スローライフ奪還計画と、街の視察
「……もう限界よ。私は社長を辞めるわ」
愛結商店の社長室。
書類の山に埋もれていたエレノア(愛結)は、ついに羽ペンを放り投げ、ソファに倒れ込んだ。
迷宮リゾートの大成功、貴族への配当計算、王都の塩と漬物の独占販売網の管理、そして税金の申告。
異世界に転生してまで、なぜ彼女は前世の「修羅場」以上の労働を強いられているのか。
「辞めるのは自由ですが、そうするとこの商会は崩壊し、莫大な負債が先生にのしかかりますよ。あと、明日の朝までに『死の湖リゾート』の予算案を出してください」
ナイジェル(蛯原)が、容赦なく新しい書類の束をドンと置いた。
愛結は「ひぃっ」と悲鳴を上げ、ソファのクッションに顔を埋める。
「嫌よ! 私はスローライフがしたいの! なんで私がこんなに働かなきゃいけないのよ!」
「あなたが適当に始めた商売が、大成功してしまったからです」
「だったら、誰かに押し付ければいいじゃない! そうよ、有能な『店長』を雇って、全部丸投げすればいいのよ!」
愛結はガバッと起き上がった。
その目には、悪徳商人特有の怪しい光が宿っている。
「ゴードンやシャーリーは武闘派だし、バルガスは勝手に仕事を増やすからダメ。マリアや王子は論外。私が求めているのは、真面目で、地味で、文句を言わずに書類仕事と店舗管理をこなしてくれる『都合のいい店長』よ!」
「……先生。そんな都合のいい人材、そう簡単に見つかるわけがありません。そもそも、うちの商会の治安の悪さに耐えられる常識人が――」
「探すわよ! 今すぐ王都の市場に視察に行くわ! 私の完璧なスローライフを取り戻すためにね!」
愛結はナイジェルの言葉を遮り、社長室を飛び出した。
ため息をつきながら、ナイジェルもその後を追う。
王都の市場は、愛結商店が引き起こした「王都漬物ショック」の影響から立ち直り、活気を取り戻していた。
愛結は、獲物を探す鷹のような目で、立ち並ぶ店舗を観察していく。
「あそこの店主はどう? 愛想がいいわよ」
「ダメですね。客に媚びを売るばかりで、商品の陳列が乱雑です。管理能力がありません」
「じゃあ、あの強面の親父は?」
「あの方は元傭兵で、値切る客を物理的に威嚇しています。ゴードンと同じタイプです」
ナイジェルの的確なダメ出しにより、なかなか理想の「店長候補」は見つからない。
やはり、愛結の求める「真面目で地味で、文句を言わずに過酷な労働に耐える人材」など、そう都合よく転がっているわけがないのだ。
「はあ……疲れた。もう適当にそこら辺の村人を捕まえて、洗脳でもしようかしら」
「犯罪ですよ。……ん?」
ナイジェルが足を止めた。
大通りから一本外れた、薄暗い路地裏。
そこに、今にも潰れそうなボロボロの小さな雑貨店があった。
看板は傾き、陳列されている商品は埃をかぶっている。客の姿は一人もない。
「あんな店、明日には潰れるわよ。見る価値ないわ」
「いえ、先生。少し見てください。あの店の店主を」
ナイジェルに促され、愛結が目を凝らす。
カウンターの奥に座っていたのは、白髪交じりの茶髪を持つ、中肉中背の四十代ほどの男だった。
苦労が染み付いたような顔つきだが、その目は驚くほど鋭い。
彼は客が来ないにも関わらず、ただひたすらに分厚い帳簿と睨み合い、羽ペンを走らせていた。
「……あの男、何を計算してるの?」
「おそらく、一厘単位での経費の削減でしょう。店の外から見てもわかります。あの店、商品は古いですが、陳列の配置は計算され尽くしていますし、照明の魔石も極限まで出力を絞って節約しています」
ナイジェルが眼鏡を押し上げる。
「あの店主……極度の『コスト管理の達人(小市民)』です」
「……コスト管理」
愛結の目が、キラーンと輝いた。
「いいじゃない。真面目で、地味で、計算が得意。私が丸投げした書類仕事を、文句も言わずに(いや、文句は言うかもしれないけど)完璧にこなしてくれそうね!」
「先生、あのタイプはあなたの『適当な経営』と真っ向から衝突しますよ」
「構わないわ! 私のスローライフのための生贄になってもらうわよ!」
愛結は意気揚々と、廃業寸前の雑貨店へと足を踏み入れた。
これが、愛結商店の命運を左右する(そして愛結をさらにイライラさせる)有能すぎる小市民店長、ハーバート・クロスとの出会いであった。




