術式(前編)
ギルドの朝は、いつもと変わらなかった。
掲示板の前では冒険者たちが依頼を眺め、カウンターでは受付が慌ただしく動いている。広間の奥では朝食を取る者たちの笑い声が響いていた。
いつも通りの光景。
なのに、少しだけ違う。
時折、こちらへ向く視線があった。
俺の顔を見て、小声で何かを話す。
グラウラー討伐から数日。
完全に噂が消えたわけではなかった。
「坂本龍馬だろ」
「星屑級の」
「崩落を読んだってやつ」
聞こえないふりをする。
気にしても仕方がない。
掲示板へ視線を戻した。
今日も依頼を受けるつもりだった。
その時だった。
「坂本龍馬だな」
背後から声がした。
男だった。
低くも高くもない。
妙に力の抜けた声。
振り返る。
フードを被った細身の男が立っていた。
どこかで見たことがある。
記憶を探る。
そして思い出した。
五話。
グラウラー討伐後。
ギルドの奥の廊下。
こちらを見ていた人影。
「あの時の」
男が薄く笑う。
「覚えていてくれたか」
「見覚えがあっただけだ」
「十分だ」
男は肩をすくめた。
フードの奥から覗く顔は三十代前後に見える。
細い目。
整った顔立ち。
だが印象に残るのはそこじゃない。
目だった。
静かに笑っているようでいて、何かを観察している目。
人を見る目だ。
「誰だ」
「アゼル」
男は答えた。
「一応、魔術師だ」
「一応?」
「肩書きが多すぎてな」
平然と言う。
「研究者とも呼ばれるし、教師とも呼ばれるし、変人とも呼ばれる」
「最後は肩書きじゃないだろ」
「よく言われる」
少しだけ笑った。
変な男だった。
警戒心が薄れるわけではない。
むしろ逆だ。
こういう人間の方が何を考えているか分からない。
「用件は」
「君だ」
即答だった。
「興味がある」
嫌な予感がした。
研究者に興味を持たれるのは大抵ろくなことにならない。
隣を見る。
メイがアゼルを見ていた。
その目が僅かに鋭い。
珍しかった。
普段のメイは感情を表に出さない。
それなのに今は明らかに警戒している。
「知り合いか」
小声で聞く。
「……名前だけは」
短い返答だった。
だが、その間が気になった。
何か知っている。
そんな気がした。
「先日のグラウラー戦」
アゼルが言う。
「見ていた」
「そうか」
「面白かった」
「死にかけた側としては面白くない」
「そういう意味じゃない」
アゼルが首を振る。
「星屑級の新人がマナの流れから地盤崩落を予測した」
細い目が少しだけ細くなる。
「そちらだ」
沈黙。
周囲の喧騒だけが聞こえる。
「偶然だ」
俺は言った。
アゼルは笑った。
「偶然で片付くなら、私は今ここにいない」
言い切った。
根拠のない自信。
だが不思議と嫌味がない。
ただ事実を述べているようだった。
「何が言いたい」
「君の力を見せてほしい」
「断ったら」
「残念だが諦める」
あまりにもあっさりしていた。
拍子抜けする。
もっと食い下がると思っていた。
「話だけなら」
メイが口を開いた。
「聞いてもいいと思います」
「珍しいな」
「危険は感じません」
少しだけ間を置く。
「……今のところは」
最後の一言が小さかった。
だが聞こえた。
俺はアゼルを見る。
男はただ待っていた。
急かさない。
観察するような目で。
「分かった」
俺は言った。
「話を聞く」
⸻
ギルドの外。
朝の広場。
まだ露店の準備が始まったばかりで、人通りは少ない。
アゼルは石壁にもたれかかりながら懐を探った。
出てきたのは一枚の羊皮紙だった。
「見てくれ」
広げられた羊皮紙には複雑な図形が描かれていた。
円。
線。
記号。
何層にも重なった構造。
見た瞬間に分かった。
術式だ。
「初歩魔術だ」
アゼルが言う。
「火を起こす術式」
俺は黙って見つめた。
最初は意味不明だった。
だが。
見ているうちに違和感が生まれる。
ただの線ではない。
流れている。
線に方向がある。
「……ここか」
思わず呟いた。
「何が見える」
アゼルの声。
試している。
そんな響きだった。
俺は羊皮紙へ視線を落としたまま答える。
「入口」
指を差す。
「ここからマナを流す」
アゼルは黙っている。
「途中で分岐してる」
さらに追う。
「ここで圧縮」
「続けろ」
声が少し低くなった。
「ここで流れを安定させてる」
線を辿る。
「最後に解放」
沈黙。
風が吹く。
羊皮紙が僅かに揺れた。
「初見か」
アゼルが聞いた。
「ああ」
「術式は習っていない」
「ああ」
また沈黙。
今度は長かった。
アゼルは術式ではなく俺を見ていた。
観察するように。
研究対象を見るように。
その視線が少しだけ居心地悪かった。




