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『ホテル・ブルートーンへようこそ』  作者: マサ


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8/20

第8話:『明日への出帆(しゅっぱん)』

「組織のために、誰かのために」

そうやって走り続けてきた人が、ふと立ち止まった時に感じる虚無感があります。

東海汽船の企画課長として、数えきれないほどの旅を演出してきた牛島明日花さん。

彼女にとって今回の「試泊」は、現役最後の、そして最も重苦しい「仕事」でした。

「自分はもう、使い捨てられた駒に過ぎない」

そんな彼女の孤独を、ブルートーンの面々がどう包み込んでいくのか。

名前に込められた「明日」という光を取り戻す、祝福と再生の物語です。

「西山様から伺っております。東海汽船の牛島様ですね。お待ちしておりました」

須賀の恭しい一礼。しかし、それを受ける明日花の瞳は、

深い霧に包まれた夜の海のように濁っていた。

長年の激務、そして今回のタイアップを最後に「勇退」という名のリストラに近い勧告。

彼女の心は、組織への不信感と、自分という存在の無価値感に蝕まれていた。


「……よろしく。仕事ですから、厳しくチェックさせていただきますね」

事務的に答える明日花。だが、須賀はその声の震えを見逃さなかった。


「もちろんでございます。案内を。……チャン」

「はい! 牛島様、ようこそ!」

現れたチャンは、紺地の着物に赤い前掛け、頭には手拭いを被った大島伝統の「あんこさん」姿。

その弾けるような笑顔に、明日花は一瞬だけ、入社したての頃、

大島の文化に憧れてこの仕事を選んだ自分を思い出した。


部屋へと続く廊下を歩いていると、どこからかサックスの調べが聞こえてきた。

『オーバー・ザ・レインボー(虹の彼方に)』

切なくも希望に満ちたその旋律。

(……ああ、私にもあんな風に、虹の向こうを夢見ていた時期があった)

明日花の胸に熱いものが込み上げる。しかし、彼女はすぐにそれを打ち消した。

「これはタイアップのための演出、仕事よ」と。


夕食の席。亮太が出したのは、シンプルだが力強い『牛テールのスープ』だった。

「牛島様。これは、大島の塩だけで味を調えています。素材が良ければ、余計な飾りはいらない。

亮太さんは、そう言っています」

チャンの説明通り、一口飲めば、滋味深い旨味が冷え切った身体の芯を叩き起こしていく。


亮太の牛テールスープで身体の芯に火が灯った明日花は、静寂に包まれたBAR『ブルートーン』

の扉を開けた。

佐々木は、彼女が席に着くのを待っていたかのように、真っ白な液体をシェイカーに注いだ。


「牛島様。今夜は、大島の恵みそのものを味わっていただきたいのです」


差し出されたのは、大島牛乳をベースにした、雪のように白く、柔らかな泡立ちのカクテル。


「……牛乳のカクテル? 珍しいわね」

「大島の放牧地で育った牛たちの乳です。潮風を浴びた草を食み、

この島の厳しくも豊かな自然の中で育まれた、力強くも優しい味です」


明日花が口をつけると、驚くほど濃厚で、懐かしい甘みが口いっぱいに広がった。

それは、組織の荒波に揉まれて擦り切れた彼女の心を、温かく包み込むような「母性」の味だった。


「佐々木さん、私……ずっと、誰よりも強くあらねばと思ってきました。

課長として、組織の顔として。でも、このカクテルを飲むと、なんだか

……ただの自分に戻ってもいいような気がしてくる」


「牛島様。牛は、ただそこに在り、命を繋ぐだけで尊いものです。

あなたもまた、組織の肩書きを脱いだとしても、その存在そのものに価値がある。

この白いカクテルのように、混じり気のない貴女自身を、どうか慈しんで差し上げてください」


明日花の瞳から、一筋の涙が溢れ、白いカクテルの表面に波紋を作った。

「……ありがとう、佐々木さん。私、自分を許してあげられそう」


翌朝、真新しい光が差し込むテラスで、成人が鮮やかな緑色のグラスを運んできた。

「牛島様。大島の明日葉をふんだんに使ったスムージーと、特製スイーツです!」


明日花はその瑞々しい苦味と甘みを堪能し、傍らに立つ須賀に問いかけた。

「……素晴らしいおもてなしでした。今回のコンセプトは『大島の魅力の再発見』、

といったところでしょうか?」


須賀は、静かに首を振った。

「いいえ、牛島様。今回のコンセプトは、大島でもタイアップでもありません。

長年、海を繋ぎ、人々を繋いできた『貴女』へのセレブレーションです」


「……私への?」


「お気づきですか?」チャンが隣で微笑む。

「昨日のテールスープ、牛乳のカクテル、今朝の明日葉。

牛島明日花様、あなたのお名前にちなんだお料理なんです。亮太さんも成人も、佐々木さんも

あなたに元気になってほしくて……」


明日花は絶句した。

「でも、私はもう終わった人間よ。この企画が終われば、居場所なんて……」


「終わってなどいません」須賀の声が、静かに、しかし鋼のように響く。

「確かに組織との関係は変わるかもしれません。しかし、貴女がこれまで積み上げてきた情熱は、

使い捨てられるようなものではない。私たちは、貴女というプロフェッショナルに、

ただ一人の人間として、笑顔で帰っていただきたいのです。

……さあ、あの方も待っています」


出港を告げるドラの音が島に響き渡る。

桟橋に立つ明日花の前に、チャンが駆け寄った。

その手には、先ほどまで彼女が頭に巻いていた、深い緑色に染まった手ぬぐいが握られていた。


「牛島様、これ! 良かったら持っていってください」


明日花が戸惑いながら受け取ると、その布からは大島の潮風と、爽やかな草の香りがした。


「これ、大島の明日葉で染めた手ぬぐいなんです。私が一生懸命、心を込めて染めました。

明日花さんの毎日が、明日葉みたいに力強く、青々と輝きますようにって……」


チャンは少し照れくさそうに、けれど満開の笑顔でそう言った。


「明日葉染めの、手ぬぐい……。私のための、明日……」


明日花はその布を、宝物のように胸に抱きしめた。

組織の中で使い捨てられる「記号」だった自分に、これほどまでに真っ直ぐな、

手仕事のぬくもりが贈られた。その事実が、彼女の心に最後に残っていたわだかまりを、

綺麗に洗い流してくれた。


「ありがとう、チャンさん。大切にするわ。私、忘れない。この島のこと、みんなのこと」


明日花が客船のデッキに上がり、手すりから大きく手を振る。

船がゆっくりと岸壁を離れ始めたその時、一段と高い場所から、

突き抜けるようなサックスの音が降り注いだ。


カイトが奏でる、『明日があるさ』。


最初は優しく、語りかけるように。

そして次第に、力強く、大地を揺らすようなスウィングへと変わっていく。

そのリズムに合わせて、チャンが手を振り、亮太が腕を組みながら不器用そうに頷き、

成人がジャンプし、佐々木と須賀が静かに一礼を送る。


明日花は、チャンにもらった明日葉色の手ぬぐいを、旗のように高く掲げた。


「明日があるわ。私には、明日がある!」


潮風にたなびく緑の布。

カイトの吹く陽気なメロディは、船を追うカモメたちの羽ばたきと共に、

彼女の新しい人生の門出を、どこまでも追いかけていった。


(第8話:明日への出帆しゅっぱん 完)

「名前をメニューに織り込む。亮太や成人はもちろん、佐々木が大島牛乳を選んだのも、

単なる言葉遊びじゃない。戦い続けてきた明日花に『安らぎ』という名の栄養を与えたかったからです。

最後、カイトが吹く『明日があるさ』に乗せて、彼女が明日葉染めの手ぬぐいを旗のように振る姿……。

あれは組織の駒ではなく、自分の人生という船を操る『船長』の姿でした。

筆を置きながら、私も熱いものが込み上げましたよ」

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