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『ホテル・ブルートーンへようこそ』  作者: マサ


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16/20

第16話:『白紙のキャンバス ―ひらめきのスープ、ストックの魔法―』

いつも『ホテル・ブルートーン』を応援していただき、本当にありがとうございます。


第16話となる今回のゲストは、締め切りと創作の苦しみに追われる人気漫画家の幸雄先生です。

真っ白な原稿用紙を前に、新しいアイデアが出ずに心がすり減ってしまった経験は、

表現の世界に生きる人間なら誰もが一度は通る道かもしれません。


これまでのブルートーンは、ゲストが自らの人生を振り返り、

温かい「涙」を流して心を洗うエピソードが多かったのですが、

今回は少し趣向を変えてみました。


今回目指したのは、読者の皆さんも一緒に元気になれるような

「圧倒的なエネルギーと笑顔の物語」です。

スランプに悩むクリエイターの心が、ブルートーンのメンバーたちの

プロフェッショナルな哲学によってどう解きほぐされ、そして再び情熱の火を灯していくのか。


夜のBARから翌朝のテラスへと繋がる、5人の見事な「感性のリレー」をどうぞお楽しみください!

大島を包む夕暮れの柔らかな光の中、人気漫画家の幸雄ゆきおは、

疲れ果てた足取りで『ホテル・ブルートーン』のロビーに足を踏み入れた。


週刊連載の締め切り、読者からのプレッシャー、そして何より恐ろしい

「ネタ切れ」という底なしの沼。斬新なストーリーがどうしても思い浮かばず、

彼の頭の中は真っ白な原稿用紙のように硬直していた。


「ようこそ、ホテル・ブルートーンへお越しくださいました」


フロントで総支配人の佐々木が深く丁寧な礼で迎えるが、今の幸雄にはその洗練されたお迎えすら、

どこか遠くの出来事のように上の空だった。頭の中では

「次の展開をどうする……」という焦燥感だけが空回りしている。


「幸雄先生、長旅でお疲れですよね! これ、大島の冷たい麦茶です。どうぞ!」


その時、横から飛び出してきたチャンが、屈屈のない明るい笑顔でグラスを差し出した。

あまりにも真っ直ぐで、飾らない言葉。緊迫した編集部や、

締め切りに追われる自室には絶対にないその太陽のような眩しさに、

幸雄は一瞬、目を丸くして驚いた。

しかし、喉を潤すうちに、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていくのがわかった。


「……はは、ありがとう。実はね、漫画のネームが全然進まなくて、頭がパンクしそうなんだ」

気がつけば幸雄は、初対面のチャンの心地よい空気感に誘われるように、

胸の奥の重い心情をぽつりと吐露していた。


「頭が痛いときは、美味しいものを食べるのが一番です! 厨房のシェフたち、すごいんですよ!」

チャンは胸を張って、幸雄をディナーの席へと案内した。

海の見えるレストラン。

幸雄の前に、美しく透き通った、けれど見たこともない鮮やかな色彩を纏ったスープが運ばれてきた。

何気なくスプーンを口に運んだ幸雄は、その瞬間、息を呑んで固まった。


口いっぱいに広がる、未体験の深いコクと爽やかな地魚の香り。

伝統的なフレンチの技法をベースにしながらも、完全に新しい「驚き」がそこにはあった。

幸雄はたまらず、皿を下げにきた亮太を呼び止めた。


「シェフ、どうすれば、こんな全く新しいストーリーを持ったスープを思いつけるんだい?

僕は新しい展開を思いつこうとすると、どうしても過去の自分の型にハメてしまって、

行き詰まるのに……」


亮太はクールな表情のまま、まっすぐに幸雄を見つめて答えた。


「最初から、完成という『答え』を決め打ちして作っているわけじゃないからです」


「え……?」


「その日仕入れた素材の状態、外の気温、雨の匂い、そして今夜なら、

締め切りに追われて疲れている先生の体調。その瞬間、瞬間で、素材とお客様に向き合う。

そうすれば、出すべき答えは自然と変わっていくんです。

型に縛られているうちは、新しいものは生まれませんよ」


亮太の静かな、けれど確信に満ちた言葉が、幸雄の凝り固まった脳細胞を激しく揺さぶった。

最初から正解のストーリーを決めつけるから動けなくなる。

目の前のキャラクターたちの、その瞬間の声を聞くべきだったのではないか――。

食事の後、幸雄は興奮冷めやらぬまま、思考を整理するために夜のBAR『ブルートーン』へと移動した。

カウンターの中で静かに佇むチーフバーテンダーの須賀に、幸雄は少し申し訳なさそうに切り出した。


「すみません、僕はアルコールが全く飲めないんです。バーなのに、こんな客で申し訳ない」


「ご安心ください、先生」


須賀は表情一つ変えず、即座に手を動かした。流れるような所作で数種類のフレッシュジュースと、

大島のハーブシロップをメジャーカップに注ぎ、流麗なステアで一杯のグラスを作成して提供した。

それは、お酒が入っていないとは思えないほど、深みと艶のある美しい琥珀色の

ノンアルコールカクテルだった。


ひとくち飲み、そのあまりの美味しさと、自分の好みに完璧に調和した味わいに幸雄は再び驚愕した。


「なぜ……なぜ、ノンアルコールと言われて、即座にこんなに完璧な一杯を作れるんですか?

僕なら、急なリクエストをされたらパニックになってしまいます」


須賀は軽く微笑み、磨き上げたグラスをライトにかざしながら静かに答えた。


「即興で作っているように見えるかもしれませんが、実は違います。

私の中には、何十種類、何百種類ものお客様からのリクエストに対する『答え』が、

何十年もの時間をかけてストックされているのです」


「ストック……」


「引き出しの数です。毎日、誰も見ていない時間の中で、あらゆる組み合わせを試し、

自分の中にストックしておく。だからこそ、先生が『アルコールが飲めない』と仰った瞬間に、

その膨大なストックの中から、今夜の先生に最も相応しい一枚のカードを瞬時に

引き出すことができるのです」


亮太の言った「その瞬間、瞬間の答え」。

そして須賀の言う「それを支える圧倒的なストックの量」。


点と点がつながり、幸雄の頭の中で、せき止められていたアイデアの濁流が轟音を立てて

流れ出すのがわかった。


「……そうか。僕に足りなかったのは、目の前のキャラクターと対話する柔軟さと、

それを形にするための圧倒的なネームの引き出しの数だ」


幸雄は鞄から、クシャクシャになった白い原稿用紙を取り出した。

彼の目は、ホテルに来た時とは見違えるほど、ギラギラとした創造の光で満ち溢れていた。


カウンターの向こうで、須賀が静かに微笑みながら、新しいインクの香りが漂いそうな夜の空間へ、

静かにグラスを差し出した。


翌朝。

大島の海は、昨日までの幸雄の暗い心を洗い流すかのように、眩いばかりの青い光を湛えていた。

テラスの特等席に座った幸雄の前に、パティシエの成人が静かに皿を置いた。


「おはようございます、幸雄先生。今朝のデザートです。……

『ショコラ・ブランのカルト・ブランシュ(白紙のキャンバス)』でございます」


皿の上に佇んでいたのは、真っ白な四角い大理石に載せられた、四角く、

どこまでも滑らかなホワイトチョコレートのムースだった。

それは、まさに幸雄が昨日まで睨みつけ、絶望していた「真っ白な原稿用紙」

そのものの姿をしていた。


「真っ白、か……」


幸雄が苦笑しながらスプーンを入れ、ひとくち口に運んだ。

その瞬間、彼の目の色がガラリと変わった。

ひんやりとしたホワイトチョコムースの甘みが溶けた刹那、

中から大島産のパッションフルーツとパパイヤを使った、

目の覚めるような鮮やかな黄色い特製ソースが、温かい熱を持ってじゅわっと溢れ出し、

白い皿を劇的に彩ったのだ。


冷たさと温かさ。圧倒的な「白」から溢れ出す「鮮やかな色彩と情熱」。


驚く幸雄に、成人は静かに一礼して微笑んだ。

「真っ白な状態は、行き詰まりではありません。

これから先生の情熱で、どんな色にでも、どんな物語にでも染められるという

『自由』そのものです」


「自由……。そうか、僕は白紙を怖がっていたんじゃない。

何を描いてもいいという自由の広さに、圧倒されていただけなんだ。

読者がページをめくった瞬間に、脳内に色が溢れ出すような漫画を、もう一度……!」


幸雄の脳裏に、眠っていたキャラクターたちが一斉に躍動し始めた。

その時、テラスの端に立つカイトが、朝日にサックスのベルを向け、おもむろに息を吹き込んだ。


響き渡ったのは、昨夜の気怠いバラードとは打って変わった、

アップテンポで弾むようなスウィングジャズ『オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート』。

爽快な朝の光を浴びながら、カイトの指先が軽快なリズムを刻んでいく。


その音が幸雄の心臓の鼓動ビートとシンクロした瞬間、

彼のペンを握る右手がウズウズと震えだした。

「……音楽だ。漫画のコマ割り、ページのめくり、ストーリーの急展開

……これらはすべて、音楽のリズムと同じなんだ! この軽快なサックスのテンポ感で、

物語を加速させればいいんだ!」


幸雄はたまらず、鞄からスケッチブックを取り出し、猛然とペンを走らせ始めた。

亮太に言われた「瞬間の答え」、須賀に教わった「圧倒的なストック」、

成人が見せた「白紙の自由」、そしてカイトが刻む「物語のリズム」。

すべてが繋がった幸雄のペンは、もう誰にも止められなかった。


カイトは一曲を吹き終えると、言葉は交わさず、サックスを片手で軽く掲げて

「行ってらっしゃい」の合図を送り、静かに去っていった。

「先生ーーっ!! 大変です、先生ーーっ!!」


そこへ、ロビーの奥からトトト、と軽い足音を響かせ、顔を真っ赤にしたチャンが全速力で走ってきた。その手には1枚の紙が握られている。


「先生! 東京の編集長さんから『幸雄、ネームはまだか! 大島まで取りに行くぞ!』って、

ものすごくお怒りのFAXが届いてます! どこに仕事机を作りましょう!? すぐに準備します!!」


「うわああ、現実に戻ったーーっ!!」

幸雄は悲鳴を上げながらも、その顔には少年のような最高の笑顔が浮かんでいた。


「チャンちゃん、頼む! 今すぐインクの出が良いペンと、一番広い机を貸してくれ!

最高の第1話を、今からここにぶち撒けるからさ!」


「はいっ! お任せください!」

チャンの元気いっぱいの返事が、大島の青い空に響き渡った。


数日後、ホテルをチェックアウトする幸雄の鞄には、新連載の完璧なネームが収まっていた。

見送る佐々木支配人と一同に向かって、幸雄は深く頭を下げた。

「ここは、迷える表現者の魂を調律してくれる、最高のホテルだね」


漫画家が去ったロビーには、また新しい物語の風が、心地よく吹き抜けていた。


【第16話:白紙のキャンバス 完】

第16話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


今回はいつもと一味違う、爽快な読後感を楽しんでいただけましたでしょうか?

いつも泣かせてばかりでは芸がないなと思い(笑)、

今回はゲストがインスピレーションを爆発させて、

少年のようにギラギラした笑顔で修羅場へと飛び込んでいく、

そんなパワフルな展開に挑戦してみました。


創作の迷いを断ち切る亮太のスープ、

即興を支える圧倒的な引き出しを教える須賀のカクテル、

白紙の恐怖を「自由」へと変えた成人のスイーツ、

そして物語にリズムを与えたカイトの朝のサックス。


これだけプロの技で感性を極限まで刺激しておきながら、最後はチャンの

「編集長からの大怒りFAXです!」という現実の爆弾で、

クスッと笑える日常のエネルギーに昇華させる。

この落差こそが、私たちの愛するホテル・ブルートーンの温かさだなと、

書きながら改めて実感しました。


涙を流して癒やされる夜もあれば、笑顔になって明日への活力を得る朝もある。

幸雄先生がこの後、どんなに素晴らしい新連載を世に送り出すのか、

作者としても今から楽しみで仕方がありません。


皆さんの明日への活力にもなれば嬉しいです。また次回の物語でお会いしましょう!

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