第五章 生存者、勝者、敗残者、それぞれの理由(五)
悲しみの十分間が経過した。神宮寺は、新たな血で汚れた緑衣を着たまま、ガラス扉の前に立った。
魔法を唱えてから入れと、人にあれほど忠告していたのに、魔法を唱えるのを忘れて入ってしまった。ガラス扉の閉まる音がした。
神宮寺は『異界の気配』を唱えていると、小清水さんを乗せた担架が死人用の別の入口に運ばれていく光景が見えた。詠唱が停まった。
夢に見た魔道師の前にあったのは、残酷な道だった。夢は夢のまま終らせておけばよかったのかもしれない。あまりにも辛い現実が目の前にあった。
「しっかりしろ、神宮寺! 魔法を唱えろ。死ぬのなら、小清水のように、やるだけやって死ね」と剣持の怒鳴り声がした。
すでにマジチェフェル開始の時計の針は進んでいる。
『異界の気配』を唱え、逃げる体勢を取るのは間に合わない。逃げる気力もなかった。
神宮寺は頭に浮かんだ『ダレイネザルの言語』を唱えてから、ゆっくり『異界の気配』を唱えた。『異界の気配』を唱えていると、機械が話すような口調の言葉が聞こえてきた。
「知恵か、力か」
『異界の気配』が発動したので、ファフブールが目の前にいるのがわかった。
ファフブールが見えない刃を突き出そうとしていた。咄嗟に神宮寺は答えた。
「ちか、いや、知恵だ」
ファフブールの突き出した見えない刃が、神宮寺の喉元を目掛けて飛び出していた。だが、神宮が声を発すると同時に、急に停まった。
喉にチクリとした痛みが走った。皮膚を小さな血の雫が垂れていく感覚がした。
小さな傷の痛みが、小清水さんが亡くなった感傷を飛ばした。
神宮寺は今、生死の狭間に立っている事態を飲み込んだ。
事態を飲み込むと、思考が冷静になり、神宮寺は大きな誤りを犯していたと気付いた。
(マジチェフェルとは、ファフブールの攻撃を耐えて逃げ切る内容ではなかった。選択制だったのだ。力の試練か、知恵の試練か、どちらかを選べたんだ)
二番や他の生徒はファフブールの言葉を理解できなかった。ファフブールは、問うても答えない人間では知恵の試練が不可能と判断して力の試練に移行して実施していたのだ。
攻撃魔法を使った生徒が攻撃されたのも、納得できる。
ファフブールとしては「力か、知恵か」と問うて、これが答だとばかりに、攻撃魔法をぶつけられれば、力の試練を選んだと判断しても無理からぬ判断だ。
月形さんが襲われなかった理由も、これで判明した。月形さんは『ダレイネザルの言語』を使えたので、迷わず知恵の試練を選択して、生還したのだ。
スフィンクスに力で挑めば、取って喰われる。だが、知恵で挑まれたスフィンクスは負けて谷に身を投げた、というエジプトの話もある。
問題は、知恵の試練の中身だ。高卒で魔法の知識もあり、東京有名六大学に合格できる月形さんだからこそ、答えられたのかもしれない。
普通高校中退レベルの頭の俺でも答えられる問題が、果たして出るだろうか? 謎々のような問題ならいい。しかし、魔法知識が前提の問題や数学や物理の問題なら即アウトだ。
ファフブールが刃を喉元に突きつけたまま、問いを投げかけてきた。
「人間とは、なにか?」
小学生でも答えられそうだが、哲学者でも窮するような問いが来た。「道具を使う生き物である」は、ダメだろう。そんな簡単な答で、クリアーになるはずがない。
「考える一本の葦である」ブレーズ・パスカルの名言もダメだろう。第一、異世界から来たであろうファフブールなら、葦を知らずに不正解とされる可能性がある。
「人間なんて、ダレイネザル様の前では価値のない生き物です」と卑下する。最悪の答になるかもしれない。価値がないなら、じゃあ死ねという結論にファフブールが達しても、おかしくない。いったい月形さんは、なんと言って切り抜けたのだろう?
神宮寺が迷っていると、ファフブールの声が聞こえた。
「今一度、問う。人間とは、なにか?」
どうやら制限時間いっぱいで、回答権は一回だけなのかもしれない。間違えれば、喉を貫かれて死ぬ。神宮寺は、小清水さんが蒼井さんを救った行為を思って答えた。
「人間とは、未来を生み出す生き物です」
ファフブールが沈黙した。正解と言って黄色い円の中に戻りもしなければ、不正解だとばかりに、刃をより深く突き刺し殺したりもしない。
(あれ、ひょっとして、ファフブールが迷っているのか。もしくは、間違っていたけど、もう一回、答えていいのか)
どちらにしろ、早くファフブールが納得する答を言わないと、まずい。考えていると、魔法先生や剣持が言っていた価値という言葉が浮かび、一言だけ変えて言い直す。
「人間とは、価値を生み出す生き物です」
ファフブールが抑揚のない、機械の声で命じた。
「ダレイネザルの言葉を告げる。価値を生むものよ。今後はダレイネザルのために価値を生み出すが良い」
ゆっくりとファフブールの刃が引かれた。ファフブールが黄色い円の中に戻っていくのがわかった。
ガラス扉がガチャリと開く音がした。円柱状空間の外に出て、魔法先生を見た。
「終了です。優を上げましょう。傷は、医務室で処置してもらいなさい。処置が終ったら、帰っていいですよ」とは魔法先生は言わなかった。
魔法先生は辺境魔法学校に来て初めて、面白くない表情をして、言葉を吐き出した。
「ダレイネザルが認めたので可を上げます。傷の手当を受けたら、とっとと帰りなさい」
魔法先生は立ち上がり、作業員が死体を運んでいく側の扉を開けさせ、すぐに退席した。
剣持が、神宮寺が着ていた血で濡れた緑衣を回収するために、手を差し出す。
「そういうことだ。緑衣を置いて、医務室に行って、さっさと帰れ。理由はわかっていると思うが、今日のアルバイト料は、払わないぞ」
神宮寺は緑衣を渡した。あまりに他の生徒の血を多く浴びたので、下の服にも血が付着していた。
「小清水さんの死体は、どうなるんですか」
「死んだ小清水の心配よりも、自分の心配をしたらどうだ。お前は今日のマジチェフェルで、魔法先生の不興を確実に買ったぞ」
「退学、ですか」
剣持はいつものように冷静に評した。
「魔法先生は退学にできる権限は持っていても、嫌いだとの理由では絶対に退学にはしない。いや、できないと言ったほうがいい。魔法先生はダレイネザルの僕としての忠誠心は人一倍強い。ダレイネザルが認めた人間を廃除にするのは、信条に反するはずだ。もっとも、これからお前は、もっと試されるだろうがな」
神宮寺は「失礼しまず」と下がろうとした。すると、剣持が厳しい顔で聞いてきた。
「お前、まだ、魔道師になりたいのか」
小清水さんは死んでしまった。小清水さんの死は悲しい。
でも、魔道師になるのを諦めるとは言えなかった。どのみち、進路変更はできない。道は直線だ。外れれば死。




