マナ汚染個体
茂みが、ゆっくりと割れた。
最初に見えたのは目だった。赤く濁った、二つの光。それから、大きな輪郭が暗がりから滲み出てくる。
犬だった。
いや、犬だったもの、と言うべきか。
四足で立っているが、姿勢がおかしい。背中が不自然に盛り上がり、皮膚の下で何かが蠢いていた。体毛は所々が抜け落ち、露出した皮膚が黒く変色している。身体の側面には深い裂け目が走っていた。
傷口から滲んでいるのは血じゃない。黒い靄だった。
口から泡が垂れる。地面へ落ちた瞬間、草が音もなく枯れた。
喉が張り付くみたいに乾いた。
「……グラウラーだ」
ガルドの声が震えていた。さっきまでの余裕が、綺麗に消えている。
「なんでこんな場所に……」
「しかも汚染個体じゃない」
女が短杖を握り直す。
「最悪よ。普通のより硬いし、魔術も通りにくい」
「逃げた方がいいんじゃないのか」
俺が言うと、ガルドが短く首を振った。
「もう遅い。背中見せたら終わりだ」
グラウラーが低く唸る。腹の奥へ響く音だった。赤い目が、ゆっくりとこちらを舐めるように動く。
「散れ。一箇所に固まるな!」
ガルドが剣を抜いた。女が短杖を構える。細身の男が、両手へ魔力を集め始めた。
俺は後退する。
武器もない。魔術も使えない。今の自分にできるのは、邪魔をしないことだけだった。
獣が動く。
地面を蹴る轟音。次の瞬間には、ガルドへ飛びかかっていた。
ガルドが咄嗟に剣を振る。刃が側面を捉えた。だが、金属が石へぶつかったみたいな音が響き、剣が弾かれる。
「硬ぇ!」
「下がって!」
細身の男が叫び、集めた魔力を放つ。火球がグラウラーの背中へ直撃した。
爆ぜる音。
グラウラーが甲高い声で唸り、一歩後退する。
それでも倒れない。
裂けた身体から、黒い靄がさらに溢れ出した。
俺はメイの袖を引く。
「マナ汚染個体って何だ」
メイの表情が少しだけ固くなる。
「マナを過剰に取り込んだ魔獣です。身体が耐えきれず、内側から壊れていく」
視線はグラウラーから離れない。
「倒せるのか」
「倒せます。ただ、普通の個体よりずっと頑丈です。それに——」
メイが周囲を見る。
「周囲のマナを吸い続けています」
その言葉と同時に、地面の草が次々と色を失っていく。木の根も黒ずみ始めていた。
マナの流れが見えた。
川みたいだった。
本来なら森全体を穏やかに流れているはずのものが、今は無理やり一箇所へ吸い寄せられている。渦を巻きながら、地面の下へ沈み込んでいた。
戦闘が長引くほど、流れが強くなる。
「魔術が効いても再生が早い!」
女が叫ぶ。
「削り続けるしかない!」
ガルドと細身の男が交互に攻撃を叩き込む。
グラウラーはその度によろめく。だが、すぐ立ち直った。黒い靄が傷を塞いでいく。
削っても、追いつかない。
俺は戦闘を横目に、足元へ意識を向けた。
マナの流れが変わっている。
獣が動く度に、流れが乱れる。渦が深くなる。その中心が、地面の下へ沈み込んでいた。
視線を走らせる。
左側。
岩場。その近くに、大木が二本。根元の土が崩れかけている。
獣が踏み込むたび、地面が少しずつ沈んでいた。
時間がない。
「おい!」
誰にも届かなかった。戦闘音へ掻き消される。
心臓が嫌なほど鳴っていた。
「おい!!」
ガルドが一瞬だけ振り返る。
「左の岩場が崩れる! 今すぐ右へ動け!」
「何言って——」
「崩れるって言ってる!!」
ガルドが舌打ちした。
それでも反射的に右へ飛ぶ。女と細身の男も、引っ張られるように後退した。
次の瞬間。
轟音が森を揺らした。
岩場が崩れる。大木が根ごと倒れ、地面の一角が大きく抉れた。
土煙が舞い上がる。
グラウラーが崩落へ巻き込まれ、岩の下へ消えた。
しばらく、誰も動かなかった。
土煙が少しずつ晴れていく。岩の隙間から、黒い靄が薄く漏れていた。やがて、それも消える。
グラウラーの四肢が、力なく投げ出されていた。
「……討伐完了、か」
細身の男が静かに言った。
ガルドがゆっくり立ち上がる。剣を鞘へ収めながら、こちらを見た。さっきまでの軽さが消えている。
「……なんで分かった」
「地面が沈んでた」
「それだけか」
「マナの流れがおかしかった。全部そこに引っ張られてたから、地盤が崩れると思った」
ガルドは黙り込む。
何か言いかけて、やめた。
「……そうか」
それだけだった。
女が横を通り過ぎながら、小さく笑う。
「助かった。ありがと」
細身の男は何も言わなかった。ただ、一瞬だけ俺を見る。その視線は、最初より少しだけ真面目だった。
森を出るまで、ほとんど誰も話さなかった。
戦闘の余韻というより、それぞれ何か考えているみたいな沈黙だった。ガルドは前を歩いたまま、一度も振り返らない。
俺はメイと並んで歩く。
「怪我はないか」
「ありません。あなたは」
「ない」
しばらく足音だけが続く。
「さっきの、合ってたか」
「崩落のことですか」
「ああ」
メイは少し考えてから答えた。
「マナの流れを読んで地盤の異常を察知した、というなら合っています」
「普通はできないのか」
「かなり珍しいです」
メイがこちらを見る。その瞬間だけ、視線が少し柔らかかった。
「龍馬」
「何だ」
「……よく、逃げませんでした」
俺は答えなかった。
勇気があったわけじゃない。逃げた先に何もないと、知っていただけだ。
木々の隙間から、街の灯りが見え始める。
ギルドへ戻ると、広間がざわついた。
マナ汚染個体の討伐。話が広がるのは早かったらしい。
受付へ報告すると、周囲の冒険者たちがこちらを見る。
「マナ汚染のグラウラーだって?」
「星屑級が混じってたらしいぞ」
「運が良かっただけだろ」
「地形が崩れたって聞いたぞ」
声はすぐ流れていった。
ガルドも淡々と報告している。
「崩落へ巻き込まれました。運が良かっただけです」
受付が記録を書き込む。
否定する気にはなれなかった。実際、俺は倒していない。少し気づいただけだ。
「報酬をお渡しします。お疲れ様でした」
銀貨を受け取る。
冷たい重みが手へ残った。
最初の報酬だった。
それだけなのに、妙に実感がある。
ガルドが受付を離れる前、一度だけ振り返った。
「……名前、もう一回」
「坂本龍馬」
ガルドは頷き、何も言わず広間の奥へ消えた。
女が軽く手を振る。
細身の男も、今度は小さく会釈してから後を追った。
メイと並び、広間を横切る。
その時だった。
視線を感じる。
振り返る。
ギルドの奥。薄暗い廊下の入り口に、人影が立っていた。
深いフード。細い身体。手には羊皮紙。
冒険者には見えなかった。
ただ静かに、こちらを見ている。
値踏みするでもない。
観察するみたいな目だった。
一瞬だけ、メイの足が止まる。
呼吸も、わずかに止まった気がした。
だが、すぐ歩き出す。
俺は何も聞かなかった。
扉を開ける。
夜風が冷たい。
空には二つの月が浮かんでいた。
青白い月。赤みを帯びた月。
どちらも静かに光っている。
「腹、減ったな」
「……そうですね」
メイが少し間を置いて答えた。
ギルドの奥。
小さな声が漏れる。
届かない距離だった。
「……なんで星屑級が気づけた?」
俺には、聞こえなかった。




