引き抜き騒動と、手放したくない小市民
「……はぁ。海、よかったなぁ。民宿をやるなら、やっぱりアレよね。前世で見たあの夏のドラマみたいに、『非日常を提供してくれるワケありのイケメン二人』を看板にするのよ。そうすれば、貴族の奥様方から金貨を際限なく搾り取れるわ……」
王都の愛結商店・社長室。
強制送還され、山積みの書類にサインをさせられながら、愛結はブツブツと次なる「ぼったくり民宿」の構想(妄想)を呟いていた。
彼女の視線が、執務をこなすナイジェルと、荷物運びをしているアルベルト王子を舐め回すように動く。
「……先生。その不気味な視線はやめてください。また何かろくでもないことを企んでいる顔ですよ」
「失礼ね。私はただ、うちの商会の『人的資源』をどう有効活用するか考えていただけよ。それより、ハーブはどこ? 私がいない間に商会を大きくしてくれたのは認めるけど、この書類の量は殺意が湧くわ」
「ハーバート店長なら、現在応接室で来客の対応中です。……少し、厄介な客ですが」
ナイジェルが眼鏡を光らせ、声を潜めた。
「厄介な客?」
「ええ。王都最大の商会連合、『黄金の天秤』の幹部たちです。彼らは最近、急成長している我が愛結商店を危険視すると同時に……その実務を取り仕切っているハーバート店長の『手腕』に目をつけました」
ナイジェルの言葉に、愛結の羽ペンがピタリと止まる。
「……まさか」
「はい。彼らは、ハーバート店長を莫大な報酬で『引き抜き』に来たのです」
愛結は無言で立ち上がり、足音を殺して応接室へと向かった。
少し開いたドアの隙間から、中の様子を窺う。
「――どうです、ハーバート殿。我が商会連合の財務総監のポストをご用意しましょう。報酬は、今の愛結商店の三倍。いや、五倍出してもいい」
「あんな悪名高い令嬢の下で、頭のイカれた従業員たちに囲まれて働くなど、あなたの経歴に傷がつくだけだ。大手商会で番頭を務めたあなたなら、我々の提示する条件がどれほど破格か、計算できるでしょう?」
ふくよかな体型の幹部たちが、ハーバートを囲んで甘い言葉を囁いていた。
確かに、彼らの言う通りだった。愛結商店は儲かっているが、治安は最悪で、社長は理不尽だ。小市民であり、常識人であるハーバートにとって、大手商会の安定したポストと莫大な報酬は、喉から手が出るほど欲しいはずだった。
「……」
ハーバートは無言で、手元の帳簿を見つめている。
愛結は舌打ちをした。
彼が有能すぎるせいで、自分がスローライフ(逃亡)できたのだ。彼がいなくなれば、この山積みの書類仕事と、頭のおかしい従業員たちの管理が、すべて自分の肩にのしかかってくる。
(冗談じゃないわ。あいつは私の『都合のいい店長』よ。誰にも渡すもんですか!)
愛結はドアを蹴破り、応接室に乗り込もうとした。
だが、それよりも早く、ハーバートが静かに口を開いた。
「……お断りします」
「なっ……!? なぜだ! 報酬が足りないのか!?」
「いいえ。報酬は十分すぎるほどです。しかし……」
ハーバートは帳簿を閉じ、かつて彼を追放した「大手商会」の幹部たちを、冷ややかな目で見据えた。
「あなた方の商売は、あまりにも『スケールが小さい』のです。経費を削り、安全な橋を渡り、チマチマと利益を上げるだけ。……今の私には、ひどく退屈に思えるのですよ」
それは、愛結の「悪徳の精神」に完全に染まりきった、最強のハイブリッド店長の顔だった。




