閉店後の静寂
特使が引き上げ、ユリアン皇子も「明日の公演に向けて肌の調子を整える!」と意気揚々と帰っていった後。
愛結商店の社長室には、愛結とナイジェルの二人だけが残されていた。
「……はぁ。疲れたわ」
愛結はソファに深く沈み込み、大きく伸びをした。
国家間のトラブルという綱渡りの交渉を終え、さすがの悪徳社長も精神的な疲労を感じていた。
「お疲れ様でした、先生。見事な交渉術でしたね」
ナイジェルはいつものようにコーヒーを淹れ、愛結の前に差し出した。
「当然よ。私のビジネスを邪魔する奴は、国家だろうが神様だろうが容赦しないわ」
愛結はコーヒーを受け取り、一口飲んでから、ナイジェルの方をチラリと見た。
「……あんたも、ご苦労だったわね。いざという時は、ちゃんと盾の役目を果たしてくれたじゃない」
「それが私の仕事ですから。それに、先ほども言いましたが……」
ナイジェルは、愛結の隣に静かに腰を下ろした。
普段は一定の距離を保つ彼が、今日は妙に距離が近い。
「あなたの髪一本、傷つけさせるつもりはありませんよ。……エレノア」
ナイジェルが、愛結の本当の名前を、低く甘い声で呼んだ。
その瞬間、愛結の心臓が再びトクンと大きく跳ねた。
(まただわ……。このバカ執事、どうして今日はこんなに……)
愛結は顔が赤くなるのを感じながら、必死に平静を装って目を逸らした。
「な、何よ。まだ偽装恋人の演技を引きずってるの? もう特使もポンコツ皇子もいないんだから、演技は終わりよ」
「演技、ですか」
ナイジェルは小さく笑い、愛結の髪にそっと触れた。
その手つきは、恐ろしいほど優しく、そして熱を帯びていた。
「先生がそう思いたいなら、そういうことにしておきましょう。ですが……」
ナイジェルは愛結の耳元に顔を寄せ、囁くように言った。
「私があなたを守りたいと思う気持ちに、嘘はありませんよ。……これからも、あなたの側でお仕えします。私の、愛しい悪徳社長」




