第18話:『長いチェックアウト』
いつも『ホテル・ブルートーン』を応援していただき、本当にありがとうございます。
第18話となる今回は、これまでのブルートーンの歴史の中でも最も異色であり、最高にスリリングな「倒叙ミステリー」に挑戦してみました。イメージしたのは、
あの名作刑事ドラマ『古畑任三郎』のようなじりじりとした心理戦の世界観です。
本日チェックインされたお客様は、大金を騙し取り、警察の追っ手から逃亡している
投資詐欺の首謀者・山本孝。紳士の仮面を被り、離島ののんびりした
ホテルで息を潜めようと目論む犯罪者です。
しかし、彼が選んだ潜伏先は、世界最高峰の観察眼と連携を持つ
プロフェッショナルたちの巣窟『ホテル・ブルートーン』でした。
フロントでのわずかな手元の狂い、部屋案内での奇妙な拒絶、
そしてレストランで見えた歪な違和感……。
一流のホテルマンたちが、決して警察官としてではなく、あくまで「最高のおもてなし」を
提供する中で犯人の頑なな心をどう解きほぐし、自首へと導いていくのか。
目に見えない完璧なホスピタリティの網の目が、静かに閉じられていく
緊迫のドラマをどうぞお楽しみください。
大島を包む夕闇が、いつもよりどこか冷たく重く感じられる黄昏時だった。
フロントロビーに、仕立ての良い高級スーツをスマートに着こなした初老の紳士が姿を現した。
男の名は、山本孝。
都会で数十億円規模の金を騙し取り、全国に指名手配されている冷酷な投資詐欺の犯罪者である。
警察の包囲網を潜り抜け、高飛びの準備が整うまでの数日間を、
誰も自分を知るはずのないこの離島のホテルで、何食わぬ顔で過ごそうと企んでいた。
「ようこそ、ホテル・ブルートーンへお越しくださいました」
総支配人の佐々木が、いつも通りの穏やかで洗練された一礼で山本を迎える。
山本はフッと余裕のある笑みを浮かべ、いかにも旅慣れた上客といった風情で、
差し出された宿帳に万年筆を走らせた。
(地方の緩いホテルだ。適当な偽名でも書いておけば、まさかバレるはずもない……)
山本は頭の中で用意していた架空の人物の名前を滑らかに書き進める
。――が、その時だった。長日月の逃亡生活による極限の緊張と疲労が、ほんの一瞬だけ、
山本の手元を狂わせた。
「山……」と、本来の自分の本名の最初の一文字を無意識に書きかけ、ハッと息を呑んでペンを止める。男はすぐに何事もなかったかのようにその一文字をスマートに塗りつぶし、
その横に「佐藤」という偽名を書き直した。
時間にして、わずか一秒に満たない刹那の出来事。
普通の人間なら絶対に見落とすようなその手元の迷いを、カウンターの向こうの佐々木の双眸は、
静かに、確実に捉えていた。
(ご自身のお名前を、書き間違えそうになる……?)
佐々木の胸に、小さな、けれど鋭い違和感の棘がチクリと突き刺さる。
だが、佐々木の表情は完璧なホテルマンの微笑みのまま、一切崩れない。
「佐藤様、ご記帳ありがとうございます。お部屋までスタッフがご案内いたします」
◇
「佐藤様! お荷物、お持ちしますね!」
弾けるような明るい声とともに飛び出してきたのは、チャンだった。
チャンは山本が持っていた大きなキャリーケースへスッと手を伸ばし、預かろうとする。
ここまでは、高級ホテルの至極当然の光景だった。
しかし、チャンがもう一方の手で、山本が脇に固く抱え込んでいた「革製の手持ち鞄」に
触れようとした、その瞬間だった。
「触るなッ!!」
ロビーの空気を一瞬で凍りつかせるような、鋭く冷徹な怒号が山本の口から飛び出した。
その目は、普段の温和な紳士のものとはあまりにもかけ離れた、獲物を警戒する獣のような
ギラついた光を放っていた。
「あ……」
チャンが驚いて目を丸くする。
山本は自分が過剰に反応しすぎたことに即座に気づき、
慌ててふっと柔らかい笑みを作って取り繕った。
「ああ、すまないね、お嬢さん。驚かせてしまった。
……これにはね、仕事の極めて重要な機密書類が入っていてね。
これだけは、どうしても自分の手で持っていないと落ち着かない性分なんだよ。
キャリーケースの方は、頼めるかな?」
「は、はい! わかりました! それではこちらへどうぞ!」
チャンはいつも通りの屈託のない笑顔に戻り、山本の先頭に立って歩き出した。
(仕事の書類……?)
チャンは山本の背中を見つめながら、その歩き方に奇妙な違和感を覚えていた。
手持ち鞄を抱える山本の指先は、白くなるほど強く、まるで「命綱」にでもしがみつくかのように
鞄を握りしめていたのだ。それは、どれほど言葉で取り繕おうとも、
隠しきれない人間の生々しい『防衛本能』そのものだった。
客室へと向かうエレベーターの中、チャンのインカム(無線)が静かに震えた。
フロントの佐々木からの通信だった。
『チャンさん、佐藤様のご様子はいかがですか』
チャンは山本に気づかれないよう、背を向けたまま、静かに、
けれど確信を込めてインカムのボタンを押した。
『佐々木支配人……あのお客様、お仕事の旅だと仰っていますけど、
何かにものすごく、怯えていらっしゃいます。
手持ちの鞄を、まるでお守りみたいに、一瞬たりとも私に預けてくれないんです』
フロントでそれを聴いた佐々木は、ゆっくりと目をつむり、すべてを察した。
「やはり、そうか……」
宿帳の書き損じ、そして手持ち鞄への異常な執着。
あの鞄の中にあるのは、機密書類などではない。
おそらくは、この静かな大島にはおよそ似つかわしくない「何か」だ。
「亮太くん、須賀さん、聴こえますか。
今夜のお客様は、少々『特別なお荷物』をお抱えのようです」
佐々木の静かな声が、厨房の亮太、そしてBARの須賀へと繋がっていく。
完璧すぎるおもてなしという名の、目に見えない巨大な網の目が
、逃亡者・山本孝の周囲で静かに、音もなく閉じようとしていた。
夜、海の見えるメインダイニング。
グラスの触れ合う上品な音が響く空間に、山本――宿帳の偽名「佐藤」は、
昼間と同じ高級スーツを纏って席に着いていた。
彼は平静を装うために、運ばれてくる料理を優雅に口へ運び、
ソムリエにワインの銘柄を尋ねたりしていた。
すべては完璧なカモフラージュのはずだった。
しかし、厨房の奥からスリット窓越しにその様子をじっと見つめる、鋭い双眸があった。
料理長の亮太である。
亮太は、山本が料理を口にするたびに、ある「不自然な仕草」を繰り返していることに気づいた。
「おい、チャン」
亮太は皿を運ぼうとしたチャンを静かに呼び止めた。
「あのお客様……佐藤様だが、仕立ての良いスーツの上着の下に、何か着けていないか?」
チャンがトレイを胸に抱えながら、遠目に山本の席を注意深く観察する。
「あ……本当です。上着の裾から、黒いベルトみたいなものがチラッと見えます。
あれ、もしかして……ウエストポーチですか?」
「そうだ」亮太は冷徹に頷いた。
高級フレンチのディナーを誇る名門ホテルで、上着の下にウエストポーチを巻いたまま食事をする
紳士など、いるはずがない。さらに亮太の目は、山本の微細な挙動を捉えていた。
「フォークを持つ左手が、時折、無意識にその上着の腹のあたりを
外側から確かめるように触っている。パスポートか、逃亡用の巨額のキャッシュか、
あるいは国際キャッシュカードか……。
肌身離さず持っていないと、生きた心地がしないんだろう」
亮太は静かにインカムのスイッチを入れた。
「須賀さん、亮太です。レストランの佐藤様、上着の下にウエストポーチを着けたまま
食事をされています。一時も身体から離せない『何か』を隠し持っているのは間違いありません」
『……よくわかりました、亮太くん。情報感謝します』
インカムの向こうで、チーフバーテンダー・須賀の静かで深い声が返ってきた。
◇
食後、お腹は満たされたものの、張り詰めた神経をどうしても鎮められない山本は、
吸い寄せられるようにBAR『ブルートーン』の重厚な扉を開けた。
静寂が支配する空間。カウンターの奥では、須賀がただ一人、ランプの光の中で静かに
グラスを磨いていた。
山本はカウンターの端の席に腰を下ろし、都会の高級バーで飲み慣れた仕草で、気取って注文した。
「マティーニを。ドライで頼む」
「かしこまりました」
須賀は流れるような所作でボトルを手に取り、ミキシンググラスで氷を回す。
その一挙手一足投足に無駄はなく、完璧な夜の空間が演出されていく。
山本はその洗練された技に、一瞬だけ警戒の紐を緩め、ふぅと深い溜息をついた。
(さすがに、ここまでは警察の目は届かない。大島は安全だ。
明日になれば、予定通り次の場所へ高飛びできる……)
山本は心の中でそう確信し、勝利の笑みを浮かべそうになっていた。
自分の正体や、上着の下に隠したウエストポーチ、そして昼間にチャンを怒鳴りつけた
手持ち鞄の秘密に、この島のホテルマンたちが気づいているなど、1ミリも疑っていなかった。
須賀は静かにマティーニを差し出し、山本がそれを一気に飲み干すのを見届けると、
おもむろに新しいシェイカーを手にした。
「佐藤様、よろしければ、当ホテルのバーからもう一杯、私のおすすめを一杯、
お受け取りいただけますか」
「ほう、おすすめかい? いただこうか」
機嫌を良くした山本が頷く。
須賀は、ライトラム、キュラソー、そしてフレッシュレモンジュースをシェイカーに注いだ。
そして、夜の静寂を切り裂くように、しかしどこか哀愁を帯びた美しいリズムで、
銀のシェイカーを激しく揺らし始めた。
カチャカチャ、と響く心地よい氷の音。
注がれたのは、淡く濁った、氷のように冷たく美しいショートカクテルだった。
「どうぞ」
山本はグラスを手に取り、嬉しそうにそのカクテルを口に含んだ。
「……素晴らしいキレだ。ラムの甘みの後に、レモンのシャープな酸味が追いかけてくる。
実に洗練されている。バーテンダー、このカクテルの名前は?」
須賀は、山本の上着の裾から微かに覗くウエストポーチの膨らみに一瞬だけ視線を落とし、
それから山本の目を真っ直ぐに見つめて、静かに微笑んだ。
「――『XYZ』でございます」
「エックス、ワイ、ゼット……?」
山本はグラスを傾けながら、そのアルファベットを口の中で繰り返した。
アルファベットの最後の3文字。カクテル言葉は、【これ以上の後はない】【もう終わり】。
それは、すべてを見抜いたブルートーンからの、静かなる「チェックメイト」の通告だった。
しかし、自分の完璧な犯罪計画を過信している山本は、その名前に込められた本当の意味に、
まだ全く気づいていなかった。
「ふっ、面白い名前だね」と笑い、贅沢な酒の余韻に浸る山本の背後に、
大島の夜霧が静かに深く立ち込めていた。
翌朝。大島の空は、昨夜の緊迫感を覆い隠すように、雲一つない青空が広がっていた。
しかし、テラス席に座る山本の心は、限界を迎えつつあった。
昨夜のバーでの余韻が消え、朝が来ると同時に「いつ警察が踏み込んでくるか」
という逃亡者特有の焦燥感が、再び彼の脳内を支配していたのだ。
そこへ、パティシエの成人が、静かな足取りで一皿のデザートと温かいコーヒーを運んできた。
「佐藤様、おはようございます。今朝は、大島特産の明日葉と柑橘をあしらった
『特製フルーツ入りヨーグルト』と、大島コーヒーでございます。
……少しでもお心が休まりますように」
山本はトゲトゲした神経のまま、それを一口含んだ。
その瞬間、爽やかな酸味とビタミン、そしてヨーグルトの優しい甘みが、
山本の脳のストレスを肉体的なアプローチでじんわりとほぐしていくのがわかった。
驚く山本に、成人は一礼して去っていった。
(……ストレス発散効果のある果物か。今の私の焦りすら、このホテルの若者は見抜いていたのか?)
山本は自嘲気味に微笑み、大島コーヒーを飲み干した。
その時、テラスの木陰から、低く、重厚で、あまりにも孤独なサックスの旋律が響き渡った。
カイトが吹き鳴らした曲は、映画『野獣死すべし』のテーマ。
狂気と孤独の狭間で、牙を剥きながら死んでいった男の哀歌。
その冷徹で、どこか美しく哀しいトーンがロビーの空間を満たした瞬間、
山本は自分のこれまでの人生の「終わり」をはっきりと悟った。
どれほど大金を騙し取り、スマートに逃げ回ろうとも、
自分はただの飢えた野獣に過ぎなかったのだと。
ウーーー……、ウーーー……。
カイトのサックスの残響に混ざるように、大島の波音の向こうから、遠く、
けれど確実にこちらへ近づいてくるパトカーのサイレンの音が響き始めた。
◇
フロントカウンター。山本の前に、総支配人の佐々木、そして須賀、亮太、チャンが
静かに一列に並んで立っていた。
山本は、もうあの「佐藤」という偽名の紳士の仮面を被ってはいなかった。
彼は、ただのがっくりと肩を落とした一人の初老の男として、
愛おしそうに抱えていた手持ち鞄をカウンターに置いた。
「……参ったな。警察を呼んだのは、君たちだね」
佐々木は深く、そしていたわるような一礼を返した。
「いいえ、山本様。私たちは警察官ではございません。
警察をお呼びしたのは、山本様ご自身でございます」
「私が……?」
「はい。昨夜、お部屋のテラスの灰皿に、吸い殻が異常な数残されておりました。
そして何より、山本様が今朝、お部屋の電話から……無意識に『終わらせたい』と、
フロントを通さずに外線へダイヤルされたその震える指先が、すべてを物語っておりました」
山本は絶句した。宿帳の書き損じ、チャンに預けなかった鞄、亮太が見抜いた
上着の下のウエストポーチ、そして須賀が差し出した『XYZ』のカクテル。
地方の緩いホテルだと思っていたブルートーンは、世界最高峰の観察眼でゲストの「心」に寄り添い、
そのSOSを完璧なリレーで受け止めるプロ集団の巣窟だったのだ。
山本はふっと、憑き物が落ちたような穏やかな笑顔を浮かべると、フロントの電話を指差した。
「最後にお願いがある。……私に、その電話を貸してくれないか」
佐々木が静かに受話器を差し出す。山本は自らの手で警察へとダイヤルし、
静かに自分の居場所を告げた。
通話を終え、受話器を置いた山本は、潤んだ目で佐々木とスタッフ一同を見つめた。
「……私は、人を騙してばかりの最低の人生を送ってきた。
だが、このホテルで過ごした時間だけは、本物だった。料理も、酒も、音楽も、おもてなしも
……すべてが、私の汚れた心を洗ってくれた」
山本は一歩、ロビーの自動ドアへと歩みを進め、そこで振り返った。
「佐々木支配人。……私はこれから、自分の犯した罪をすべて償ってくる。
もし、何年、何十年かかってでも、私が完全に生まれ変わって、
もう一度まっとうな人間として更生したら
……その時は、またここに泊まりに来てもいいかい?」
その言葉に、チャンがたまらず目を潤ませてコクコクと大きく頷く。
佐々木は、ホテルマンとしての最高峰の、そして一番温かい慇懃な礼を執って、
真っ直ぐに男の目を見つめた。
「――もちろんでございます、佐藤様。その時は偽名ではなく、あなた様の本当のお名前で、
最高の『XYZ(これ以上の後はない極上の一杯)』をご用意して、
一同、心よりお待ち申し上げております」
「……ありがとう」
山本は涙を拭うことなく、晴れやかな笑顔で、パトカーの待つホテルの外へと
静かにチェックアウトしていった。
彼の背中を見送るロビーには、潮風とともに、いつまでも温かいコーヒーの香りが漂っていた。
【第18話:長いチェックアウト 完】
第18話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
これまでのブルートーンは、傷ついたゲストが温かい涙を流して心を洗うお話が中心でしたが、
今回は「社会的な大罪を犯して追われる犯罪者の魂」をも、おもてなしの力だけで
浄化させてしまうという、少し格調高い人間ドラマを描いてみました。
楽しんでいただけましたでしょうか?
宿帳の書き損じから始まった佐々木の不信感。
チャンが感じた鞄への執着、亮太が厨房から見抜いた上着の下のウエストポーチ、
そして須賀が静かに差し出したカクテル『XYZ』。
このプロたちの完璧な連携リレーは、書いていて私自身も最高にゾクゾクしました。
翌朝、成人の「ストレス緩和のフルーツヨーグルト」で張り詰めた肉体をほぐされ、
カイトが吹く『野獣死すべし』の重厚で孤独な旋律によって自らの終わりを悟るシーン、
そして重なってくるパトカーのサイレン……。活字でありながら、
まるで一本の映画を見ているような映像美を感じていただけていたら嬉しいです。
そして、今回のタイトルでもある『長いチェックアウト』。
彼が最後に漏らした「罪を償ったら、また泊まりに来ていいか」という言葉。
普通のホテルなら数分で終わる手続きですが、彼にとってはこれから始まる何年、何十年の
贖罪の時間そのものが、このホテルから社会へと戻っていく
「長いチェックアウト」の手続きとなります。
「その時は本当のお名前で、最高のXYZを」と答えた佐々木支配人の言葉は、
彼がいつか本当に更生して戻ってきたときに、この長いチェックアウトが完了し、
新しいチェックインが始まるんだという未来への約束です。
どんな過去を持つ人間であれ、扉を叩く者には最高の光を当てる。
これこそが、ホテル・ブルートーンの真髄なのかもしれません。
また次回の物語でお会いしましょう。
野内




