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佐竹義重物語『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』戦国異聞伝  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第9話 誰のための忠義か

矢羽ひとつで、城の空気は変わる。


人はよく、戦とは旗のぶつかり合いだと思い込む。どこの家が攻め、どこの家が守り、どこの城が落ちたのだと。だが実際には、戦の前にまず空気が変わる。人の目つきが変わり、口の重さが変わり、廊下の曲がり角で交わされる声が半音低くなる。


今の太田の城が、まさにそうだった。


夜番は前より足音を立てぬようになり、近習たちは無駄口を慎み、台所でさえ鍋の蓋を置く音が少しだけ気を遣ったものになる。誰も騒がない。だが誰も、以前のようにもしていない。


町外れの茶屋での一件は、限られた者にしか知らされていない。

そういう建前で、実際にはもう半分ほど知れ渡っていた。


行方不明だった城方の者が生きていたこと。

だが戻る前に矢で射られたこと。

その矢羽に、佐竹家と縁のある家しか好まぬ細工があったこと。


どれもこれも、人の口を軽くする話ではない。むしろ逆だ。だからこそ、話は狭いところを回り始める。井戸端ではなく、廊下の隅で。大声ではなく、袖の陰で。誰も名は出さぬまま、皆が「何かある」とだけ知っていく。


義重はその空気を、自室に座っていても感じていた。


朝から、妙に人の出入りが少ない。必要なものは来る。だが、いつもなら何か一言余計につけていく近習が、今日に限って用だけ済ませて頭を下げる。廊下で下働きがすれ違う時の足も速い。誰もが、余計な視線を避けるように動いている。


「まるで皆、自分が見られていると思っているようだな」


義重がぽつりと言うと、後ろに控えていた老臣が静かに答えた。


「そう思っている者もおりましょう」


「おまえもか」


「年を取ると、若い頃より後ろ暗いことが増えるものにございます」


「冗談か」


「半分ほどは」


義重は振り返らずに、ふんと鼻を鳴らした。


老臣は相変わらず、こういう時に本気なのか冗談なのか分からぬことを言う。だがその曖昧さが、時にかえって本当のことを含んでいるようにも思えた。


矢羽は今、限られた者の手で改められている。だが「限られた者」というのが、もはや何の慰めにもなっていない。限られているからこそ、範囲が狭まる。狭まるからこそ、疑いは濃くなる。


誰もあからさまには言わない。

だが、誰もが薄く考えている。


家を守るために、秘密裏に動く者がいてもおかしくないのではないか、と。


義重はそれが、ひどく嫌だった。


裏切り者がいるかもしれぬ、という話なら、まだ分かる。敵に通じた者、利に釣られた者、保身に走った者。そういうものならまだ、敵として見ることができる。


だが「家を守るために秘密裏に動く」という言い方になると、話が濁る。


それは忠義なのか。

それとも勝手な算段か。

家のためと言いながら、実のところ自分の家、自分の立場、自分の都合を守っているだけではないのか。


義重は、その濁りが気に入らなかった。


気に入らぬまま評定の場へ出れば、また顔に出る。それを老臣も承知しているのだろう。この日は珍しく、評定の前に義重を庭へ連れ出した。


春の光はやわらかいが、空気にはまだ冷えがある。庭石の間に低い草が芽吹き始め、水鉢の水面が静かに光っていた。こういう時でなければ、ただ穏やかな朝に見えただろう。


老臣は縁側へ腰を下ろした。義重も少し離れて座る。


しばらく、どちらも何も言わなかった。


庭を見る。風を見る。池の面がわずかに揺れるのを見る。そうやって、先に口を開くべき言葉を待っているような間だった。


やがて義重が言った。


「俺は、気に入らぬ」


「何がにございます」


「家のため、という顔をしながら、家を腐らせることだ」


老臣はすぐには返さなかった。


義重は続ける。


「もし本当に家のためなら、なぜ隠れる。なぜ裏道で待ち、なぜ口を塞ぐ。なぜ名を言わせぬ」


「……はい」


「家を守るためなら、堂々とすればよい」


老臣はそこでようやく息をついた。


「若君」


「何だ」


「それができる時代なら、世はもっとましにございます」


義重は眉をひそめた。


老臣は庭を見たまま言う。


「乱世においては、真っ直ぐな忠義だけで家はもたぬこともある」


「そんなものは忠義ではない」


「そう言い切れれば、どれほど楽か」


「言い切れる」


「若君は、まだお若い」


義重はかちりと表情を固くした。


それを見て、老臣は少しだけ困ったように笑う。


「お若いことが悪いのではございませぬ。若いゆえに、ものをまっすぐ見られる。それは得難い才にございます」


「だが」


「だが、まっすぐであるだけでは、折れることもある」


義重は納得しない顔をしたまま黙っている。


老臣は、膝の上に手を置いて続けた。


「たとえば、ある者が家のためと思い、表へ出せぬ汚れ仕事を引き受けることがある」


「勝手だ」


「勝手にございますな」


「なら、やはり忠義ではない」


「しかし、その勝手が家を救う時もある」


義重は振り返った。


「救うために濁るのか」


「濁るまいとして死ぬ家もございます」


その言葉は重かった。


老臣は若君へ何かを教え込もうという顔ではない。ただ、長く生きてきて知ってしまったものを、言葉にしている顔だった。


「忠義は濁る」


義重はその言葉を、嫌そうに繰り返した。


老臣は頷く。


「はい。濁ります。人がやることにございますれば」


「……」


「だが、濁らねば生き残れぬこともある」


義重は庭へ視線を戻した。


その言葉を頭では理解できる。理解できるが、腹が納得しない。濁ることが必要な時もある、という理屈は分かる。だが、それを許してしまえば、何でも「家のため」で押し通せるようにも思えた。


「なら、どこで分ける」


義重が低く問う。


「何が」


「忠義と私心だ」


老臣は少し考えた。


「難しい問いにございますな」


「逃げるな」


「逃げてはおりませぬ。ただ、本当に難しいのです」


義重はじっと老臣を見た。老臣もまた、若君の視線から逃げなかった。


「たとえば」


老臣は静かに言う。


「その者が守ろうとしているものが、自分の立場なのか、家そのものなのか。言葉ではいくらでも飾れます。ゆえに、最後は“何を切り捨てたか”でしか見えぬこともございます」


「切り捨てたもの」


「はい。人は本当に守りたいもののために、別の何かを捨てます」


義重はその言葉を胸の内で反芻した。


家を守ると言いながら、家そのものを濁らせる者がいる。

だが本当に家のために濁る者も、もしかしたらいるのかもしれぬ。

では、その違いは何か。


何を切り捨てたか。


自分の安堵か。

自分の出世か。

自分の家か。

それとも佐竹そのものか。


若い義重には、まだすぐに答えが出ない。だが、答えが出ぬこと自体が腹立たしかった。


「俺は」


ぽつりと義重が言う。


「濁るのは嫌だ」


老臣は微かに頷く。


「その嫌だ、を失われませぬよう」


「だが、おまえは濁らねばならぬ時もあると言った」


「はい」


「どちらだ」


老臣は、そこで初めて少しだけ笑った。


「どちらもにございます」


「ずるい答えだな」


「年を取ると、そういうずるさを覚えます」


義重は露骨に不満そうな顔をした。だが老臣の笑みがからかいだけではなく、少し苦いものを含んでいることにも気づいていた。


老臣自身もまた、若い頃はもっとまっすぐだったのかもしれない。まっすぐでいられぬものを見て、それでも家のためと飲み込んできたのかもしれない。


そう思うと、義重は少しだけ黙った。


しばらくして、老臣が静かに付け加えた。


「若君のように、濁りを嫌う目は必要です」


「……」


「ただ、その目が強すぎれば、家の中にいる者どもまで皆、斬るべきものに見えてしまう」


義重は老臣を見た。


それは責めではなかった。警告でもあるが、同時に信でもある。若君はそこまで見えてしまうだろう、と老臣は思っているのだ。


「おまえは、俺がそうなると思うのか」


「なりかねぬと思うております」


即答だった。


義重はわずかに目を見開いたあと、ふっと息を吐いた。


「正直だな」


「若君が相手では、半端なごまかしはすぐ見抜かれますゆえ」


その時、庭の向こうから近習が足早にやってきた。


評定の支度が整ったらしい。


二人は立ち上がる。縁側を上がり、廊下を進む。その間にも、すれ違う者の顔つきはやはり固い。誰も何も言わぬ。だが、誰も何も知らぬ顔はしていない。


評定の間へ入ると、空気はさらに張っていた。


議題はもちろん、矢羽の件だ。


どの家に縁のある細工なのか。誰が使うのか。町外れの茶屋にまで手が届くということは、城下へ動ける者がいるということだ。城中の者が直接関わっているのか、それとも縁者を通してなのか。断じるにはまだ足りない。だが足りぬからこそ、疑いは広がる。


「この細工だけで決めつけるべきではない」

「だが、手がかりは手がかりにございます」

「誰かが意図して、その家の名を匂わせているやもしれぬ」

「ではなぜそのような真似を」

「讒言にございますよ。家中をかき乱すための」

「そう言い切るには、あまりに出来すぎておる」


義重は隅で聞いていた。


昨日までより、皆の声が一歩深い。もはや「外の敵だけではなかろう」という空気は隠しきれぬ。だが、では誰だとなると皆が濁す。名を出せば戻れぬからだ。


その中で、ついに一人の重臣が低い声で言った。


「……このまま名を伏せていても、疑いが広がるばかりにございます」


場が静まる。


誰もがその先を知っている。だが、誰も先に言いたくはない。言った瞬間に、ただの不穏は家中政治へ変わるからだ。


重臣はゆっくりと続けた。


「恐れながら申せば」


一拍。


「この細工を常に好む家筋としては――」


また一拍。


「――○○殿の縁者が、もっとも近うございます」


ついに、名が出た。


評定の空気が、音もなく変わる。


ある重臣の名が、疑いとしてあがったのである。


その瞬間、義重は思った。


これでもう、ただの小さな失踪ではない。

城下の闇は、とうとう家中の名へ繋がった。

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