術式(後編)
アゼルは羊皮紙を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
さっきまでの飄々とした雰囲気が消えていた。
細い目はわずかに見開かれ、口元の笑みもない。
まるで予想外のものを見せられた人間の顔だった。
俺は逆に戸惑った。
そんなに驚くようなことだったのだろうか。
術式の流れを読んで、その通りにマナを流しただけだ。
確かに初めてだったが、やってみれば不思議なほど自然だった。
「……君は今、自分が何をしたのか分かっているか」
アゼルが静かに言った。
「術式を使った」
「そこじゃない」
一歩近づいてくる。
「初見の術式を見ただけで構造を理解し、その場で無詠唱発動したんだ」
俺は少し考えた。
言われてみればそうだった。
だが、自分の中では「読めたから使った」という感覚しかない。
難しいことをした気がしなかった。
「普通はできないのか」
「普通?」
アゼルが苦笑した。
「普通の魔術師はまず術式を暗記する。何度も練習する。失敗する。修正する。そうしてようやく発動できる」
「そうなのか」
「そうなんだよ」
深いため息。
本当に呆れたような声だった。
「君は地図を一度見ただけで知らない街を歩き回ったようなものだ」
「大袈裟じゃないか」
「大袈裟じゃない」
即答だった。
「だから聞く。君は術式をどう見ていた?」
俺は少し考えた。
説明が難しい。
「川みたいだった」
「川?」
「マナが流れる道に見えた」
アゼルの眉がぴくりと動いた。
「続けてくれ」
「入り口があって、途中で流れが分岐して、最後に出口へ集まる。圧縮している場所もあったし、流れを安定させるための迂回路もあった」
言いながら、自分でも不思議だった。
本当にそう見えたのだ。
記号ではなく流れとして。
図形ではなく構造として。
アゼルは黙って聞いていた。
やがて小さく息を吐く。
「やはりな」
「何がだ」
「君は術式を文字として見ていない」
俺は首を傾げた。
アゼルが続ける。
「普通の人間は術式を記号として覚える。だが君は違う。結果として生まれるマナの流れを先に理解している」
「違いがあるのか」
「大きい」
アゼルは真剣な顔で言った。
「それは魔術師というより、術式設計者の適性だ」
術式設計者。
初めて聞く言葉だった。
「魔術を使う人間ではなく、作る人間だ」
「作る?」
「新しい術式を生み出す人間だよ」
俺は少し黙った。
そこまでの話になるとは思っていなかった。
まだ火花を散らしただけだ。
それなのに話が飛びすぎている気がした。
アゼルもそれを察したのか、小さく笑った。
「今すぐという話じゃない。だが可能性はある」
それから少し間を置く。
「学院へ行く気はあるか」
やはりその話になる。
ガルドも言っていた。
学院。
魔術を学ぶ場所。
俺は即答できなかった。
理由は簡単だ。
怖かったからだ。
新しい場所。
新しい人間関係。
知らない集団。
学校。
その単語だけで胸の奥が重くなる。
アゼルは急かさなかった。
ただ静かに待っていた。
「……考える」
ようやく出た答えは、それだった。
アゼルは頷く。
「それでいい」
予想外なくらいあっさりしていた。
「今決めろとは言わない」
「いいのか」
「学院は逃げない」
そう言って笑う。
今度の笑みは、最初より少し柔らかかった。
「ただ一つだけ言っておく」
「何だ」
「才能は使わなければ腐る」
その言葉だけは、妙に重かった。
飄々とした男の言葉とは思えなかった。
まるで経験から出た言葉みたいだった。
「また来る」
アゼルは手を上げた。
「返事はその時でいい」
それだけ言って歩き出す。
人混みの中へ。
露店の間へ。
気づけば姿は見えなくなっていた。
本当に変な男だった。
しばらくその場に立っていると、隣から声がした。
「龍馬」
メイだった。
「アゼルという人間を知っているか」
メイは少しだけ視線を逸らした。
「名前だけは」
「有名なのか」
「かなり」
短い返答だった。
珍しく歯切れが悪い。
「学院でも上位の立場にいると聞いています」
「教師か」
「それ以上かもしれません」
曖昧な言い方だった。
それだけで、アゼルという男がただ者ではないことが分かる。
「信用できるか」
今度は沈黙が長かった。
数秒。
いや、それ以上だったかもしれない。
「……危険な人間ではないと思います」
「思います?」
「断言はできません」
メイは静かに言った。
「底が見えません」
俺も同じ感想だった。
敵意はない。
だが何を考えているのか分からない。
信用していいのか判断できない。
そんな人間だった。
「学院の推薦はどう思う」
メイは今度は迷わなかった。
「受けるべきです」
即答だった。
「龍馬には必要です」
「そんなにか」
「はい」
青い瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「龍馬は自分で思っている以上に特殊です」
「特殊、か」
聞き慣れない評価だった。
昔なら違った。
昔は変だと言われた。
おかしいと言われた。
気持ち悪いと言われた。
特殊と言われたことはなかった。
同じようでいて、少し違う言葉だった。
「私では教えられません」
メイは続けた。
「龍馬が持っているものを伸ばすには、もっと専門的な知識が必要です」
「そうか」
「だから学院へ行くべきです」
それから少しだけ間を置いて。
「私も一緒に行きます」
断言だった。
相談ではない。
決定事項だった。
俺は思わず苦笑する。
「勝手だな」
「そうでしょうか」
「そうだろ」
「龍馬一人では心配です」
「子供扱いするな」
「していません」
していると思った。
だが反論するのも面倒だった。
結局、そのままギルドを後にした。
宿へ戻る頃には、日が沈み始めていた。
部屋へ入る。
木のベッド。
小さな机。
見慣れた景色。
異世界へ来てからまだ十日も経っていないのに、もう少しだけ馴染んできていた。
ベッドに腰を下ろす。
そして右手を見る。
さっき火花を散らした手だった。
もう何も残っていない。
熱もない。
痛みもない。
それでも。
あの感覚だけは覚えていた。
マナが流れた感覚。
術式を通った感覚。
出口で解放された感覚。
あれは間違いなく本物だった。
「とんでもない、か」
小さく呟く。
アゼルの言葉が頭に残っていた。
素直には受け取れなかった。
褒められることに慣れていない。
認められることにも慣れていない。
何か裏があるんじゃないか。
利用しようとしているんじゃないか。
そう考えてしまう。
それは簡単には消えない。
長い時間をかけて身についた癖だから。
でも。
手を握る。
あの感覚は本物だった。
誰に否定されても変わらない。
俺自身が感じたものだから。
窓の外を見る。
夜の街が静かだった。
二つの月が並んで浮かんでいる。
青白い月。
赤い月。
学院。
新しい場所。
新しい人間。
新しい生活。
怖くないと言えば嘘になる。
むしろ怖い。
かなり怖い。
でも。
術式をもっと知りたいと思った。
マナの流れをもっと理解したいと思った。
今日感じたあの感覚を、もっと深く知りたいと思った。
その気持ちは確かだった。
俺は窓の外の月を見ながら、静かに息を吐いた。
学院へ行くかもしれない。
そう思った時、不思議と嫌な気持ちはしなかった。




