静かな夜
その日の夜。
ロマーナさんのお屋敷での濃密な時間から帰宅した私は、仮住まいのアパートの一室で、一人静かにテーブルに向かっていた。
決して広くはない部屋だが、私とカシウスの二人が一時的に生活するには十分な空間が確保されている。それに、この部屋には私の趣味と実益を兼ねた「古代ドワーフの復元品」である家電っぽい魔道具がいくつも配置されており、現代日本のマンションに勝るとも劣らない快適な環境が整っていた。壁際には魔石の力を利用して室温を一定に保つ空調機が静かな羽音を立てており、天井からは魔力で発光するシーリングライトに似た照明が、柔らかく部屋全体を照らし出している。
自動掃除機のルンバスが、壁を普通に登って、天井まで掃除しているのは、シュールな光景だが。
それにしても、今日も今日とて、外からは穏やかな夜の気配が漂ってきていた。
窓の外には、雲一つない夜空にぽっかりと満月(四角)が浮かんでいる。銀色の月光が建物の屋根を照らし、王都を神秘的な光で包み込んでいた。遠くからは、屋台の食べ物が焼けるような食欲をそそる良い匂いと、居酒屋で管を巻く人々の活気あるざわめきが、微かに風に乗って運ばれてくる。これは炭火で焼いたトウモロコシの匂いだ。
目を瞑り、そっと、前世の花火大会の記憶を思い出す。
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列に並んでいる間、炭火の格子を抜けて届く風に、思わず息が止まる。
炭火が爆ぜる音と共に鼻腔を突き抜けたのは焦がし醤油の圧倒的な芳ばしさ。
追うように届くのは、じっくり熱を帯びたトウモロコシ特有の、濃厚で濃密な甘い蒸気の香り。タレの塩気と炭の薫香、そしてコーンの糖分が網の上で焦げ付く「焦げの甘み」が絶妙なグラデーションをなして漂ってくる。まだ一口も食べていないのに、胃が強烈に刺激されてお腹が鳴りそうになる。
ただ甘いだけじゃない。職人が炭の力で芯までじっくり熱を入れ、最後にサッと刷毛で塗った醤油が弾けた、あの香ばしくも深みのある煙の帯。屋台の喧騒を一瞬で置き去りにするほど、鼻先を満たす香りの密度の高さに買うまでが待ち遠しい。
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前世に思い耽けるのも程々に。
このアパートがある立地は、王都の中でも中流層向けに整備された居住エリアだ。そのため、貧民街のような荒んだ空気や危険な匂いは一切なく、治安は非常に良く、夜は驚くほど静かだった。時折、規則正しいリズムで聞こえてくるのは、鎧を着けた馬に跨る衛兵たちの足音だ。彼らは数人で街道をゆっくりと談笑しながら巡回しており、その馬の蹄が石畳を叩く「カポッ、カポッ」という小気味良い音が、むしろ住人たちに安心感を与えている。
その馬の足音が遠ざかると、あとは遠くの街の喧騒と、時折吹き込む風の音ぐらいしか聞こえなくなる。
開け放たれた窓から涼しい夜風が入り込み、白いレースのカーテンがふわりふわりと心地よく揺れる。その平和で美しい景色を横目で眺めつつ、私は小さく息を吐いて気を取り直し、目の前のテーブルへと向き直った。
テーブルの上に麻紙を何枚も広げ、私は手に持った万年筆で、カリカリと音を立てながら様々なアイデアを書き留めていた。
現在、店舗は大改修の真っ只中。お店がリニューアルオープンする日に向けて、内装や外観が新しくなるだけでなく、そこに並べる新しい商品群のラインナップを充実させるべく、私は頭を悩ませていた。
しかし、どうにも思考が偏ってしまう。
新しい商品アイディアを描こうと筆を走らせても、気がつけば麻紙の上には丸っこいフォルムの白黒の鳥――ペンギンのイラストばかりが増殖していくのだ。
「うーん……これじゃあ、お店の名前を『ペンギン店』に変えなきゃいけない未来しか見えないわ……」
私は自分が描いた大量のペンギンのスケッチを見て、思わず苦笑いを浮かべた。
それほどまでに、ペンギンの人気は凄まじかった。私の考案したこのキャラクターは、老若男女問わず熱狂的な支持を集めており、ペンギン柄であれば何でも売れるという、少々異常な事態に陥っていたのである。
お店を開いた当初の私は、右も左もわからないまま、簡単なハンドメイドの小物を作って販売していた。そのデザインのモチーフとして選んだのが、私の前世の記憶にある「地球の動物たち」を、ちっちゃく、可愛くデフォルメしたものだった。
最初は、前世で人気だった小動物なら売れるだろうと安易に考え、ハムスターやリスなどのネズミ系の動物などもデザインした。しかし、これは見事に空振りだった。
この世界、特に衛生環境がまだ発展途上だった名残が強く、信仰関係の強さも関係して、ネズミ系の生物は「病気を媒介する不吉で不衛生な生き物」としてのイメージが強すぎたのだ。
どんなにデフォルメして頬袋を膨らませた愛らしいハムスターらを描いても、客は顔をしかめて去っていく。
次に試したのは、王道の猫や犬だった。しかし、これも私が期待したほどの爆発的な人気は出なかった。確かに可愛いと言って買ってくれる客はいたものの、この世界にも犬や猫は普通に存在しており、見慣れすぎているせいで「わざわざお金を出してまで、その柄の小物を持ち歩きたい」という特別感、プレミアム感に欠けていたのである。あまりペットという概念が希薄なのもある。
そうこうした失敗と試行錯誤を繰り返す中で、偶然生まれたのがあのペンギンだった。
ペンギンの成功で私が学んだのは、「この世界の人々にとって見慣れていない、遠い異国の、あるいは架空の生物のほうが、好奇心を刺激してウケが良いのではないか」という仮説だった。
実際、海洋系の動物は総じてウケが良い傾向にあった。しかし、同時に販売したクジラやイルカは、この世界の港町に行けばある程度見られる大型魚と似通っていたためか、ペンギンほどの熱狂は生まず、結局すべての人気をペンギンが押し潰して独り占めする結果となってしまったのだ。
「見慣れていない生物……そして、魚っぽくないもの……」
私はペンギンの横に、新たなデフォルメキャラクターを描き始めた。
見慣れてウケが悪かった魚系は避ける。ならば、もっと奇抜なフォルムを持つ海洋生物はどうだろうか。
私が選んだのは、「イカ」と「タコ」だった。
前世では、イカやタコは美味しい海鮮の代表格であり、時にキャラクター化されて親しまれていたが、リアルな造形は少々グロテスクでもある。この世界でも、海辺のどっかの地域では食べられているかもしれないが、王都の内陸部に住む人々にとっては、あまり馴染みのない奇妙な生き物だろう。または、私にとっても喋るイカやタコがいたら、露天店主猫のように、奇妙に格上げされる。
これをいかに可愛くデフォルメするかが腕の見せ所だ。私はイカの頭(胴体)を思いきり丸くふっくらとさせ、足はフリルのついたリボンのように短く可愛らしくアレンジした。タコも同様に、頭に小さな王冠を乗せ、足はくるんとカールさせて、まるで踊っているかのようなポップなポーズをとらせた。目もウルウルさせてっと。




