(14) ガタナー
「しまった、寝過ごしてしまったッ」
ガバリと跳ね起きたのは城外市の商人、ガタナーである。
なにしろ小鳥が囀っているし、空はすっかり明るくなっている。
ここ何年もの間、こんな明るい時間に起きたことなどなかったのだ。
「ここはどこだ……」
「う、うーん」
ガタナーのベッドに、金色の頭が乗っていた。
整った顔立ちの少年が、椅子に座ったままスヤスヤと眠っていた。
「リューヘー君か。そうか、私は昨晩暴漢に襲われて……」
ガタナーは昨晩のことを思い出した。
取引先との商談が長引いて、王都を出るのがすっかり遅くなってしまったのだ。
それで夜道で突然暴漢たちに襲われて、金を奪われて……。
気がついたらたくさんの子供たちが泣いていて、治療師の先生がやって来て、救護院まで運ばれて……。
「あの中にこの子もいたのか」
たった一日。
アーヘンの花摘みの仕事で、たった一日の付合いしかないはずの少年であった。
「なのに、私のために一晩中付き添ってくれたんだな」
地味な古着を着て孤児の子供たちに混ざっていても、どこか品が良くて、星のようにキラキラと目立っていた少年だった。
来ていた女の子のほとんどが、花摘みの合間にこの少年をチラチラと見ていた程だ。
本来ならばこんな城外市にいるような子ではないのだ。
その言葉の微妙なイントネーションから、きっと王都でも相当に高い身分であるはずだとガタナーは推察していた。
そんな子が、ちっとも似ていない黒目黒髪の若者を「兄様、兄様」と慕っていた。
ワケ有りなのは一目瞭然だった。
「兄様か……」
ガタナーにもかつて弟がいた。
大人になってすっかり疎遠になってしまったが、幼い頃は「兄ちゃん、兄ちゃん」といつもくっついてくる弟だった。
なのに。
「ああ、私はちっともいいお兄ちゃんじゃなかったよ……」
子供の頃は貧しくて、いつもひもじくて、夜はいつも寒かった。
ある日、弟がどこからかパンを貰ってきた。
ガタナーはそれを無理矢理に奪い取って食べたことがある。
殴られた弟がビイビイ泣いて、ガタナーはカチカチに固いそのパンを食べて……。
それを今でも後悔している。
自分がもっと優しい兄であったなら、弟と今でも仲良くいられたのではないか。
自分がもっと優しい兄であったなら、弟が悪事に手を染めることもなかったのではないか?
そんなことをずっと考えてきた。
何度も何度も考えてきた。
そのうちにふたりの子供は大人になって。
弟はすっかり悪党となってしまって。
その一方で。
この兄を善人と呼ぶ者がいる。
この兄に感謝する者さえいる。
「まったく、こんな奴の、どこが善人なんだよ……」
この城外市では弱い者は生きていけない。
とくに身寄りのない子供は飢えて、凍えて、真っ先に死んでしまう。
ガタナーはそれをなんとかしてやりたいと長年頑張ってきた。
子供たちが温かい食事と、温かい毛布を得られるように、精一杯のことをやってきた。
ときに商人仲間から変人呼ばわりされながらも、ずっとひとりで頑張ってきた。
それはなぜか。
「私は善人なんかじゃない。私はただ、あのときの弟に、あのときの兄に、パンを食べさせてやりたかっただけなんだ……」
だから眩しかった。
古くてみすぼらしい胴鎧を着けたあの若者が眩しかった。
だからずっと見ていた。
泥亀を楽しそうにひっくり返す若者のことをずっと見ていた。
まるで花摘みの女の子のように、チラチラと、あの若者のことをずっと見ていた。
「私だって、あんな兄になりたかったんだよ」
ガタナーのベッドに顔を埋めて眠っている少年。
その頭を、ガタナーはそっと撫でてやった。
「ひどい、にいさま、ひどいです……」
その寝言にクスリと笑ったガタナーは、ハッと慌てて腹に手をやった。
笑ったことで刺された傷から激痛が走ると思ったからだ。
それなのに。
「なぜだ……」
激痛はなかった。
少しの痛みもなかった。
「なぜだ。あのとき私は腹を刺されたのに、まったく痛くないぞ」
ガタナーは少年を起こさぬよう、ゆっくりとシャツを捲って傷口を確認した。
「傷が……、ない……」
あのとき自分はたしかにこの腹を刺されたのだ。
とても痛くて、熱い血がドクドク止まらなくて、体が寒くなって、倒れて、意識を失って……。
それから孤児の子供たちが治療師を呼んできて、ここまで運ばれて……。
いや、その前に誰かに抱え起こされた気がする。
柔らかで優しい光で、凍えた体を温めてもらった気がする。
そう。
あのとき自分は、暗い路地裏で、たったひとりでみじめに死んでいくはずだったのだ。
その自分を、誰かが見つけてくれたのだ。
回復魔法で傷を癒してくれたのだ。
「それにしてもありえない。傷口がまったくないなんて、ありえない……」
そもそも、回復魔法による治療は庶民に手の届かぬほどに高価なのだ。
しかもここまで完璧な治療となると、それが可能なのは王都でもほんの数人。それこそ教会の大司教クラスでないと無理かもしれない。
むろん、町の治療師にできることではない。
ならば誰がこの傷を癒してくれたのか?
「まさか……」
ガタナーがこれまでやってきたこと。
贖罪のために汗を流してきたこと。
それを神様が、聖天使様が見ていてくださったのだろうか。
その上で、まだ死んではならぬと思し召したのであろうか。
「これは……、奇跡なのか……」
窓の外から射し込む朝日がキラキラと眩しかった。
自分の身に奇跡が起きなければ、けして見られなかった眩しさであった。
だからガタナーはその光に拝礼して祈った。
「聖天使様、おお聖天使様、この私にどうか、どうか、一目そのお姿をお見せください。そしてどうかお教えください。いったいこの私に何をお求めなのですか?」
ガタナーは祈った。
自分の身に起こったことが本当に奇跡ならば、自分になすべき使命があるのならば、この声はきっと聖天使様まで届くに違いない。
だから全身全霊で。
だから心からの感謝を込めて。
祈って、祈って、祈って……。
やがて。
「ガタナーよ! ガタナーよ! 出てこい!」
窓の外。眩しい光の中に彼がいた。
全身にトゲトゲのついた、黒い鎧を纏った聖天使が、ガタナーを呼んでいた。
城外市の小さな救護院。
その門の前に立っていたのは、いかにも恐ろしげな黒鎧の男であった。
それも一人ではない。
背後には四人の屈強な男を引き連れている。
しかもその四人は、見るからに裏社会の人間であった。
「なあ、あれ、あのモヒカン頭……、サダナー親分だよな?」
集まってきた野次馬の一人が呟いた。
「おい、あっちは西のローヒム親分だぞ!」
「北のシブー親分もいるじゃねえか!」
「あの若いのはイビール一家の幹部だぞ」
「ありえないだろ? 抗争中の組織のトップだぞ!」
「おいおい、いったい何が起きているんだよ!」
「それより誰だよ、あの黒鎧は!」
「ガタナー出てこいって言ってたが」
「ガタナーって誰だ?」
「たしか昨日刺されたって商人がそんな名だったような」
「助かったって聞いてたけど、また殺しに来たのか?」
「おいおい、ただの商人をこのメンツを揃えて殺すのかよ?」
「ガタナーが何をしたのか知らないが、それじゃいくらなんでも……」
いつしか集まってきた野次馬が、周囲をグルリと取り囲んでいた。
その群衆の中には、昨日ガタナーをここまで運んできた子供たちの姿もあった。
誰も彼もが、これからガタナーが酷い目に合わされるものと信じて疑っていなかった。
血の惨劇を無責任に期待する者も中にはいた。
しかしほとんどの者は、哀れな商人に同情を寄せていた。
とりわけ、ガタナーの人となりを知る者は心を痛めていた。
集まった子供たちもまた、今にも泣きそうな顔をしていた。
そして。
「お待たせしました。私がガタナーです」
救護院から、ややくたびれた中年男が出てきた。
ガタナーである。
瀕死の重症を負って明らかに体力を失ってはいたが、それでもしっかりした足取りで黒鎧の元へと進んでいく。
黒鎧を真っ直ぐに見据え姿勢を正して、ガタナーはしずしずと進んでいく。
あたかも、神託を求めて天使像へと進む大司教のように。
惨劇を予感する見物人にとって、それは奇妙な光景であった。
なにしろ裏社会の大物たちを前にして、厳めしい黒鎧を前にして、このガタナーには怯えた様子など些かもなかったのだから。
「なあ、あいつって昨日刺されて重体だったんだろ?」
「嘘だろ? ああして自分の足で歩いているじゃないか」
「でも俺、見たぜ。ひでえ血の量だった」
「ならなんで逃げずにノコノコ出てくるんだよ? アイツ、怖くはないのか?」
「つい半日前に自分を殺そうとした、その相手の前に堂々と出てくるなんて」
「ガキどもを集めてチマチマ商売してる、ただのお人好しかと思っていたが」
「なんて胆っ玉の座った奴だ」
「あいつ、すげえ奴だったんだな」
「あなた様のお名前を伺ってもよろしいですか?」
少しも怯えた様子もなく、少しも臆した様子もなく、堂々と黒鎧の名を問うたガタナーに群衆はどよめき。
「トランキーロ! 我が名はトランキーロだ!」
それに応えた黒鎧に群衆は沸いた。
それゆえに。
「トランキーロ、それが聖天使様のお名前なのですね……」
ガタナーの呟きを聞き取れた者はいなかった。
ガタナーのすぐ後に立っていた少年以外には。
更に。
「あの兄様を聖天使様と間違うなんて、まったく、ガタナーさんはどうかしてますよ……」
周囲の群衆のざわめきで、その声もまたかき消されている。
「ああ、それにしてもカッコいいなあ。トゲトゲが増えてて、色も黒くなってて……」
「それでこの私にどんな御用件でしょうか? トランキーロ様はこのガタナーに、いったい何をせよと?」
なぜかキラキラした目のガタナーであったが。
「詫びだ! 昨日の詫びを入れに来た!」
群衆のどよめきとは対照的に、少しガッカリした顔になってしまった。
まるで、期待していたことと違うことを言われたかのように。
「迷惑を掛けてすまなかった。こいつは迷惑料だ。受け取ってくれ」
黒鎧は銀貨の詰まった袋をドサリと置くと、ガタナーに深々と頭を下げたのだ。
そして後ろの大物四人もまた、同じく頭を下げたのだった。
ツンとした静寂。
あれほど賑やかだった群衆がピタリと静かになった。
誰も彼も、目の前で起こっていることが信じられないのだ。
裏社会の人間が、それも組織のトップにいる人間が、さらにその大物たちを率いてやってきた謎の黒鎧が、こうして頭を下げていることを。
城外市の一介の商人に、さほど裕福でもない商人に、大群衆の面前で大金を渡して詫びを入れていることを。
黒鎧と四人の大物たちは頭を下げ続け、群衆の沈黙は続いた。
この重たい時間を終わらせるには、ガタナーがこの金を受けとる以外にはなかった。
「分かりました。ええ、ええ、分かりましたとも!」
ガタナーが大金を受け取って。
野次馬の群衆が、ハラハラ見ていた子供たちが、一斉に爆発した。
「ガタナー! うまくやりやがって!」
「よかった、ガタナーさん、よかった!」
「胆っ玉ガタナー! おまえの名は覚えたぜ!」
「ガタナー! 胆っ玉ガタナー!」
頭を上げた黒鎧に、今度はガタナーが深々と頭を下げたのだった。
「ええ、分かりましたとも。聖天使様は私に、このお金を用いて使命を果たせと仰せなのですね。このガタナー、聖天使様の御心のままに……」
その呟きをまた、ただひとり聞き取って。
「うわぁ」
微妙な表情になる少年であった。
「おうおう皆の衆、聴いてくれ。このサダナーはここにいるトランキーロ親分の子分となった!」
「このローヒムもだ!」
「同じく、このシブーもだ!」
「東のイビール一家もトランキーロ親分の傘下に付いたぜ!」
群衆がまたザワザワする。
「おい、どういうことだ?」
「だからあの四人がトランキーロさんの子分になったって」
「それって四つの組織が纏まったってことか?」
「はあ? つい昨日まで反目し合っていた連中だぜ?」
「いったいどういうことだよ?」
「おうおう、だからよ」
モヒカン巨漢のサダナーが宣言した。
「これで俺たちの抗争は終わりってこった!」
ウオオオオォーッと沸き起こった大歓声の炎に。
「それでな、これからミカジメは五パーセントにするぞ!」
更なる油を注いで町全体を揺らした。
「おうおう、サダナーの南だけじゃねえぞ! 西も北も東も五パーセントだ! これはトランキーロファミリー全体の方針だ!」
「うおおおお、トランキーロ親分!」
「トランキーロファミリー万歳!」
「トランキーロ親分万歳!」
「トランキーロファミリー万歳!」
「うああぁ、兄様、兄様ぁ……。いったい何をどうしたら一晩でこんなことになるんですかぁ……」




