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佐竹義重物語『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』戦国異聞伝  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第8話 生きていた男、死んだ名

町外れの茶屋は、賑やかさから半歩だけ外れた場所にあった。


市の中心ほど人は多くない。だが、まるきり寂れているわけでもない。街道へ出る者、川沿いから戻る者、荷を引く者がひと息つくには都合がよく、だからこそ顔ぶれが流れやすい。誰がいても、少しのあいだなら不自然ではない場所だった。


それが、かえって厄介だった。


茶屋の軒先には薄汚れた暖簾がかかり、土間には長年染みついた煙と茶の匂いが沈んでいる。煎じた茶の青い香りの奥に、炭のくすぶった気配と、人の衣に染みた汗の匂いが混じる。風は川の方から来て、湿り気を少しだけ運んでいた。


その湿り気の向こうに、あの男がいた。


笠を脇へ置き、背を少し丸めて茶をすすっている。派手でもなく、目立ちもしない。町外れの茶屋にひとり座る旅人のように見えなくもない。だが義重の目には、その肩の落とし方と首の傾き方が妙に引っかかった。


似ている。


失踪した、あの男に。


義重は荷車の陰に身を寄せたまま、視線だけを茶屋へ向ける。後ろでは近習の少年たちが息を殺していた。二人とも顔色がよくない。無理もない。町外れの茶屋で、行方知れずの者に似た男を見つけたなど、ただの城下見物で済む話ではない。


「どうなさいます」


片方の少年が、口の中だけで言うように囁いた。


「まだ動かぬ」


義重も声を落として答える。


「だが、あの人……」


「見ろ」


少年は押し黙った。


男は茶を飲んでいる。だが、飲み方に落ち着きがない。口元へ椀を運ぶたびに、一拍遅れて目が外を追う。通りを横切る影、暖簾の揺れ、土間へ差す光の変化、そういうものにいちいち肩が強張る。


ただ休んでいる者の顔ではない。


追われているか、待っているか。

少なくとも、気が休まっている顔ではなかった。


義重はそれを見ていた。


茶屋の出入りも見る。表から入る者。脇を通る荷車。向かいの壁際で立ち話をする男。茶屋そのものではなく、そこへ視線を投げては逸らす者が何人かいる。だが、それがただの通行人なのか、見張りなのかはまだ分からない。


「おまえ」


義重は向かって右にいた少年へ、小さく言った。


「は、はい」


「城へ戻れ」


「えっ」


「老臣に急ぎ知らせろ。町外れの茶屋、川へ抜ける手前、失踪者に似た男あり、とだけ言え。大声を出すな。走れ」


少年は一瞬ためらったが、すぐに頷いた。


「承知しました」


「誰に聞かれても、買い物に戻る顔をしろ」


「か、買い物」


「できるか」


「や、やります」


「やれ」


少年はこくりと喉を鳴らし、それから不自然にならぬよう必死に肩の力を抜いて、その場を離れていった。途中で一度だけ振り返りそうになったが、義重が軽く睨むと慌てて前を向いた。


残ったもう一人の少年が、心細げに囁く。


「二人でございますか」


「そうだ」


「老臣どのが来るまで待つのでは」


「待っている間に動かれる」


「ですが、もし別人なら」


「その時は別人だ」


「若……いや、あなたさまのそういう割り切りは、たまにこちらの寿命を縮めます」


義重は答えなかった。


茶屋の中の男が、ようやく椀を置いた。


義重の背筋が自然に伸びる。


男は立ち上がるが、すぐに外へ出ない。店の者へ何か短く言い、銭を置き、それから笠を手に取る。その動きのすべてに迷いがある。決めていた通りに動いているのではなく、何度も「今でよいのか」と確かめているようなぎこちなさだった。


「裏へ回る」


義重が言う。


「今ですか」


「今だ」


「今しかございませぬね……!」


少年は半ば泣きそうな顔でついてきた。


二人は茶屋の正面を避け、横手の板塀沿いへ回る。そこには捨てられた縄、伏せられた空桶、片輪の荷車があり、人が立ち止まっても正面からは見えにくい。川から来る湿った風が、土と藁の匂いを運んでいる。


茶屋の裏手はさらに人気が薄い。表の賑わいが嘘のように遠くなり、聞こえるのは時折の物音と、どこかで鳴く鳥の声くらいだった。


やがて、暖簾の揺れる気配がして、男が裏手へ出てきた。


周囲を見ている。


やはり、ただの休憩ではなかった。誰かを警戒している。あるいは、誰かがいないことを確かめている。


義重は板塀の陰から半歩だけ出た。


「待て」


男がびくりと肩を跳ねさせた。


振り返った顔は、やつれていた。頬はこけ、目の下は暗い。髭も整っておらず、衣は土埃を吸っている。だが、その顔立ちと目元には見覚えがあった。


男は義重を見た。だが最初は若君だと気づかなかったらしい。ただ目立たぬ小袖の子どもが、裏手で自分に声をかけてきたとしか思っていない顔だった。


「何だ、坊主。どけ」


声が掠れている。


義重は動かない。


「おまえ」


男の目が細くなる。


「誰だ」


「その前に、おまえの名を言おうか」


男の顔が強張る。


義重は静かに、失踪した者の名を口にした。


その瞬間だった。


男の顔色が、目に見えて変わった。血の気が引き、唇がひきつり、逃げ出そうとする足と、その場に縫い止められる意識とが一度にぶつかったような顔になった。


やはり、こいつだ。


義重は胸の奥がひとつだけ強く打つのを感じた。


生きていた。


まずその事実が来た。


死んだと思われていた者が、ここにいる。失踪ではなく、どこかで生き延びていた。あの鞘も、この男も、やはり同じ線上にあった。


だがその安堵は、長くは続かなかった。


男は喜んでいない。見つかったことに安堵する顔ではない。むしろ追い詰められた獣のように、どこへ逃げるかばかり考えている。


「……誰に聞いた」


男がようやく喉を鳴らすように言う。


「いろいろ聞いた」


「城から来たのか」


「そうだ」


男が一歩下がる。逃げたいのだ。城から来たと知って、なお逃げたい。


義重はそれを見て、はっきりと思った。


この男は、敵に追われる顔ではない。

味方の名を怖がっている。


「待て」


「寄るな」


男が小声で唸るように言った。


「戻れぬ」


「戻れぬのではない」


義重はまっすぐ言った。


「戻れば殺されると思っている顔だ」


男の肩がびくりと動く。


横にいた近習の少年が息を呑んだ。義重はそのまま男を見据える。


「おまえは敵に脅されているのか」


男は答えない。


「それとも、味方に殺されかけたのか」


男の膝が、目に見えて震えた。


そこまで言われて、男の顔から作ったものが崩れた。強がりも、逃げる算段も、何もかもが一瞬ほどける。浮かび上がったのは、怯えきった人間の顔だった。


「……違う」


「何がだ」


「違う、違う……俺は、俺は……」


「何が違う」


「戻れば死ぬ」


今度ははっきり聞こえた。


男は片手で顔を押さえ、絞り出すように言う。


「逃げても死ぬ。戻っても死ぬ。どこへ行っても同じだ」


義重の胸の内で、安堵が不気味さへ変わる。


生きていた。

だが、それは救いではなかった。


この男は城へ戻れば助かると思っていない。敵地から生還した者の顔ではない。味方の陣へ帰れば息をつけるはずの者の顔ではなく、むしろ「味方の側へ行くこと」そのものを恐れている。


「誰に黙れと言われた」


義重は声を落として問う。


男は目を見開いた。


「誰だ」


「……言えぬ」


「敵か」


男は首を振る。


それは小さい、ほとんど見えぬほどの動きだった。だが義重には十分だった。


「やはりそうか」


男はその場にしゃがみ込みそうになるのを、かろうじて踏みとどまった。


「境の敵だけではない」


それはほとんど、吐息と一緒に漏れた言葉だった。


義重の背筋を冷たいものが走る。


やはり、繋がっていた。


南の通り。

鞘。

板塀の短刀。

火は中にある、という文。

そして今、城方の者自身の口から出た言葉。


「誰だ」


義重はさらに踏み込む。


「城の中の誰と通じている」


男は顔を上げた。目が定まっていない。だがその奥には、言わねばならぬという焦りもある。


「……ある一派が」


「誰だ」


「名は……」


男の唇が、その名を形にしかけた。


その時だった。


風を裂く音がした。


ぴし、と空気がひとつ鳴ったかと思うと、次の瞬間、男の肩口に矢が突き立っていた。


男が声にならぬ悲鳴を上げて倒れる。


近習の少年が真っ青になった。


「う、わっ――」


「伏せろ!」


義重はほとんど反射で少年の肩を掴み、そばの荷車の陰へ引き倒した。次の矢が板塀に突き刺さる。木片がはじけ、乾いた音が響いた。


射手がいる。


しかも見ていたのだ。

こちらが男に接触し、口を開かせるのを。


少年は震えていた。


「ど、どこから……!」


「見るな」


義重は低く言った。自分でも驚くほど声は静かだった。だが胸の内は熱く、頭は冷えている。


矢は川側からか。いや、角度が少し違う。板塀の向こう、空き地の端、あるいは物陰。裏道は入り組んでいる。人影は見えぬのに、視線だけがあるような気がした。


倒れた男が呻く。


肩口を押さえ、土の上でもがいている。矢は急所を外しているが、深い。口封じだ。殺し損ねたとしても、十分に黙らせるつもりだったのだろう。


「起きろ」


義重が言う。


男は苦しげに首を振った。


「無理だ……」


「ここで死ぬ気か」


「……どうせ」


「黙れ」


義重は思わずきつく言った。


その声に男が目を開く。怯えと痛みの中に、一瞬だけ焦点が戻る。


「まだ死んでいない」


義重は歯を食いしばった。


救えたかもしれない。

あと一歩だった。

名を言いかけていた。

それを、目の前で口を塞がれた。


悔しさが胸の内で熱を持つ。だが、それを顔に出している暇はない。


遠くから、走る足音が聞こえ始めた。


老臣だ。


急報を受けて駆けてきたのだろう。複数の足音がある。城方の者も一緒だ。義重はそれを聞いて、ようやく一息だけついた。


「こちらだ!」


近習の少年が声を上げようとして、義重に睨まれ、慌てて声を潜めた。


「こ、こちらに!」


ほどなくして老臣が姿を現した。顔色は険しい。若君の姿と、倒れた男と、板塀に刺さった矢とを一度に見て、事情をほぼ察したらしい。


「若君、ご無事か!」


「無事だ」


「無事ならようございました……!」


言いつつ、老臣の目には怒りと安堵が半分ずつある。義重が無茶をしたことは明らかだ。だが、その無茶がなければここへ辿り着けなかったのもまた明らかだった。


城方の者が素早く周囲を押さえる。倒れた男を引き寄せ、矢の具合を確かめる者、射手の逃げた方角を追う者、板塀の外へ回る者。だがほどなくして戻ってきた者たちの顔は渋かった。


「おりませぬ!」


「足跡はあるが、そこで乱れております」

「待ち伏せの位置だけ定め、抜け道を使ったかと」


老臣が低く舌打ちする。


「やはり、道を知っておる」


義重はその言葉を聞いた。


やはり。

城下の裏道に慣れている。

見張り、接触の時機、逃げ道まで計っていた。


これはただのよそ者の仕事ではない。


倒れた男は、まだ息があった。


矢を抜かぬよう押さえられ、苦しげに肩で息をしている。老臣が身をかがめ、低く問いかける。


「聞こえるか」


男は薄く目を開けた。


「……若君、か」


「そうだ」


義重が答える。


男はかすかに笑うような、泣くような顔をした。


「見つかって……しまった」


「見つけた」


「どちらも、同じだ……」


老臣が顔をしかめる。


「喋るな。まず生きろ」


男は首を振った。


「……生きても、もう」


「黙れと言うておる」


だが男は、切れ切れに言葉を吐いた。


「境だけじゃ……ない」

「知っている」

「内と……外が……」


そこで咳き込み、血が混じる。近習の少年が青ざめて顔を背けた。義重は目を逸らさなかった。


男はなおも、無理やり息を継ぐ。


「名は……言えぬ……言えば……家が……」


「誰の家だ」


義重が問うた瞬間、男の目が揺れた。


そこにあるのは単なる恐怖ではない。守ろうとしているものがある顔だ。己の命だけではなく、何か別のものを背負っている。だからこそ黙る。だからこそ、敵と味方を簡単には分けられない。


善悪だけで割れない。


義重はその現実を、はじめて肌で受けた。


この男は裏切り者なのかもしれない。

だが同時に脅され、何かを守ろうとしているのかもしれない。

敵に通じたのか。味方に切られたのか。

そのどちらでもあり、そのどちらでもないのかもしれない。


乱世とは、もっと分かりやすいものだと思っていた。

旗が違えば敵。

同じ旗なら味方。

だが今ここにあるのは、そんな綺麗な線ではなかった。


老臣はそれを、義重の横顔に見て取ったらしい。


内心で、苦いものが胸へ落ちる。


外の敵なら兵で備えられる。

だが内の敵は、若君を成長させる代わりに、人を信じる心を早く削る。


この若君は、それでも前へ進むだろう。

むしろ、こういうものを見せられるほど鋭くなる。

だが、そのぶん何かを早く失う。


老臣はそう思いながら、表には出さずに命じた。


「この者を運べ。生かせるだけ生かす」


「はっ」


「追える者は追え。ただし深入りするな。相手は道を知っておる」


「はっ」


騒ぎの中、義重の足元に一本の矢が落ちていた。


さっき板塀に刺さっていたものを、誰かが抜いて脇へ置いたのだろう。義重はそれに目を留めた。矢羽のあたりに、かすかな細工がある。


「待て」


義重が言う。


老臣が振り返る。


「何にございます」


「これだ」


義重は矢を拾い、矢羽を見せた。老臣が目を凝らし、そして顔色を変える。


「……これは」


「知っているのか」


老臣はすぐには答えなかった。周囲に聞かれぬよう、声をさらに落とす。


「この細工は……佐竹家と縁ある家の者しか、好んでは使いませぬ」


義重は矢羽を見つめた。


よそ者の姿をしていても、手は内と繋がっている。

町外れの茶屋での待ち伏せも、逃げ道の取り方も、そしてこの矢も。


火は、やはり城の内へ続いている。


そう思った時、義重の胸の内には、恐れより先に一つの確信が残った。


もう戻れぬ。

見てしまった以上、知らぬふりはできない。


町外れの茶屋に漂う煎じ茶の匂いも、湿った土の気配も、倒れた男の荒い息も、その矢羽の細工も、すべてが一本の暗い線で城へ繋がっていた。

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