聖女の祈りと、ブラック企業のまかない
愛結商店の裏手にある、小さな休憩室。
そこで、聖女マリアは両手を胸の前で組み、目を閉じて深く祈りを捧げていた。
「……慈深き女神様。どうか、今日も孤児院の子供たちが健やかに過ごせますように。そして……本日の『塩』の売り上げ目標が、無事に達成できますように」
前半はともかく、後半の祈りの内容は完全に「営業マンのそれ」であった。
「……マリア。祈りは終わった?」
休憩室の扉が開き、無表情のシャーリーが顔を出した。
その手には、湯気を立てる大皿が乗っている。
「はい、シャーリーさん。あ、もしかして今日のまかないは……」
「ん。特製シチュー。アユ様が『塩市場を荒らす前に、しっかり食べてスタミナをつけなさい』って」
シャーリーが皿をテーブルに置く。ゴロゴロとした肉と野菜が煮込まれたシチューは、孤児院の質素な食事しか知らなかったマリアにとって、まさに「奇跡」のようなご馳走だった。
「わあ……! ありがとうございます! アユ様は本当に、女神様のように優しい方ですね!」
目を輝かせるマリアの横で、たまたま休憩室に入ってきたナイジェル(蛯原)が、深いため息をついた。
「マリアさん。あなた、完全に洗脳されてますよ。先生はあなたを安月給でこき使って、自分の悪徳商法の片棒を担がせているだけです」
「そんなことありません! アユ様は、私に『自分の力で稼ぐ尊さ』を教えてくださいました! おかげで孤児院の屋根も修理できましたし、子供たちに毎日お肉を食べさせてあげられるんです!」
「それは……まあ、結果的にはそうですけど」
ナイジェルは言葉に詰まった。
確かに、愛結商店はブラック企業スレスレの悪徳商法を展開しているが、従業員への待遇(給与とまかない)だけは異常なほど良かった。
特にマリアの「聖女スマイル」による売り上げ貢献度は凄まじいため、愛結も彼女には特別ボーナスを弾んでいるのだ。
「それに、私……今の生活が、とても楽しいんです」
マリアはシチューを一口食べ、ふわりと微笑んだ。
「王立学園にいた頃は、いつも『聖女らしくしなさい』『清く正しくありなさい』と言われて、息が詰まりそうでした。でも、ここでは誰も私に『聖女』であることを求めません」
入り口で客を恐喝する元・近衛騎士。
無表情で裏仕事をこなす元・暗殺者。
サボりながら悪辣な計略を練る元・役員。
そして、そんな治安の悪い連中を束ねる、傍若無人な悪役令嬢。
「皆さんは、少し……いえ、かなり個性的ですが、裏表がなくて優しい方ばかりです。私、ここに来て初めて、自分の居場所を見つけたような気がするんです」
マリアの言葉は、純度百パーセントの本心だった。
原作『龍と虎の首縊りの迷宮』において、聖女マリアは「世界を救うための生贄」として過酷な運命を背負わされるはずだった。
しかし今、彼女は「愛結商店の優秀なトップセールス」として、ただ純粋に日々の労働を楽しんでいる。
「……マリア! 探したぞ!」
そこへ、第一王子アルベルトがエプロン姿で駆け込んできた。
その手には、なぜか大量の「塩の袋」が抱えられている。
「アルベルト様! どうされたんですか、そんなに汗だくで……」
「アユ殿から指示を受けてな! 『王子自ら塩を担いで街を走れば、塩不足の噂に信憑性が出る』と! 私は君のために、いや、この商会のために全力を尽くすぞ!」
爽やかな笑顔で言い放つ王子。
完全に「アユ教」の熱心な信徒に成り下がっていた。
「まあ! アルベルト様、素晴らしい働きぶりです! 私も負けていられませんね!」
「ああ! 共に今日の売り上げ目標を達成しよう、マリア!」
「はいっ!」
キラキラと輝く聖女と王子。
本来なら「世界を救うために手を取り合う」はずの二人が、今は「塩の相場を操作して莫大な利益を上げる」ために手を取り合っている。
「……終わってますよ、この世界」
ナイジェルが胃薬を水なしで飲み込む。
しかし、その顔にはどこか諦めと、ほんの少しの安堵が混じっていた。
「まあ……原作みたいに、ドロドロの愛憎劇の末に血の雨が降るよりは、マシ……なんですかね」
ナイジェルの呟きは、誰の耳にも届くことなく、活気あふれる店内の喧騒に吸い込まれていった。
かくして、聖女マリアは「世界を救う使命」を完全に放棄し、愛結商店の看板娘として、今日も元気に(詐欺まがいの)接客に励むのであった。




