人魚の涙(ただの海水)と王子の適応
『プレミアム・オーシャン・リゾート〜貴女だけの波音〜』の評判は、口コミであっという間に王都の有閑マダムや貴族令嬢たちの間に広まった。
「南の海辺に、極上のワケありイケメンがいる」という噂は、退屈な日常に刺激を求める女性たちにとって最高のエンターテインメントだったのだ。
「いらっしゃいませ。長旅でお疲れでしょう。……波の音で、少しでも心を癒していってください」
アルベルト王子が、憂いを帯びた瞳で微笑みかける。
それだけで、到着したばかりの令嬢たちは頬を染め、悲鳴のような歓声を上げた。
「キャーッ! 素敵……!」
「あの流し目、たまらないわ……!」
最初は「俺は第一王子だぞ!」と反発していたアルベルトだったが、数日も経つと、彼はすっかりこの仕事に適応していた。
王宮では常に「完璧な次期国王」であることを求められ、重圧の中で生きてきた彼にとって、身分を隠し、ただ「顔が良い謎の男」としてチヤホヤされるだけの毎日は、ある意味で究極の現実逃避になっていたのだ。
「……アルベルト様、随分と板についてきましたね」
「ふっ、ナイジェルよ。俺は気づいたのだ。王都の政治闘争に比べれば、女たちの前で哀愁を漂わせるなど、息をするより簡単だということに」
王子は、胸元がはだけたシャツを優雅に翻し、テラスで客の相手に戻っていった。
その様子を物陰から見ていた愛結は、ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「いいわね、アルベルト。すっかりこちらの水に馴染んだみたいじゃない。それじゃあ、そろそろ『新商品』を投入するわよ」
「社長、新商品ってなんですか?」
クロエがメモ帳を片手に目を輝かせて尋ねる。
愛結は、コルク栓のついた小さな小瓶を取り出した。中には透明な液体が入っている。
「これよ。名付けて『人魚の涙・ピュアオーシャンエッセンス』! 一瓶で金貨二枚よ!」
「わあ、人魚の涙! ……って、それ、さっきお爺ちゃんが海から汲んできたただの海水ですよね?」
クロエのツッコミに、愛結はチッチッと指を振った。
「馬鹿ね、クロエちゃん。これはただの海水じゃないわ。『ワケありイケメンが、貴女の幸せを願って夜明けの海で汲み上げた、神秘のデトックスウォーター』よ!」
「……ただの海水じゃないですか」
呆れ顔で戻ってきたナイジェルがツッコミを入れるが、愛結は止まらない。
「いい? 客は『物語』にお金を払うのよ! アルベルト、あんたはこの小瓶を渡す時、客の目を見つめてこう言うの。『この海のように、貴女の心も澄み渡りますように』ってね!」
「……俺にそんな詐欺の片棒を担がせる気か?」
「売上の歩合を一割つけてあげるわ」
「……『この海のように、貴女の心も澄み渡りますように』、だな。よし、任せておけ」
第一王子は、一瞬で買収された。
彼は小瓶を手に取ると、さっそくテラスでくつろぐマダムたちの元へ向かった。
「奥様。よろしければ、こちらを……」
王子の甘い囁きと哀愁の眼差し。
その日の夕方には、「人魚の涙(ただの海水)」は用意した百本が完売し、愛結の金庫には大量の金貨が吸い込まれていった。
「すごい……都会のビジネスって、ただの海水を金貨に変えちゃうんだ……!」
クロエは、チャリンチャリンと鳴る金貨の音を聞きながら、愛結への尊敬の念をさらに深めていた。
海辺のぼったくり民宿は、こうして順調すぎるほどの利益を叩き出し続けていた。
だが、この賑やかな非日常の裏で、クロエ自身が抱える「現実の問題」が、静かに影を落とし始めていることに、まだ誰も気づいていなかった。




