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『ホテル・ブルートーンへようこそ』  作者: マサ


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15/20

第15話:『ミッシング・ノーツ ―失われた五線譜―』

いつも『ホテル・ブルートーン』を応援していただき、本当にありがとうございます。

第15話となる今回は、これまで作中を華やかに、そして繊細に彩ってきた若き二人の表現者

――パティシエの成人とサックス奏者のカイト、

そして全力のホスピタリティで周囲を照らすチャンにスポットを当てた物語です。

今回は畏れ多くも、私「野内」自身が作中に少しだけお邪魔させていただきました。

指の自由と音楽への情熱を失ってしまった老ピアニストの心を、若きプロフェッショナルたちの

「味覚」と「聴覚」の共鳴がどう溶かしていくのか。

言葉を超えた芸術たちのシンクロニシティと、ホテルに刻まれる新たな勲章のドラマを、

どうぞじっくりとお楽しみください。

野内が久しぶりにホテル・ブルートーンを訪ねてきた。

「お久しぶりです、野内様」

ロビーで出迎えた総支配人の佐々木が、深く慇懃な礼を執る。

その立ち姿には、かつての迷いはなく、堂々たる風格が備わっていた。

「やあ! 立派な総支配人になって活躍しているね」

野内は目を細め、親しみを込めてその肩を叩いた。フロントへ案内されると、

そこではチャンが弾けるような笑顔を浮かべて待っていた。

「彼女がチャンさんでね、噂は聞いているよ」

「ようこそお越しくださいました、野内様!」

笑顔で答える野内の耳に、その瞬間、ロビーの吹き抜けを豊かに震わせるウェルカム・サックスの

音色が滑り込んできた。流麗で、どこか哀愁を帯びた独特のトーン。

「カイトくんだね、あの夜の事はよく覚えているよ。相変わらず赤井君に似たすばらしい音色だ」


野内は目を閉じ、心地よさそうにその旋律に身を委ねた。

演奏を終えたカイトが静かに一礼するのを見届けてから、佐々木がそっと問いかけた。

「野内様、今回は何か御用がございますのでしょうか?」

「実はね、佐々木くん。少しお願いしたいことがあるんだよ」

野内は、レストランから運ばれてきた温かいスープをゆっくりと口に含みながら、静かに話を始めた。

かつてヨーロッパの楽壇で華々しく活躍した高名なピアニストであり、

野内の古い友人でもある美由紀。彼女は現在、病によって指が思うように動かなくなり、

人生そのものだった音楽への情熱を完全に失ってしまっていた。

そんな彼女が最近、野内の別荘で開かれるティーパーティーの席で、

ぽつりと漏らした言葉があったという。

――昔、異国の小さなカフェで一度だけ食べた、名前のわからない、どこか哀しい味がするタルト。

もう一度だけ、あの味が食べたいわ。

彼女の凍りついた心を溶かす手がかりはそれしかないと確信した野内は、

あらゆる名門ホテルのシェフや有名なショップのパティシエを別荘に招き、

そのタルトを作らせた。しかし、どれほど技術的に完璧なものが焼き上がっても、

美由紀は静かに首を横に振るばかりで、「すべて違っている」というのだった。

そこで野内は、技術を超えた確かな感性を持つパティシエを誰か紹介してもらえないかと、

藁をも掴む思いでこのホテル・ブルートーンの佐々木を訪ねてきたのだった。

話の続きは、夜のBAR『ブルートーン』へと引き継がれた。チーフバーテンダーである須賀が

静かに差し出すカクテルを傾けながら、熱心に事情を聴いていた佐々木が、深く頷いて答えた。

「よくわかりました。野内様、続きは明日の朝、お話しいたしましょう」

翌朝、野内は海を見渡すテラスの特等席で、穏やかな波音を聴きながらゆっくりと過ごしていた。

そこへ、白くて清潔なコックコートを纏った成人が、静かな足取りで現れた。

「今朝焼き上げたフルーツタルトと、大島のコーヒーでございます」


成人は恭しく一礼し、皿をテーブルに置いた。野内は何気なくそのタルトを切り分け、

ひとくち口にした。その途端、野内の動きが完全に止まった。

目を見開き、驚愕の表情のまま、すぐ後ろに控えていた

佐々木を振り返る。

タルト生地の絶妙な歯触りと、島の果実が持つ仄かな渋み、そして何より、

言葉では表現できない繊細な余韻がそこにはあった。

佐々木は静かに微笑み、成人の背中に手を添えた。

「野内様、彼でよろしいでしょうか?」

「......素晴らしい。ぜひ、彼にお願いしたい!」

野内は勢いよく立ち上がると、成人の手を両手で強く握りしめた。

その光景を陰から見守っていたチャンが、たまらずといった様子で飛び出してくる。

「あの、野内様! 私もぜひ、お手伝いとして連れていってください!」

「ははは、いいだろう。それならカイトくんにも一緒に来てもらいたいね」

野内は快く応じ、こうして成人とカイト、そしてチャンの三人は、

美由紀の待つ野内の別荘へと向かうこととなった。

別荘に到着し、野内から改めて美由紀の過去や人柄についての話を聴いた三人は、

翌日に迫ったティーパーティーに向けてさっそく厨房で準備を始めた。

しかし、いざ試作に入ると、成人の表情は険しくなった。「哀しい味」という抽象的な概念を

どう表現すべきか、タルト生地の配合を変えても納得がいかない。

成人が行き詰まったタルト生地をカウンターに置いた時、その横でじっと様子を見ていたカイトが、

おもむろにサックスを唇に当てた。

ぽつりと吹き鳴らされたのは、気怠く、少し切ない即興のメロディだった。

その音色が厨房の空気を満たした瞬間、成人の澱んでいた手が微かに動いた。

「カイト......その音、もう少しだけ『甘く』できるか?」


カイトは言葉を返さず、ただ音の揺らぎを変えてみせる。そのかすかなビブラートに合わせるように、

成人がデザートソースの酸味を細かく微調整していく。

成人の焼き上げるオーブンの熱量と生地の焦げ具合を見て、今度はカイトが音色に艶を足した。

言葉のない、味覚と聴覚の張り詰めたセッションが続く。

そこへ、野内から美由紀の歴史を熱心に聴き込んできたチャンが走り込んできた。

「成人さん、カイトさん! 美由紀様が若き日にヨーロッパで一番大切に弾いていたのは、

古いショパンの曲だそうです!」

チャンのもたらした決定的なピースを受け取り、カイトが静かに息を吸い込んだ。

誰もが知るショパンのノクターン。しかしカイトはそれを、あえて美しく整った音では吹かなかった。

指の自由を失ったピアニストの心の痛みに寄り添うように、かすれ、

掠れるような悲痛な音色で、魂を削るように吹き鳴らしたのだ。

その剥き出しの哀愁の旋律を厨房の真ん中で聴いた瞬間、成人のインスピレーションが完全に

爆発した。これだ、と確信した成人の包丁が、迷いなく動き始めた。

当日、友人の老ピアニスト・美由紀が別荘へとやってきた。野内が温かく彼女を迎え入れる。

「美由紀、今回はホテル・ブルートーンから若いパティシエを迎えたんだ。ぜひ楽しんでおくれ」

「まあ、ありがとう、野内」

彼女は穏やかに微笑んだものの、その内心には「きっと今回も、あのタルトには出会えないわね......」

という、諦めにも似た寂しさが張り付いていた。

紅茶をサービスするチャンの所作は、驚くほど細やかだった。

手が不自由でカップを持つ手が微かに震える美由紀の動きを察し、

決して恥じ入らせることのない自然な距離感で、そっとサポートを繰り返す。

そして、ついに成人の手による一皿が運ばれてきた。異国の古いアトリエを思わせる、

独特の焼き色を帯びたタルト。

美由紀はフォークを動かし、小さく切り分けたそれを口に運んだ。

一瞬の静寂。次の瞬間、彼女の美しい瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。


「......そう、この味よ。この、胸が締め付けられるようなほろ苦さ......。

私、思い出したわ。あの頃の、音楽に全てを捧げていた私自身を」

それは、ただの甘味ではなく、カイトの掠れた音色から成人が写し取った、

美しくも切ない「人生の苦悩」そのものの味だった。

美由紀の震える声と涙を目の当たりにしたチャンは、自身もボロボロと涙を流しながら、

厨房の成人とカイトへ「伝わりました! 届きました!」と声を詰まらせて伝えた。

別荘のロビーには、彼女のこれまでの波乱に満ちた偉大な人生を讃えるように、

カイトの吹くサックスの音が、どこまでも優しく、どこまでも深く響き渡っていた。

後日、野内からホテル・ブルートーンの佐々木総支配人のもとへ、信じられないような

お礼の手紙と贈り物が届いた。それは、美由紀がすぐにアメリカの友人に連絡して

取り寄せてくれた、ニューオーリンズにある本場の一流ジャズクラブの招待状。

そしてもう一つは、ヨーロッパの最高峰と謳われる歴史あるパティスリーショップへの

特別研修の招待状であった。

手紙には、野内の筆でこう添えられていた。

『素晴らしいおもてなしの御礼です。カイトくんには短期間だが本場の空気を吸う武者修行として、

そして成人とチャンさんには、本場のショップでの勉強に役立ててほしい』

手紙を読み終えた佐々木は、深く息を吐き、窓の外の青い海を見つめた。

「休暇が取れたら、ぜひ使わせていただきます、と野内様にお伝えしてくれ」

隣にいた須賀にそう告げる佐々木の顔には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。

それは、ホテル・ブルートーンの歴史に、また一つ、誰も真似のできない新しい

「勲章」が増えた瞬間であった。


第15話:『ミッシング・ノーツ ―失われた五線譜―』完

第15話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

今回は、成人の作る「味」と、カイトが奏でる「音」という、言葉を持たない二人の芸術家が、

お互いの感性をシンクロさせて一つの奇跡を起こす場面を描きました。

カイトがあえて綺麗な音を捨てて吹いた「掠れたショパン」が、

成人のタルトに完璧なほろ苦さをもたらす――この表現者同士の無言のセッションは、

書いていて非常に胸が熱くなるシーンでした。

そして、そんな彼らの挑戦のきっかけを作り、最後は手の不自由なゲストを完璧な距離感で

支えたチャンのホスピタリティ。彼女の涙があったからこそ、この物語は冷たい芸術論ではなく、

温かい血の通ったおもてなしの物語になりました。彼らが手にしたニューオーリンズと

ヨーロッパへの切符が、今後ホテル・ブルートーンにどんな新しい風を連れてきてくれるのか、

ぜひ楽しみにしていただければと思います。また次の物語でお会いしましょう。

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