第14話:『始まりのコンソメ ―背中が語る味―』
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第14話となる今回は、これまで作中で鉄壁の料理長として厨房を支えてきた男・亮太の
「原点」に迫る物語です。今でこそクールに皿を仕上げる亮太ですが、
かつては自分の腕を過信し、「強火の華やかさ」や「完璧な数値」ばかりを追い求める
尖った見習いコックでした。
そんな彼の「エゴ」を打ち砕いた、当時の支配人・須賀の厳しい一言。
そして、絶体絶命の嵐の夜に、顔を真っ黒にして炭を運んできたチャンの純粋な情熱。
じっくりと時間をかけて熱が通っていくコンソメスープのような、
大人の成長の残響をどうぞお楽しみください。
静まり返った夜のBAR『ブルートーン』。
カウンターの中でボトルを磨く須賀のもとへ、チャンが「須賀さんのカクテル、飲みたいです!」
とトトト、と軽い足音とともにやってくる、そんな夜の少し前のこと。
厨房には、見習いコックとしてホテルに勤め始め、自分の腕に自信を持ち始めた亮太がいた。
少し包丁が使えるようになり、少しソースが作れるようになった。
若き亮太は「俺の技術はもう通用する」と過信し始めていたのだ。
だが、当時の支配人であった須賀は、亮太の作ったまかないのスープを一言
「美味しくない」と切り捨てた。
「技術も構成も完璧なはずだ。何が不満なんだ」
納得のいかない亮太は、夜の厨房に一人籠り、完璧なアルコール度数の計算のように、
ミリグラム単位で塩やスパイスを計量してコンソメスープを作り直していた。
そこへ、足音もなく須賀が現れた。
須賀は亮太の手元を一瞥し、静かに告げた。
「亮太、お前は皿の向こうにいる人間を見ていない。ただ自分の腕に自信を持ち始め、
技術を誇示したいだけだ。そんなものは料理ではない」
亮太はかつて須賀から言われたその言葉が、悔しくてたまらなかった。
だが、その後に須賀が自ら一振りの塩を加え、スープの味を劇的に変えてみせたあの「背中」が、
亮太の脳裏から離れなかった。
◇
ーーそして時間は、あの夜へと巻き戻る。
静まり返った夜のBAR『ブルートーン』。
「須賀さんのカクテル、飲みたいです!」
トトト、と軽い足音とともに、様子を見に来たチャンは嬉しそうにグラスを受け取った。
しかし、チャンは一口飲むと顔をしかめた。
「……私には、お酒が強すぎます」
「技術も構成も完璧なはずだが……」と完璧なアルコール度数の計算に首を傾げる須賀。
その背後から、エプロン姿の亮太の静かな声が響いた。
「須賀さん。あんた、そのカクテルを『誰に』飲ませたいんだい?」
それは、かつて自分が須賀から言われた言葉の、亮太なりの恩返しだった。
「自分の腕に自信を持ち始めた見習い」だった少年は、須賀の背中を見て、
いつしか「誰かのために作る」という本当のプロの領域に足を踏み入れていたのだ。
◇
そんなある夏の日、大島を激しいゲリラ豪雨が襲う。
不運は重なり、落雷によってホテルのガス供給システムが完全にストップしてしまったのだ。
夕食の営業まであと3時間。復旧の見込みは立たない。
「嘘だろ……。ガスが使えなきゃ、メインの肉料理が作れない!」
厨房でパニックになる亮太。強火で一気に焼き上げる彼のメニューは、すべてガス火が前提だった。
諦めかける亮太の前に、当時は支配人だった須賀が、驚くほど冷静な足取りで現れた。
「亮太、諦めるのはまだ早い。厨房に眠っている古い電気コンロと、
バーベキュー用の小さな炭焼き台をすべて集めろ」
「須賀さん、正気ですか!? あんな微々たる火力じゃ、肉の表面を一瞬で焼き固めることなんて
できません。肉汁が逃げて、ただのパサパサの肉になっちまう!」
須賀は亮太の目を真っ直ぐに見つめ、静かに、けれど重みのある声で告げた。
「火力が足りないのなら、お前の『手間』と『時間』で補えばいい。
強火で誤魔化せないのなら、弱火と対話しろ。それが職人というものだ」
「皿の向こうの人間を見ろ」ーーかつて言われた言葉が、亮太の脳裏をよぎる。
腹を括った亮太は、錆びついた電気コンロに火を入れた。
かすかな熱。肉を乗せても、心地よい不協和音(ジューという音)すら響かない。
だが、亮太は肉の断面を凝視し、数秒ごとに肉の向きを変え、指先で弾力を確かめ続けた。
微弱な熱を、肉の芯まで均等に、じっくりと、慈しむように染み込ませていく。
額から滴る汗がコンロの縁で小さく弾ける。気がつけば、外の豪雨の音すら消え、
亮太の世界は「肉と、微かな熱」だけになっていた。
その時、厨房の勝手口から、びしょ濡れになったチャンが飛び込んできた。
「亮太さん! これ、ロビーの暖炉から集めてきた炭です! 使ってください!」
まだ入社したばかりでドジばかりだったチャンが、顔を真っ黑にしながら、
バケツ一杯の炭を抱えて笑っていた。
「お客様、雨で不安そうだから……美味しいご飯、食べさせてあげたいです!」
チャンの純粋な目が、亮太の焦る心にスッと冷水を注いだ。
(そうだ。俺は誰のために、何のために格闘してるんだ。自分の腕を証明するためじゃない、
あのお客様たちのためにー)
亮太はチャンの持ってきた炭を熾し、電気コンロでじっくり温めた肉を、
最後に炭の遠火でふんわりと包み込んだ。
ーー営業開始。
メインディッシュを口にした老夫婦が、驚きで目を見開いた。
「なんて柔らかい……。お肉の旨味が、噛むたびにじゅわっと溢れてくるわ」
皿が厨房に戻ってきた時、そこには一滴のソースすら残っていなかった。
亮太は、自分の手が微かに震えているのに気づいた。
強火でなくても、最高の料理は作れる。いや、制限があるからこそ、素材の声を聴き、
手間暇をかけるという「料理の魂」が宿るのだと、彼は生まれて初めて知った。
片付けを終えた夜、厨房の勝手口から外へ出ると、雨上がりの夜空にカイトのサックスが
遠くから響いていた。
それは、あえてテンポを落とした、深く、静かな『嘘は罪(It's a Sin to Tell a Lie)』のメロディ。
かつて自分に嘘をつき、技術に溺れていた少年の終わりと、一人の本物の料理人の誕生を、
その旋律は静かに祝福していた。
その頃、厨房の洗い場を手伝っていた佐々木と成人が、遠くからそんな亮太の様子を
温かく見守っていた。
そこへ、営業を終えたチャンが、片付けのために皿を拭きにやってくる。
「佐々木さん、成人さん、聞いてください!」
チャンは嬉しそうに、目を輝かせながら今日のエピソードを身振り手振りで話し出した。
亮太がどれほど必死に肉と向き合っていたか、お客様がどれほど喜んでくれたか。
佐々木と成人は、チャンの弾むような声を、我がことのように嬉しそうに微笑みながら聞いていた。
厨房の空気は、静かな達成感で満たされていた。
◇
ーー話は、再びあのBARの夜に戻る。
「須賀さん。あんた、そのカクテルを『誰に』飲ませたいんだい?」
問いかけられた須賀は、かつて自分が亮太に投げかけ、そしてあの嵐の夜に亮太が掴み取った、
大切なエピソードのすべてを思い出していた。
完璧な数値に囚われ、目の前のチャンを見失いかけていた自分に、
かつての教え子が最高の「答え」を返してくれたのだ。
須賀は愛おしそうにグラスを見つめ、軽く微笑んで亮太に話した。
「……ありがとう。大切なことを思い出したよ。これで、このカクテルの名前は決まった」
その言葉を聞くと、亮太はそれ以上何も言わず、厨房へと戻るために歩き出した。
立ち止まり、振り返らずに片手を少しだけ挙げて応える。
その頼もしい後ろ姿には、もう自分の「強火のこだわり」に迷っていた頃の影は、
微塵も残っていなかった。
【第14話:始まりのコンソメ 完】
第14話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回描きたかったのは、「プロフェッショナルが互いを育て合う円環」です。
過去の厨房で、数値ばかりを気にする亮太に須賀が教えた「皿の向こうの人間を見ろ」という教え。
それが時を経て、今度はBARのカウンターで数値に囚われていた須賀に、
亮太の口から「このカクテルを誰に飲ませたいんだい?」という言葉になって還っていく。
このセリフの呼応が形になった瞬間、作者としても震えるものがありました。
不自由さやトラブル(制約)があるからこそ、人は初めて「素材の声」に耳を傾け、
手間暇という本当の技術に目覚める。亮太が嵐の夜に掴み取った「弱火の矜持」は、
そのまま今の彼の料理の深みとなっています。
そして、厨房の洗い場でチャンが嬉しそうに語る今日のエピソードを、
我がことのように微笑みながら聞いている佐々木支配人とパティシエの成人。
この二人の眼差しが加わったことで、ホテル・ブルートーンがただの職場ではなく、
一つの「家族」であり「チーム」であることが表現できたと感じています。
プロの背中は、いつだって雄弁です。彼らの航路を、
これからも一緒に見守っていただければ嬉しいです。
野内




