はナシだ。俺はこのまま川まで走る。竜兵ッ」
「はい」
「おまえは爺さんが来ないようにここで足止めだ。いざとなったら力づくでも爺さんを止めるんだ」
「そんなぁ、力づくなんてボクには無理ですよぅ」
「そんな事言ってる場合かッ。根性を見せろッ。相手はただの爺さんだ。おまえでも時間稼ぎくらいはできるはずだ」
「わ、分かりました。なんとかここでお爺さんを食止めてみます」
「頼んだぞ!」
「はい!」
「若旦那ァッ、産まれそう、産まれそうですぜッ!」
「高木さん、もう少し、もう少しだから堪えてくれよぅ、ヒッ、ヒッ、フゥーッ、ヒッ、ヒッ、フゥーッ」
◇◆◇◆◇
走り去って行くその背中を見つめながら。
「変わらないなぁ……。ホント、少しも変わらないなぁ」
残った竜兵は呟いていた。
哲也の背中。あのときと同じ哲也の背中。
そう、あのとき。
ドブクサイの大迷宮で命を救われて。
「俺の弟になれよ」と魂を救われて。
森の中を歩きながら、声を殺して泣きながら見つめていたあの背中。
キラキラと輝いていた兄の背中……。
あれから。
兄は町の嫌われ者になってしまった。
下品で、乱暴で、ときどき理不尽な、モヒカン頭のチンピラになってしまった。
あの見事な聖天使様の全身鎧も、古くてみすぼらしい木製の胴鎧へと姿を変えてしまった。
なのに。
「ホント、ちっとも、まったく、少しも変わらない人だよね……」
常識がなくて、すぐに暴走して、いつもいつも竜兵を振り回して。
なのに、なのに。
「兄様……。ボクの兄様」
その存在はいつだってキラキラと眩しくて。
(そうとも。おまえはテツヤ・サイトーの弟の、リューへー・サイトーなんだよ)
その温もり、その矜持こそは心の暗闇を照らす、ロウソクの炎のようで。
だから、だから。
「ボクは変わらなきゃダメなんだ」
あの人の弟として。
モヒカン頭のチンピラ、泥亀のテツの弟として、恥ずかしくないように。
「ボクだって、もうあの時のような無力なボクじゃない」
あれから少し背も伸びた。
兄と共に走れるくらいには体力もついた。
もちろんキングオークを倒すのは無理だけど、今ならば心を折ることなく逃げ回って時間稼ぎくらいはできると思う。
ましてここにやって来るのはキングオークなどではない。ただの老人なのだ。
「いざとなったら力づく……。そうだ、恐れている場合じゃない、思い出すんだ、お城で先生に教わったことを」
かつて。
竜兵は第二王子として王宮にいた頃、さる高名な剣士から剣術の手ほどきを受けたことがある。
大迷宮でキングオークの単独撃破すら成しえたこともある、とんでもなく強い指導剣士であった。
ちなみにその指導剣士であるが、ある時
「私など、我が師の足下にも及ばぬよ」
と漏らしたことがある。
指導剣士の師。
その師こそ大陸最強、生ける武神とも称される、かの剣聖その人であった。
その剣聖を、竜兵は王宮セレモニーの場で見たことがある。
さほど大柄な人ではなかった。
壮年をとおに過ぎて、それなりに老いてもいた。
しかし鍛え抜かれた鋼鉄の風格があって、そのオーラに第二王子オータニウスは圧倒されたのだ。
ああ、武の道の頂点とは雲の遥か遥か上、なんと高いものかとため息をついた記憶がある。
そんなことなどつらつら考えているうち、こちらに向かって走ってくる人物を見つけた。
だから竜兵は腹に力を込めて、
「止まってください! ここから先へは行かせません!」
たとえキングオークでもここから先へは行かせぬぞ、そんな気迫で叫んだのだった。
その竜兵に少し驚いたのか。
「ん、そなたは……」
走ってやって来た老人は。
毎日毎日待ち伏せし、土下座してまでテツヤに弟子入りを頼み込んでいたという老人は。
とうとうストーカーとなって、こんな場所まで追いかけてきたという迷惑な老人は。
少しだけ眉を動かしてつぶやいたのだった。
「殿下……、オータニウス殿下ではありませぬか」
そう、彼こそは大陸最強、生ける武神、武の道の頂点……。
「うあああぁ、兄様、兄様ぁッ! 何がただの老人ですかッ、何がチンピラ志望者ですかッ! 剣聖を力づくで足止めとか、絶対に絶対に無理に決まってるじゃないですかあぁッ!」




