未来の形
私の脳裏に、数週間前の、仮住まいのアパートでの少し恥ずかしい、けれど温かい記憶が鮮明に蘇った。
その日の夜、私はロマーナ氏の商会から届いたばかりの、新作のヘアケアセットをお風呂場に、ああでもない、こうでもないと、目を瞑ったり、どうやったら取りやすいか試行錯誤しながら並べていた。
高級感のある青い半透明のガラスっぽい容器には、それぞれ美しい文字で番号と用途が刻まれている。私がそれらを並べて、うっとりと眺めていると、家具の製作が一段落したカシウスが来た。
「ルキア様、なぜ同じような容器が4つも並んでいるのですか?」
振り返ると、カシウスが不思議そうな顔をして入り口に立っていた。
「ああ! カシウス。丁度良かったわ。今日、ロマーナさんのところから新しいものを買ってきたばかりだから、あなたにも説明しておきたかったの」
私は、並んだ4つの瓶を誇らしげに指し示した。
「これはね、全部髪の美容剤なの。左から順番に、シャンプー、コンディショナー、トリートメント、アウトバスよ。シャンプーで汚れを落として、コンディショナーで髪の表面を整えて、トリートメントで髪の内部に栄養をしっかりと補給して、アウトバスで仕上げのコーティングをするの」
私が一気に説明すると、カシウスは少し困惑したように眉を寄せた。
「その……ルキア様。私は錬金術やそういった美容の知識には疎くて……。髪を洗うためだけに、これほど多くの工程が必要なのですか?」
彼の戸惑う様子がおかしくて、私はふふふと笑い声を漏らした。
「難しく考えなくていいのよ。左から順に使っていくだけ。でもね、普通の人は2番目のコンディショナーまでで十分だと言われているわ。ただ、私は美容オタクで、こだわりが強いから、フルセットで揃えたの。もちろん、カシウスも一緒に使っていいのよ。あなたのその綺麗な髪も、もっと輝くはずだから。あ、でもその場合、最後のアウトバスだけは洗い流さずに、タオルで拭いた後の濡れた髪に馴染ませるのよ。間違えないでね?」
私が一生懸命に使い方のコツを説明していると、カシウスは真剣な眼差しで、まるで戦場に赴いているかのように、顎に手を当て、軽く頷きながら、私の言葉を真剣に聞き入っていた。そして、ふと私の髪へと視線を移し、静かに、そして真っ直ぐな声で言ったのだ。
「……だから、ルキア様の髪は、それほどまでに美しく、光を湛えているように綺麗なのだと、合点がいきました。本当に、見惚れてしまうほどです。ルキア様が美容に熱心になるのも理解できます。自身を磨くというのは、気持ちよく、素晴らしい事ですものね」
一切の混じり気もない、心からの称賛。カシウスのそのストレートな言葉は、不意打ちとなって私の胸の奥を激しく打った。
「えっ……あ、そう……ね」
予想外の褒め言葉に、私の思考は完全に停止した。顔に一気に熱が集まるのがわかる。鏡を見るまでもなく、自分が林檎のように赤くなっているのが想像できた。私は恥ずかしさのあまり言葉を濁し、逃げるようにお風呂場から飛び出してしまったのだ。
転生直後は、美容とは無縁な身体だった。でも、今の私は違うのだ。
カシウスは私の見た目など気にせず、また没落寸前だったのに、最後までほぼ無給で忠誠を突き通してくれていた。そんなカシウスを思うと……。
そこまで思い出した瞬間、私は現在に戻り、無意識のうちに両頬を両手で強く押さえていた。手のひらから伝わる頬の熱さは、回想の中のそれと全く同じだった。
「……はっ!」
慌てて目を開けると、テーブルの向こう側で、お茶を飲んでいたはずのロマーナさんが、カップを持ったまま動きを止め、目をパチパチさせて私をじっと見つめていた。その瞳の奥には、面白くてたまらないものを見つけたような、悪戯っぽい光がチカチカと瞬いている。
「あ、あの! な、何でもないです! 今のは、その、ちょっと暑くて!」
私は動揺のあまり意味不明な取り繕いを叫び、残っていたお茶を、ガバッ! グビッ! と一気に飲み干した。エルフ大陸の最高級茶葉の味わいも、今は全く感じられなかった。
私の慌てふためく様子を見て、ロマーナ氏は耐えきれないというように「ふっ」と優雅に吹き出し、肩を揺らして笑った。そして、事もなげに、しかし決定的な一言を投下した。
「なるほどね。よくわかったわ」
「な、なにがです!?」
「それなら、挙式のプランコーディネートは私に任せてちょうだい。このルーメン国で一番華やかで、最先端の式にしてあげるから」
「け、け、結婚!?」
私は飲み込んだお茶を吹き出しそうになりながら、座ったまま大きくのけぞった。顔の熱は限界を突破し、頭から湯気が出そうだった。いや出ている。
テーブルに両手をつき、思わず立ち上がった。
「な、ななな、何を言っているんですか!? わ、私とカシウスはあくまで主従関係で、その、彼にとって私は雇い主であり、守るべき対象であって……つまり、そういう対象として見られているわけではないのです……! それに……!」
必死に否定の言葉を並べ立てる私を、ロマーナ氏は静かに、けれど圧倒的な存在感で制した。
彼女の目は先ほどの悪戯っぽい色を消し、世界を動かす大商人としての、力強く、揺るぎない光を放っていた。
「ルキアさん、まあ落ち着いて。座って」
彼女の声は低く、しかし庭園の隅々にまで響くようにクリアだった。おとなしく座る私。
「あなたはこのルーメン国で、誰よりも新しい価値観を生み出し、最も最先端を行く貴族よ。あなたが考案した聖鳥のペンギンや、新しい裁縫の、ハンドメイドという商売の形は、確実にこの国の未来を変えていくわ」
ロマーナ氏は、テーブル越しに私を真っ直ぐに見据えた。
「主従関係や身分差。そんな古い時代のしがらみなんて、これから訪れる新しい世界の前では、全くの無意味よ。あなたが彼を必要とし、彼があなたを想うなら、それが全て。誰にも遠慮することなんてないわ」
その言葉は、私の胸の奥底に絡みついていた見えない鎖を、いともたやすく断ち切るほどの力を持っていた。前世の常識や、この世界の貴族社会の建前。そういったものに無意識のうちに縛られ、カシウスへの感情に蓋をしようとしていた私の臆病さを、彼女の壮大なスケールの世界観が包み込み、肯定してくれたのだ。
主従関係なんて、無意味。
その響きが、私の中で何度もこだました。
私は熱を持った両手の拳力を弱め、ロマーナ氏の瞳を見つめ返した。
まだ工事中の自分の新たな城の完成が、そしてその先にあるカシウスとの未来が、今までとは全く違う鮮やかな色を帯びて、私の目の前に広がり始めているような気がした。




