第三章 親鳥は歌い、雛たちは騒ぎ出す(四)
休みの日、寮の食堂は朝食時までは混雑していたが、朝食が終ると、ほとんどの寮生が外に出掛けていった。
神宮寺は朝食を摂ると、昼食まで寝て、昼食を摂る自堕落な時間を過ごした。
昼過ぎのウルリミン寮は、静かだった。
魔法学校の授業はわからないが、基礎くらいは理解しておきたい。図書室に行くと、月形さんが一人で、日本語で書かれた書物を開いて、紙とペンを使って何かをしていた。
月形さんには興味があった。辺境魔法学校にいて教師以外で唯一、他の魔法を知っている人間だ。話をしてみたいという気持ちは常にあったが、今まで機会がなかった。
「おはよう、月形さん、何をしているの」
月形さんは作業の手を止め、紙を見せないように裏返してから、冷たく言い放った。
「もう、昼を過ぎているわよ、神宮寺君。今やっているのは、セフィロト・アニマ。簡単に言うと、〝カバラの生命の樹〟や〝曼荼羅〟を改造した魔術による精神分析法よ」
(魔法による性格診断みたいものか。だったら、俺もやってみたい)
「ねえ、それ、俺にもできる? やりかた、教えてくれる」
月形さんは、冷たく突き放した。
「やるだけ、無駄よ。セフィロト・アニマは、自分が魔術で今どういう状態にいるのかを分析する方法。過去に一度もやってないなら、昔と今を比較しようがない」
「でも、今の状態は、わかるわけだろう。だったら、今後のこともあるし、やっぱりやってみたいな。俺にもそのセフィロト・アニマってのを、やってくれないか」
月形さんは少し挑発的な物の言い方をした。
「無理ね。セフィロト・アニマは、自己の内面に深く関する事柄を書き込む必要があるのよ。性癖と心的外傷とかも、素直に知る必要があるわ。信用の置ける専門のカウンセラーにやってもらうのがいいけど、ここにはいない。それとも、貴方は私に、性的体験から心の傷まで、全て心の内を曝せる?」
確かに魔法学校にカウンセラーがいたとしても、有能かもしれないが、信用はできない。
月形さんにそこまで心の内を曝せるとも思えないが、少し言い方が冷たくないか。
「わかったよ。頼まないよ。それで、月形さんのほうは何か変化があったの。別に、月形さんの性癖とかトラウマとか、聞きたいわけじゃないけど」
月形さんからは、もう相手にされないかと思った。ところが、意外にも丁寧に答えた。
「簡単に言うと、たった一週間で、私でも心に歪みが生じている。揺らぎでなくて、歪みよ。なんの事件もないのにセフィロト・アニマが歪み始めるなんて、異常よ。原因があるとすれば、魔法先生の授業のせいとしか思えないわ」
聞いても意味のわからない授業だが、確実に生徒に影響を出しているという事実だろう。聞いていて眠くなるだけなら、まだしも耳や目から血を流す人間が出るなんて、異常だ。
「月形さん。それって良い方向に行ってるの。それとも、悪い方向に行ってるの」
「教科書通りなら、かなり悪い方向に進んでいるわ。東京魔法大学なら即刻、授業中止よ。あと二週間もすれば、精神的におかしくなる人も出るんじゃないの。でも、魔法先生は、明らかに意図して進めている。正直にいえば、自主退学できるなら退学をお勧めするわ」
「魔法先生は禁断の業で、魔道師を促成栽培しようとしているって環境?」
「それ以外に考えられないわね。そもそも、日本語以外の言語で授業を進めるのは有り得ても、理解する方法がない言葉で授業を進めるって、普通、考えられる? ここの授業は異常よ。私が高校で学んできた知識が、ほとんど役に立たない。魔法先生は私に期待しているような言葉を言っているけど、本当の目的は、私の体かもしれない」
ちょっと聞くといやらしい意味にも聞こえるが、月形さんの言いたいのは魔法の素質を持った人間の死体が欲しいという意味だろう。
月形さんはメモ用紙を取り出し、なにやら書名を書きながら話した。
「普通の魔法学の知識は辺境魔法学校では役に立たないけど、日本で普及している魔法を学びたかったら、まず、メモに書いた辞書と初級者用の魔術理論の本を買うことね」
月形さんが渡してくれたメモには、辞書名と本の名前が記載されていた。
月形さんが親切にしてくれるのが意外だった。月形さんは他人に興味を示さず、神宮寺みたいな素人は相手にしないと思っていた。偏見だったのかもしれない。
(それとも、俺に何か見返りを期待しているのだろうか。もし、期待しているのなら、構わない。ギブ・アンド・テイクは、望むところだ。とはいえ、今の俺には何も与えられるものは何もないように思えるが。貰いっぱなしは性に合わない。いつかは、お返しはしよう。ただ、互いに生きていられれば、の話になるのだが)
神宮寺には魔法の他にも聞きたい件があった。神宮寺は二人しか図書室にいないので、ずっと聞きたかった疑問を尋ねた。
「最後に、答えられたら教えてほしいんだけど。なんで、東京魔法高校を出たのに、辺境魔法学校なんかに来たの」
月形さんは神宮寺を正面から見据えて答えた。
「不純異性交遊で、学校で問題になったのよ。卒業はさせてもらえたけど、東京魔法高校は私から、東京魔法大学への道を閉ざした」
神宮寺は、少しばかり不機嫌さを込めて応じた。
「信じられないな。高校生だからって、誰と付き合っては行けないという理由はないよ。ましてや、付き合った事実を突き付けて大学に進ませないなんて、酷すぎる」
月形さんは神宮寺の態度を見定めるようにしながら、最後に付け加えた。
「もっとも、相手が人間だったら、お咎めなしだったんでしょうけれどね。それで、私が魔道師になるには、辺境魔法学校に来るしか道がなかったのよ。辺境魔法学校は倫理観がとてつもなく緩いから」
なんと言っていいか、わからなかった。
人間ではない恋人との関係がどこまで行ったのかは、わからない。でも、人間以外との交わりは確かに禁忌を犯す行為だと言われれば、納得してしまう神宮寺自身がいた。
神宮寺は月形さんの瞳に幻滅の色を見た。
考えを悟られたと思った。月形さんに「結局、あなたも魔法高校の先生と変わりがないのね」と言われた気がした。神宮寺は自己嫌悪に陥った。
小清水さんと蒼井さんが帰ってきたが、なんだか楽しい様子ではなかった。二人はすぐに、買い物袋を持ったまま、部屋に戻った。
勘だが、辺境魔法学校の生徒だと知られると、街では歓迎されなかったのだろう。いよいよ、学校以外に行き場がなくなった。