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9/13

街と日常

その日は、依頼を休むことにした。


特に理由はない。強いて言えば、昨日の護衛依頼の疲れが残っていた。身体というより、頭の方が。


初めて会った人間と一日中行動するのは、思っていたより消耗するらしい。


朝食を食べながら、メイに言った。


「今日は街を見て回ろうと思う」


メイが顔を上げた。


湯気の立つカップを両手で持ったまま、こちらを見ている。


「依頼は?」


「休む」


「珍しいですね」


「たまにはいいだろ」


メイは少しだけ考えるような間を置いて、それから静かに頷いた。


「分かりました」


窓の外では、朝の光が石畳を照らし始めていた。


昨日の雨で濡れた石が、ぼんやりと光を反射している。露店の準備をする声が、遠くから聞こえてきた。


今日は天気が良かった。


街に出ると、昨日より人が多かった。


市が立つ日らしく、中央広場には色とりどりの露店が並んでいる。


野菜、果実、干し肉、布、魔道具。


呼び込みの声が飛び交い、荷物を抱えた大人たちの間を、子供が走り回っていた。


どこかで肉を焼く匂いがする。


香辛料の混じった濃い匂いだった。


メイが広場の入り口で足を止めた。


「どうした」


「……人が多いですね」


「苦手か」


「そういうわけでは」


そう言いながら、メイの視線は広場の奥へ向いていた。


露店の灯り。行き交う人々。色鮮やかな品物。


普段は前だけを見て歩くのに、今日は珍しく視線が落ち着いていなかった。


「行くぞ」


「はい」


メイが隣に並ぶ。


その瞬間、横から来た人波に押されそうになって、俺は反射的にメイの前へ出た。


「俺の後ろにいろ。人が多いから」


「……分かりました」


今日は妙に素直だった。


人混みを抜けながら、露店を見て回る。


見たことのない野菜が山積みになっていた。


紫色の硬そうな根菜。切り口だけ鮮やかな橙色をしている。


果実の露店には、青い皮の丸い実が籠に積まれていた。


「これ、何だ」


俺が指差すと、赤ら顔の店主が顔を上げた。


「ルーベリーだよ。この季節が一番甘い。一個どうだ、兄ちゃん」


「いくらだ」


「銅貨一枚」


銅貨を渡して受け取る。


ずっしりと重かった。


俺はそのままメイへ差し出した。


「食べるか」


メイが少しだけ目を丸くする。


「……私がですか」


「珍しそうに見てただろ」


メイは一瞬だけ迷ってから、両手で実を受け取った。


小さく齧る。


その瞬間、メイの目が少し細くなった。


表情はほとんど変わっていない。


でも、ほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。


「甘いですね」


「そうか」


「龍馬は食べないのですか」


「もう一個買う」


露店の主人がにやりと笑った。


何か言いたそうだったが、何も言わなかった。


広場の奥へ進む。


人通りが少なくなり、布や道具を扱う露店が増えてきた。


その中に、魔道具を並べた露店があった。


小さな石や金属の道具が棚に並び、淡く光っている。


青白い光。橙色の光。緑に近い光。


賑やかな広場の中で、そこだけ少し空気が違った。


メイが足を止める。


「興味あるのか」


「少し」


メイが棚の前にしゃがみ込み、小さな白い石を手に取った。


親指ほどの大きさだった。


表面には、髪の毛ほど細い線が幾重にも刻まれている。


「術式刻印ですね」


「それが魔道具か」


「マナを流すことで、簡易的な魔術を発動できます。これは照明用です」


メイが石へ触れる。


次の瞬間、石が淡く光り始めた。


刻まれた線の一本一本から、光が滲み出るように広がっていく。


思わず見入った。


小さな光だった。


でも妙に綺麗だった。


静かで、繊細で、ちゃんと作られた光だった。


「きれいだな」


口から自然に言葉が出ていた。


メイがこちらを見る。


「そうですね」


その声はいつも通り淡々としていた。


でも石を見る目は、少しだけ柔らかかった。


露店の老人が笑った。


「お嬢ちゃん、目利きがいいね。その石は上物だよ」


「いくらですか」


「銀貨五枚」


「結構です」


即答だった。


石を棚へ戻して歩き出す。


老人が苦笑していた。


「また来な」


後ろから声が飛んできたが、メイは振り返らなかった。


広場の中ほどまで戻った時だった。


「あの二人、冒険者か?」


「連れてる子、妹か?」


「にしては変じゃないか」


後ろから声が聞こえた。


振り返らなかった。


でも、ちゃんと聞こえていた。


胸の奥が少し重くなる。


知っている感覚だった。


視線を向けられる感覚。


値踏みされる感覚。


教室で何度も感じていたものと、よく似ていた。


メイは気づいていないふりをして歩いていた。


俺はそのまま、声とは反対方向へ歩き出した。


「……聞こえていましたか」


「聞こえてた」


「気にしなくていいです」


「気にしてない」


少し間が空く。


「……少しは気にしてた」


「正直ですね」


メイが、小さく口元を緩めた気がした。


一瞬だった。


でも、確かに笑ったように見えた。


その後もしばらく、露店を見て回った。


香辛料の露店からは刺激的な匂いが漂っていた。


布の露店では、薄い生地が風に揺れている。


武器屋の前では、若い冒険者たちが騒いでいた。


その喧騒を横目に、メイは静かに周囲を眺めていた。


観察していると、色々分かってくる。


食べ物には反応する。


魔道具には目が止まる。


武器には、ほとんど興味を示さない。


それが少し、面白かった。


広場の端に古びた石段があった。


腰を下ろすのにちょうどいい高さだった。


そこで、買ってきた食べ物を広げる。


ルーベリーの残りと、焼いた肉の串、それと硬いパン。


メイが隣に座った。


広場を眺める。


子供が走り回っている。


老人が露店の主人と話している。


市が終わりに近づいているのか、少しずつ片付けも始まっていた。


賑やかだった。


少し前まで、こういう場所が苦手だった。


人が多くて、視線が多くて、どこにいても居心地が悪かった。


今も得意とは言えない。


でも、こうして端の方に座っていると、不思議と落ち着いた。


隣にメイがいるからかもしれなかった。


その考えに気づいて、少しだけ戸惑う。


誰かが隣にいることで安心する、なんて感覚を、長い間忘れていた気がした。


守りたい、と思っている。


大切にしたい、とも思っている。


でも、それが何なのかはまだ分からなかった。


分からないまま、俺は広場を眺めていた。


串の肉を齧る。


香辛料が効いていて、少し辛かった。


「龍馬」


「何だ」


「今日は、ありがとうございました」


「何もしてない」


「人混みの中で前を歩いてくれました。ルーベリーも」


「そのくらいのことだ」


メイがまっすぐこちらを見た。


夕方の光が、銀色の髪を橙色に染めていた。


「私には、そのくらいのことが少なかったので」


何も言えなかった。


メイは視線を広場へ戻し、何事もなかったようにルーベリーを齧った。


俺も広場を見る。


私には、そのくらいのことが少なかったので。


その言葉が、頭に残っていた。


どういう場所にいたんだ、こいつは。


聞こうと思えば聞けた。


でも、それをしてしまうと、何かが変わる気がした。


まだ踏み込んではいけない気がした。


宿へ戻ったのは夕方だった。


西の空が赤く染まり、石畳に長い影が伸びている。


露店が片付けられ、昼間の喧騒が少しずつ消えていく。


部屋へ入って、ベッドへ腰を下ろした。


今日は何もしていない。


依頼も受けなかった。


戦闘もなかった。


ただ街を歩いて、露店を見て、石段に座っていただけだった。


それだけなのに、悪くない一日だったと思った。


窓の外では、二つの月がゆっくり浮かび上がっていた。


青白い方が先に出て、赤い方が少し遅れて続く。


いつも同じ順番だった。


メイの言葉が、まだ頭に残っていた。


私には、そのくらいのことが少なかったので。


どういう意味だったのか。


どんな場所にいたのか。


まだ分からない。


でも。


メイのことを、もう少し知りたいと思っていた。


その感情に、まだ名前はつけられなかった。

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