第7話:『ラスト・ステップのその先へ』
「夢」という言葉が、いつの間にか自分を追い詰める刃に変わってしまうことがあります。
上京して数年、あるいは十数年。周囲が「安定」を選んでいく中で、
鏡の中の自分に「まだやれるの?」と問いかける毎日。
今回の主人公、真由美さんは、すり減ったシューズと一緒に、逃げるようにこの島へやってきました。
彼女を縛っていたのは、他人からの「評価」という名の透明な檻。
「もう、潮時かもしれない」
そう呟く彼女の凍りついた心を、ブルートーンのスタッフたちが繋ぐ情熱のリレーが
どう溶かしていくのか。
なりたい自分になるのに、遅すぎることはない。
その真実を、彼女のステップと共に感じていただければ幸いです。
桟橋に降り立った真由美の姿は、およそ「ダンサー」という華やかな響きからは程遠いものだった。
着古したパーカーのフードを深く被り、大きなスポーツバッグを重そうに肩に食い込ませている。
その視線は常に足元を彷徨い、誰とも目を合わせようとはしない。
彼女にとってこの島は、輝かしい夢を追いかけた東京から、最も遠い「逃げ場所」だった。
「……あのお客様ですね」
ホテルのエントランス。須賀の隣で、チャンが小さく呟いた。
チェックインカウンターに現れた真由美の手は、わずかに震えていた。
宿帳に住所を書く際、彼女は「職業」の欄で一瞬だけペンを止め、
結局そこを空白のままにして横線を引いた。
「ようこそ、ホテル・ブルートーンへ」
須賀の低く、落ち着いた声がロビーに響く。
真由美は顔を上げず、消え入るような声で答えた。
「……予約していた、真由美です。あの、ここなら……誰にも会わずに済みますか?」
その言葉に含まれた切実な拒絶を、須賀は冷静に受け止めた。
「左様でございますか。当ホテルは、お客様が『ただの自分』に戻るための場所。
誰かに見られることを恐れる必要はございません」
須賀の言葉に、真由美はハッとしたように顔を上げた。
(見られることを、恐れる――)
ステージの上で、何百人もの視線を浴びることを夢見てきたはずの自分が、
今は誰の視線からも逃げたがっている。その矛盾を、この初老の男に一瞬で見抜かれた気がした。
「真由美さん、お荷物お持ちしますね!」
チャンの明るい声が、沈みかけた空気を弾ませる。
「……あ、大丈夫です。重いから」
「平気ですよ! 私、こう見えて力持ちなんです。大島の坂道で鍛えられてますから」
チャンは半ば強引にバッグを受け取ると、真由美の横に並んで歩き出した。
「真由美さんのスニーカー、すごく使い込まれててかっこいいですね。
何か、特別なことをされている方なんですか?」
「……いえ。もう、何も」
真由美は力なく首を振った。
その時、開け放たれたテラスの向こうから、波の音を切り裂くような鋭い音が聞こえてきた。
カイトが、夕暮れの海に向かってサックスのリードを調整する音だ。
不規則で、激しく、剥き出しの音。
真由美の肩が、ビクリと震えた。その反応は、拒絶というよりは、
長い間眠っていた細胞が強制的に起こされたような、本能的な「共鳴」だった。
「……何の、音?」
「カイトさんです。あの方、いつもあんな風に、誰に頼まれるでもなく音を奏でているんですよ」
チャンはそう言って、真由美を客室へと促した。
「真由美さん。ここでは無理に笑わなくていいし、無理に休まなくてもいいです。
ただ、お腹が空いたらレストランへ来てください。
亮太さんが、最高に『元気が出るスープ』を作って待ってますから」
真由美は、チャンの背中を見つめながら、自分が握りしめていたスニーカーの紐を、
少しだけ緩めた。逃げてきたはずの場所で、最初に出会ったのは、
彼女を「透明な存在」として放っておいてはくれない、お節介で、けれど温かい人々だった。
部屋に入り、一人になった真由美は、壁にかかった大きな姿見の前に立ち止まった。
ゆっくりとパーカーを脱ぎ、タイトな練習着姿の自分を映し出す。
(……ああ、やっぱり)
ため息が、足元の影に沈んでいく。
かつては鋼のように引き締まっていたウエストには、わずかな緩みが生まれ、
跳躍を支えていた腿のラインも、どこか力強さを欠いている。
「ダンサーとしての賞味期限」
そんな残酷な言葉が頭をよぎる。東京でのオーディションに落ち続けるたび、
彼女は鏡の中の自分を「ふさわしくない」と切り捨ててきた。
「もう、踊る身体じゃない……」
震える指先で自分の腕をなぞる。筋肉の衰えは、そのまま夢の萎縮だった。
彼女は逃げるように鏡に布をかけ、レストランへと向かった。
レストランの片隅で、真由美は運ばれてきたスープを前に、伏し目がちに座っていた。
厨房から出てきた亮太は、一言も発しない。
ただ、どっしりと重厚な磁器のボウルを真由美の前に置くと、
彼女の細い肩を一瞬だけ鋭く見つめ、そのまま何も言わずに厨房へと戻っていった。
去り際、亮太がボウルを置く指先に込めた力が、テーブルに「トッ」と低い音を響かせた。
それは、まるで「しっかりしろ」という無言の喝のようだった。
「……怒ってるんでしょうか、料理長」
真由美が怯えたように呟くと、隣に控えていたチャンが、
クスクスと優しく笑いながらお冷やを注いだ。
「いえ、逆ですよ。あの方、言葉にするのが下手くそなだけなんです」
チャンは真由美の向かいの席に、友達のような近さで腰を下ろした。
「亮太さん、真由美さんが鏡を隠したこと、気づいてたんですよ。
……真由美さん、さっきお部屋で、自分の体型を見てため息ついてませんでした?」
真由美は、図星を指されて言葉を失った。
「亮太さんがさっき言いたかったのはね、『形なんてどうでもいい』ってことなんです。
あの方にとって、ダンサーの身体は飾るための宝石じゃなくて、
命を燃やすための『楽器』なんですって。
……『燃料も入れてないカサカサの楽器で、いい音が鳴るわけねえだろ』。
厨房で、そうボヤきながらこのスープを作ってましたよ」
チャンは真由美の、骨が浮き出た手をそっと包み込んだ。
女性同士の温かい体温が、真由美の震えを鎮めていく。
「真由美さん。私たちは、今のあなたが『ふさわしくない』なんて微塵も思っていません。
むしろ、その使い込まれた身体は、真面目に生きてきた証で、すごく美しいなって。
……このスープ、大島の命が全部詰まってます。
これを飲んで、内側から自分を許してあげてください。
亮太さんは、あんたの魂が腹を空かせてるって、怒ってるだけなんです」
真由美は、スープを一口、口に含んだ。
滋味深い熱が、喉を通って全身の細胞に染み渡っていく。
「……美味しい。すごく、熱いです」
「でしょ? 亮太さんのスープは、魂のガソリンなんです。しっかり食べて、
明日の朝には、もっと自分を好きになってほしい。それが、私たちの願いですから」
チャンはそう言って、悪戯っぽくウィンクした。
真由美は、初めて自分からスプーンを力強く握りしめた。
鏡を隠した時の絶望感は、スープの湯気の中に少しずつ溶けて消えていった。
亮太のスープで身体が内側から火照った真由美は、
誘われるようにBAR『ブルートーン』の扉を開けた。
カウンターの奥で、佐々木が静かに一礼する。
「いらっしゃいませ。真由美様、少しお顔色が戻られましたね」
真由美は少し照れくさそうに笑い、止めていた息を吐き出すように語り始めた。
「……さっき、チャンさんに言われたんです。私の身体は使い込まれた楽器だって。
でも、もう若くないし、目立った実績もない。東京には、もっと若くて、
手足の長い子がいくらでもいる……。もう、潮時だと思って、この島へ逃げてきたんです」
自分を納得させるように並べ立てる「諦めるための理由」。
佐々木は否定も肯定もせず、ただ静かにシェイカーを振った。
真由美の前に置かれたのは、燃えるような朱色のカクテル。
「『サイドカー』です。かつて、戦場の泥濘を走り抜けるために作られた乗り物の名。
……真由美さん、これに乗れば、どこへでも行けます。あなたが望む場所へなら、どこへでも」
真由美はグラスを手に取り、その鋭い酸味とアルコールの熱に目を細めた。
「佐々木さん、私は……認められたかったんです。
誰かに『あなたは価値がある』と言ってほしかった。
でも、それが叶わないなら、踊る意味なんてないと思ってた」
「真由美さん。あなたが初めてステップを踏んだあの日、そこに観客や審査員はいましたか?」
佐々木の静かな問いが、真由美の心に波紋を広げる。
「……いいえ。ただ、好きな曲が流れていて……身体が勝手に動いて。
あんなに楽しいことは、他にないって思った。それだけでした」
「評価という檻は、自分で鍵をかけない限り、あなたを閉じ込めることはできません。
なりたい自分になるのに、遅すぎることはない。
なぜなら、『なりたい自分』とは、誰かに決められる姿ではなく、
あなたが魂から楽しんでいる姿のことなのですから」
真由美は、赤い液体の中に、かつての自分が夢中で踊っていた練習室の風景を見た。
そうだ、私は踊るのが好きだった。ただ、それだけだった。
「……もう一度、自分のために、踊ってみたくなりました」
「その答えを待っていました。明日の朝、成人が最高の目覚めを用意しています。
今日は、その熱を消さないよう、ゆっくりお休みください」
翌朝、テラスに現れた真由美の顔を見て、須賀は静かに口角を上げた。
そこには、昨日のような重く淀んだ空気はない。
睡眠不足で落ち窪んでいた目元はすっきりと晴れ、
肌には亮太のスープが巡らせた血色の良さが宿っている。
「おはようございます、真由美さん。よく眠れましたか?」
成人が、朝日のような眩しい笑顔で声をかけた。
その手には、丁寧にドリップされた島コーヒーのポットと、一皿のスイーツが載ったトレイがある。
「……ええ。不思議なくらい、ぐっすり。あんなに深く眠れたのは、何年ぶりかしら」
真由美は自分の声が、昨日より少しだけ高く、響きが良いことに驚いていた。
成人は、瑞々しいフルーツと真っ白なクリームが踊るように盛り付けられたプレートを
彼女の前に置いた。
「よかった! 今朝は真由美さんのために、特別なスイーツを用意したんです。
題して『インプロヴィゼーション(即興曲)』。型に嵌まらない、
今この瞬間の楽しさを詰め込みました」
真由美が一口、そのスイーツを口に運ぶ。
口の中で弾けるベリーの酸味と、ナッツの軽快な食感。
それは、ルールや評価に縛られていた彼女の心を、優しく解き放つような自由な味だった。
「……美味しい。なんだか、身体が軽くなって、勝手に動き出しそう」
「最高のご褒美です。真由美さん、成人の作ったこのスイーツには、一切の『正解』がないんですよ」
いつの間にかそばに立っていた須賀が、穏やかに言葉を添えた。
「彼が楽しんで作ったものは、食べる人の心も自由にする。
あなたが今日、どのようなステップを踏むのか、この島も、そして私たちも、楽しみにしています」
真由美は、最後の一口まで慈しむように食べ終えると、深く、長く息を吸い込んだ。
肺の奥まで大島の清浄な空気が満ちていく。
もはや、鏡の中の自分を卑下する気持ちは微塵もなかった。
この身体は、まだ踊れる。いや、これからもっと、自由に、私らしく踊れる。
「……行ってきます。私の、新しいステージへ」
成人の淹れたコーヒーの、力強く芳醇な香りに見送られ、真由美は桟橋へと向かった。
その足取りは、もう猫背ではない。しなやかに、そして堂々と、地を踏み締めていた。
出港の汽笛が島に響き渡る。
大型客船「かめりあ丸」のデッキに立つ真由美の背中に、鋭く、そして情熱的な一音が突き刺さった。
カイトのサックスだ。
吹き鳴らされたのは、MSGの名曲『Dancer』を
サックス用にアレンジした、力強い旋律。
哀愁漂うイントロから、一気にギアを上げるサビのメロディ。
かつて真由美が、誰もいない夜の練習室で、心臓が破れるほど踊り狂っていた時に聴いていた、
あの魂の叫び。
「……信じられない」
真由美は思わず手すりを握りしめた。
カイトは、岸壁でサックスを斜めに構え、フライングVを掻き鳴らすギタリストのような
激しい運指で、その「舞踏家のための賛歌」を響かせている。
『踊れ、真由美。評価のためじゃない、あんたの魂が喜ぶままに』
音色がそう叫んでいた。
真由美の足が、無意識にリズムを刻む。
一度は捨てようとしたステップ。けれど、成人のコーヒーで目覚めた身体と、
佐々木の言葉で自由になった心が、音に合わせて跳ねる。
彼女はデッキの上で、小さく、けれど最高に美しくターンを決めた。
岸壁では、須賀が満足げに頷き、チャンが大きく手を振っている。
亮太は腕を組み、成人は新しいインスピレーションを得たような顔で彼女を見つめていた。
「なりたい自分になるのに、遅すぎることなんて……一つもない!」
海風に向かって叫んだ真由美の顔は、朝日のように輝いていた。
船が離れても、カイトの『Dancer』はいつまでも、
彼女の新しい門出を祝福するように鳴り止まなかった。
(第7話:ラスト・ステップのその先へ 完)
「なりたい自分になるのに、遅すぎることはない」。
使い古された言葉かもしれませんが、それを真実にするのは、
他ならぬ自分自身の「魂の空腹」に気づくことではないでしょうか。
亮太のスープで身体を、佐々心の問いで心を取り戻し、成人の自由さで型を壊す。
そして仕上げは、カイトが吹くMSGの『Dancer』。
ハードロックの不屈の精神をサックスに込めて、彼女の背中を力強く押し出しました。
デッキの上で見せた彼女のターン。あれはもう「逃亡者」ではなく、
人生という舞台を自ら選んで踊る「真の表現者」の姿でした。
筆を置きながら、私も心地よいリズムの中にいます。
野内




