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森を出て

「少し待っていてください」


メイは小屋の中へ戻ると、迷いのない動きで荷物をまとめ始めた。


棚から布袋を取り出して、中に小さな瓶をいくつか入れる。壁に掛けてあった外套を手に取り、丁寧に畳んで袋の上へ載せた。動作に無駄がない。まるで、最初からそのつもりだったみたいに。


俺は入り口のそばに立ったまま、小屋の中を改めて見回した。


家具は最低限だった。寝台、テーブル、椅子が二脚。棚には瓶と本が数冊。生活の痕跡は薄く、どこか仮の宿みたいな印象だった。


「ここ、ずっと住んでたのか」


「いいえ」


メイは振り返らずに答えた。


「しばらく滞在していただけです。元から長居するつもりはありませんでした」


「じゃあ、なんでこんな森の中に」


「……色々あるんです」


朝食の時と同じ言い方だった。それ以上聞くなという意味だと受け取った。


メイは袋の口を結んで、立ち上がった。小屋をもう一度だけ見渡す。


その視線が、一瞬だけ止まった。


ほんの僅かだった。けれど、完全に無関心というわけではないらしい。


「行きましょう」


森の中は静かだった。


踏み固められた獣道を、メイが先頭に立って歩く。俺はその少し後ろをついていった。木々の隙間から差し込む光が、地面に細長い影を作っている。


しばらく、二人とも黙っていた。


メイは歩きながら、定期的に周囲へ目を配っていた。視線の動かし方が妙に慣れている。警戒というより、習慣に近い動作だった。


ふと、足元に目が行く。


メイの靴が、やけに綺麗だった。森を歩いているのに、泥がほとんど付いていない。靴底の縫い目も細かく、素材も上質に見える。外套の端から覗く袖口も、生地の質が良かった。


森で一人暮らしをしている人間が持つものにしては、どこかちぐはぐだった。


「メイ」


「何ですか」


「この道、慣れてるのか」


「この森には詳しいので」


答えにはなっていたが、俺が聞きたかったこととは少しずれていた。


まあいい。


「アルトリアまで、危険はあるか」


「魔獣は出ます。ただ、昼間はそれほど活発ではありません。ルートを外れなければ、大きな問題にはならないはずです」


「はず、ってことは保証はできない」


「森ですから」


その言い方が少しだけ可笑しくて、俺は小さく息を吐いた。


一時間ほど歩いたところで、メイが足を止めた。


「……龍馬」


声のトーンが変わる。


「動かないでください」


俺も立ち止まった。


周囲を見回す。さっきまで聞こえていた虫の声が、いつの間にか止まっていた。葉の揺れる音も、鳥の声もない。


森全体が、息を殺したみたいに静まり返っている。


茂みが揺れた。


低木の奥から、大きな影がゆっくり姿を現す。


四足の獣だった。肩までの高さが俺の腰ほどある。灰色の体毛は所々が黒く爛れていて、皮膚の下で何かが蠢いているように歪んでいた。


赤く濁った目が、こちらを見る。


口元から白い泡が垂れ、地面へ落ちた草が音もなく枯れた。


まともじゃない。


理屈じゃなく、そう思った。


獣が低く唸る。腹の奥まで響くような声だった。


「下がっていてください」


メイが一歩前に出た。


声は静かだった。怯えも焦りもない。ただ、その目だけが獣を真っ直ぐ見据えていた。


右手をゆっくり持ち上げる。


その瞬間、空気が変わった。


何かが流れてくる感覚があった。


目には見えない。音もない。でも確かに、周囲からメイの方へ何かが集まっている。


川の流れみたいだった。


自然に、静かに、逆らえないものが一つの場所へ集まっていく。


風もないのに、木々がざわりと揺れた。


獣が跳ぶ。


地面を蹴る音と同時に、メイの口が開いた。


「《風よ、裂けろ》」


短い言葉だった。


次の瞬間、空気が弾けた。


見えない刃が扇状に広がる。獣の身体が空中で止まり、そのまま横へ吹き飛んだ。


地面へ叩きつけられ、何度か痙攣する。


それきり動かなくなった。


静寂が戻る。


メイは右手をゆっくり下ろした。少しだけ呼吸が浅くなっている。


乱れた銀髪を押さえ、小さく息を吐いた。


「……大丈夫ですか」


「あ、ああ」


心臓がうるさかった。


怖かった。


あの獣も。目の前で起きたことも。


でも、それ以上に。


「……すごいな」


口から出たのは、そんな言葉だった。


自分でも驚くくらい、素直な声だった。


メイが少しだけ目を瞬かせる。


「今の」


「魔術です」


「さっき、何かが集まってきた気がした。言葉を言う前から」


メイの動きが、わずかに止まった。


「……気づいたのですか」


「気のせいかもしれないけど」


「いいえ」


メイはこちらをまっすぐ見た。


「気のせいではありません」


歩きながら、メイが話し始める。


「魔術は、マナを使って現象を起こす技術です。この世界では一般的なものですね」


「さっき集まってきたのが、それか」


「そうです。周囲のマナを集めて、術式に従って動かしています」


「俺には、流れてるように見えた」


「……見える、ではなく感じ取れる、ですか」


「ああ」


メイは少し考え込むように黙った。


「マナの流れを感覚で捉えられる人間は、多くありません。訓練した魔術師でも、意識しなければ分からない程度です」


俺は自分の手を見る。


まだ感覚が残っていた。


川の近くに立っているみたいな、不思議な感覚。


「魔術と、魔法は違うのか」


メイが少し目を見開いた。


「なぜそう思ったのですか」


「お前が『魔術』って言い方をしてたから。別のものがあるのかと思って」


少し間が空く。


「……魔法は、生まれ持った才能です。イメージした現象を直接引き起こせる力ですね。魔術は技術ですが、魔法は素質です」


「お前はどっちを使った」


「魔術です。ただ、魔法の適性もあります」


「俺には使えるか」


「それは試してみないと分かりません」


使ってみたい、と思った。


怖かったはずなのに、それ以上に、あの感覚を自分でも掴んでみたかった。


「使うには何が必要だ」


「まず、自分の属性を知る必要があります。得意なマナの種類のことです。それによって扱いやすい術式が変わります」


「どうすれば分かる」


「専用の道具で測定します。ただ、その道具は私も持っていません」


「どこにある」


「ギルドです。冒険者ギルドなら、魔術適性を測る設備があります」


俺は前を向いた。


木々の隙間から、遠くに建物の影が見え始めていた。


「ちょうどいいな」


「……そうですね」


少しだけ疲れたような声だった。


アルトリアは、森を抜けた先にあった。


石造りの門。その向こうに、整然と並んだ建物が続いている。行き交う人々。荷馬車の音。どこからか焼けた肉の匂いが漂ってきた。


賑やかだった。


俺は門の前で足が止まる。


人が多い。


視線が全部、自分へ向いている気がした。そんなはずないと分かっていても、身体が勝手に強張る。


「龍馬」


メイが隣へ並んだ。


「大丈夫ですか」


「……ちょっと待ってくれ」


息を吸う。吐く。


怖い。


でも。


ここまで来た。


「行ける」


「そうですか」


メイはそれ以上何も言わなかった。


ただ、少しだけ歩く速度を落として、俺の隣に並ぶ。


門をくぐった。

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