知らない天井
目を覚ました時、天井が木だった。
丸太を組んだ素朴な造り。染み付いた木の匂い。どこかで鳥が鳴いている。俺の部屋には、そんなものは一つもない。
起き上がろうとして、全身が軋んだ。
「……っ」
痛みというより、疲労に近い感覚だった。身体の奥から力が抜けているような、そんな感じ。ゆっくり上半身を起こして、周囲を見回す。
小さな小屋だった。
木製の家具。窓の外には緑。壁際には見慣れない道具が掛けられている。淡く青い光を放つ石が、部屋の隅で静かに揺れていた。
ここは、どこだ。
「目が覚めましたか」
声がした。
部屋の隅、小さな椅子に座った少女がこちらを見ていた。
銀色の髪。青い目。年齢は十かそこらに見える。表情は静かで、感情が読めない。だが、その目は警戒していた。品定めするように、こちらをじっと見ている。
「……お前、誰だ」
「それはこちらが聞くことです」
即座に返ってきた。柔らかい声なのに、芯が硬い。
「森で倒れていたあなたを運んだのは私です。名前くらいは教えてもらえますか」
「……坂本龍馬。龍馬でいい」
「龍馬、ですか」
少女は小さく繰り返した。信じているのかいないのか、顔からは読めない。
「私はメイです」
それだけ言って、立ち上がった。距離を保ったまま、窓の外へ視線を向ける。
「一つ確認させてください。あなたは、この森に何をしに来たのですか」
「……俺にも分からない」
「分からない、とは」
「気づいたら倒れてた。本当のことだ」
メイはしばらく黙っていた。
信じていないのかもしれない。でも追及はしてこなかった。ただ、俺から目を離さなかった。
窓の外で、何かの鳴き声が響く。低く唸るような声だった。メイの視線が一瞬だけ外へ向く。
「……今夜はここにいていいです。ただし、勝手に動かないでください。この森には危険な獣が出ます。あなたに対処できるとは思えないので」
命令ではなく、警告だった。
それだけ言って、メイは部屋を出ていった。
翌朝、目が覚めると、テーブルに食事が用意されていた。
スープと、硬そうなパン。見慣れない赤い果実。それと湯気の立つ飲み物。質素だが、温かい。
メイは向かいの席に座って、静かにパンをちぎっていた。俺が椅子を引くと、視線だけがこちらへ動く。
「食べてください」
「……ありがとう」
「礼はいいです。毒は入っていません」
毒の話を自分から出すやつが、毒を入れるとは思えない。
俺は黙ってスープを一口飲んだ。塩気が強いが、悪くない。
しばらく、無言だった。
メイは食事の間も、ちらちらとこちらを確認していた。隠しているつもりなのか、それとも隠す気がないのか。どちらにしても、まだ警戒が解けていないのは分かった。
「聞いていいか」
「……何ですか」
「なんで助けた」
少し間があった。
「放置すれば死んでいたからです。それ以上でも以下でもありません」
嘘をついているようには見えなかった。
感情的な理由じゃない。ただそこに人が倒れていたから、見捨てなかった。それだけの話らしい。
変なやつだと思った。でも、そういう理由の方が俺には分かりやすかった。同情とか、親切心とか、そういう柔らかい言葉の裏を考えずに済む。
「ここはどこだ。国の名前でも、地域の名前でも」
「リアベルの森です。アルディアという世界の西端にある場所で、街から離れた辺境にあたります。近くに人里はありません」
「……アルディア」
「あなたが来た場所とは、別の世界です。驚かないのですか」
「驚いてないわけじゃない。ただ、騒いでも何も変わらないと思って」
メイはしばらく俺を見ていた。
さっきより、少しだけ目の色が変わった気がした。警戒というより、観察に近い目つきに。
「……そうですか」
パンをちぎりながら、メイはまっすぐこちらを見た。
「龍馬。あなたは、これからどうするつもりですか」
「……まだ決めてない。ここがどんな世界なのかも分からないし、帰り方も分からない」
「そうですね。この世界のことを知るなら、街へ出た方がいいでしょう。森の中では限界があります」
そこで一度、言葉を切った。
「……本当は、あまり街には行きたくないんですが」
「行きたくない?」
「色々あるんです」
それ以上は話さなかった。
答えを急かすわけでもなく、ただ事実だけを置いていくような言い方だった。
俺は窓の外の緑を見ながら思った。
ここがどんな世界なのかも、どうやって帰るのかも、何も分からない。でも、この部屋に閉じこもっていても何も変わらない。それだけは分かった。
食事を終えて、外に出た。
空が広かった。
馬鹿みたいな感想だが、それ以外の言葉が出てこなかった。
見渡す限りの木々。葉の間から差し込む光。空気が、肺の奥まで染み込んでくる。
空には月が二つ浮かんでいた。片方は青白く、もう片方は赤みを帯びている。
ずっと部屋の中にいた。窓から見える空だけが、俺の空だった。
「綺麗だな」
声に出すつもりはなかった。
「そうですか」
隣に立ったメイが、森を見ながら答えた。住み慣れているせいか、特に感慨もなさそうだった。
風が吹く。
葉が一斉に揺れた。遠くで鳥が鳴く。その奥から、何か大きな獣が木々を踏み鳴らす音が聞こえた。
「近くに国はあるか」
「アルトリアという国が、ここから歩いて半日ほどの距離にあります。そこなら冒険者ギルドもありますし、この世界の基本的なことは調べられるはずです」
「冒険者ギルドというのは?」
「依頼を受けて報酬をもらう組織です。情報収集の拠点にもなります。異邦人のあなたでも、門前払いはされないでしょう」
俺は空を見上げた。
青い月の隣を、翼の生えた大きな影が横切っていく。鳥ではない。もっと大きく、もっと異質な何かだった。
ここは俺の知っている世界じゃない。
帰り方も分からない。頼れる人間もいない。理由ならいくらでも並べられる。
でも、それを並べ続けた先に何がある。
「案内してくれるか」
メイは少しだけ目を細めた。
驚いているのか、考えているのか。それから、静かに頷いた。
「……分かりました」
今度は、警戒じゃなかった気がした。




