表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
佐竹義重物語『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』戦国異聞伝  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/21

第10話 幼き牙、はじめて人を見切る

ある名が疑いとして評定の場へ落ちた瞬間、部屋の空気は目に見えぬ刃を帯びた。


誰もすぐには動かなかった。

だが、動かなかったからこそ分かるものがある。


息を呑む者。

目を伏せる者。

わずかに膝の向きを変える者。

そして、名を挙げられた当人が、ほんの一拍遅れて顔を上げること。


義重はそれを見ていた。


疑いを向けられた重臣は、年の頃四十をいくつか越えたあたりか。家中でも軽い立場ではない。声も通り、場における位置も心得ている男だ。ふだんなら、穏やかさと分別で周囲を押さえる側の者だろう。


だが今、その男の顔は、穏やかさより先に怒りを見せた。


「……お待ちくだされ」


低く、しかし腹の底に力を込めた声だった。


「いかに何でも、それはあまりな言いようにございます」


名を挙げた重臣は、決して喧嘩腰ではない。むしろ慎重ですらある。


「疑いとして申し上げております。決めつけではございませぬ」


「疑いとして名を出された時点で、人はどう見る」


「ならば、何も申さずに城中を疑心暗鬼へ沈めよと」


「少なくとも、細工ひとつで我が名へ泥を塗るような真似を、評定の場で軽々しくなさるべきではありませぬ!」


声が少し上ずった。


場が荒れかける、というのはこういうことかと義重は思った。怒鳴り合いにまで至っているわけではない。だが、言葉のやり取りがもう「事を探る」ためのものではなく、「己を守る」ためのものへ寄り始めている。


別の重臣が割って入る。


「静まられよ。まだ誰が黒と決まったわけではない」


「ならば名を出すべきではなかった!」


「出さねば、いつまでも霧の中だ」


「霧を払うために火をつけるのか!」


その言葉には理があった。理があるからこそ厄介だった。


義重は黙っていた。


黙って、顔を見ていた。


名を出された男は怒っている。

それは当然だろう。

だが、その怒りが本物かどうかはまだ分からない。無実であっても怒る。疑われれば、人は怒る。だから怒ったこと自体は証にはならぬ。


では何を見るか。


義重は、名を挙げた側の顔を見る。

その隣の顔を見る。

今まで黙っていた者が、どの言葉で初めて口を開いたかを見る。

名が出た途端に妙に静かになった男。

逆に、ここぞとばかりに「慎重に」と繰り返す男。

まるで今の混乱そのものを、どこかで待っていたような者までいる。


その時、義重の胸の内に、ひとつの感覚が生まれた。


――違う。


この場は、単に「疑われた者」と「疑った者」だけで動いているのではない。


もっと別の者がいる。


無実か有罪か、その前に、

この場が乱れること自体で得をする者がいる。


義重はそのことに気づくと、急に場の見え方が変わった。


これまでは、誰が嘘をついているかを見ようとしていた。

だが今は、嘘そのものよりも、嘘がどこへ流れるかの方が見える。


名が出る。

場が荒れる。

互いが互いを疑う。

そのあいだに、本当に隠れたい者は一歩引くことができる。

あるいは、別の疑いを育てることができる。


嘘をつく者。

嘘を利用する者。


それは同じではない。


評定の場ではなおも言葉がぶつかっていた。


「そもそも、その矢羽の細工とて、真似できぬものではなかろう!」

「真似できることと、実際にそうしたことは別にございます」

「ならば証をお持ちか!」

「今は証を探るための場にございます」

「探るという名で、先に人を刺す気か!」


年長の重臣が、そこでようやく強い声を出した。


「よい!」


場が止まる。


「ここは裁きの場ではない。疑いが出た、それだけのことよ」


疑われた重臣の肩が上下している。怒りか、焦りか、その両方か。だが義重はもう、その男だけを見ていなかった。


その男の怒りに合わせて、誰が安心したか。

誰がさらに火を注ごうとしたか。

誰が「これで話がずれた」と胸の内で思ったか。


そういうものを見始めていた。


やがて評定は、ひとまず深追いを避ける形で散会となった。無理もない。これ以上その場で名を押し込めば、家中の割れ目が表へ出すぎる。だが、何も解決していないことだけは全員が知っていた。


義重は立ち上がり、何も言わずに部屋を出た。


廊下へ出ると、ようやく張り詰めていたものが少し緩む。だが、緩んだといってもほんの表面だけだ。廊下の向こうで近習たちが頭を下げる。誰もが、評定の中で何が起きたかを知りたそうで、しかし聞けない顔をしている。


老臣が後を追ってきた。


しばらく二人は並んで歩いた。言葉はない。板張りの廊下に足音だけが小さく響く。曲がり角を二つほど折れたところで、義重がふいに立ち止まった。


外へ面した欄干のそばだった。


そこからは城下が見える。


屋根が重なり、通りが伸び、市の気配が霞のように広がっている。久慈川の方からは薄く湿り気のある風が来る。春の光が遠くの田に落ち、白くかすんで見えた。


義重は、その景色を見下ろしながら言った。


「敵は一人ではない」


老臣が静かに目を細める。


「……はい」


「嘘をつく者と、嘘を利用する者がいる」


老臣はすぐには返さなかった。


その言葉を、胸の中で一度受け止めたのだろう。やがて深く、長く息を吐く。


「若君」


「何だ」


「今のを、どこでお覚えになりました」


「今、見た」


老臣は苦く笑った。


「やはりそうでございましたか」


義重は欄干に手を置いたまま続ける。


「名を挙げられた男が黒かどうかは、まだ分からぬ」


「はい」


「だが、あれで場が乱れれば、別の者が助かる」


「……」


「怒った男だけ見ていれば、見落とす」


老臣は、若君の横顔を見た。


ただ賢いだけではない。

もう“戦の見方”を覚え始めている。


誰が強いか、誰が弱いかではない。

誰が何をしたか、だけでもない。

場がどう動き、誰が得をし、誰が隠れ、誰が次の手を打ちやすくなるか。


それはもう、戦の見方だった。


老臣の胸の内に、奇妙な感情が同時に湧く。


頼もしさ。

危うさ。

そして、ほんの少しの寂しさ。


この若君は、もうただの利発な子どもではいられない。


早すぎる、と老臣は思う。

だが乱世は、それを待ってはくれぬ。


ぽつりと、老臣はこぼした。


「若君は、もう子どもではいられませぬな」


義重は少しだけ目を細めた。


「なりたくてなっているわけではない」


「分かっております」


「だが、見えてしまう」


老臣は頷いた。


「はい」


「見えてしまったものを、見ぬふりはできぬ」


「それも、よう分かっております」


二人の間にしばし沈黙が落ちる。


下では、城下が今日も動いていた。魚を売る者がいて、薪を運ぶ者がいて、味噌を量る者がいて、子どもが走り、女が叱り、男が荷を担ぐ。遠目に見れば穏やかだ。けれど義重にはもう、それがただ穏やかな景色には見えない。


この屋根の下に、不安がある。

この通りの上に、噂が走る。

この町の隅で、裏道の名が囁かれ、矢が飛んだ。

そして城の中では、家のためという言葉の下で、人が人を測っている。


義重はその景色を見下ろし、初めてはっきりと口にした。


「守るのは難しい」


老臣は、その言葉にすぐ返事をしなかった。


若君は今、国を治める理を語っているのではない。実感として言ったのだ。人も、道も、暮らしも、家も、忠義も、疑いも、全部ひっくるめて守るということの難しさを。


やがて老臣が言う。


「はい。難しゅうございます」


「難しいのに、皆、簡単そうな顔で“家のため”と言う」


「簡単そうな顔をしていなければ、やっておれぬ者もおります」


「……ずるいな」


「人は、えてして左様なものにございます」


義重は少しだけ黙り、それから小さく言った。


「なら、俺はずるくない方を見る」


老臣は、はっとするほど真っ直ぐなその言葉に、一瞬だけ返事を失った。


まっすぐだ。

危ういほどに。

だが、だからこそこの若君は、乱世の中で折れずに立つのかもしれぬ。


その時だった。


廊下の向こうから、足音が走ってきた。


軽くない。

急ぎの足だ。

しかも、隠そうとして隠しきれていない切迫がある。


近習が息を切らして膝をつく。


「若君! 老臣どの!」


老臣の顔つきが一変する。


「何事だ」


「境の村にて……小競り合いが!」


義重の目が鋭くなる。


近習は荒い息のまま続けた。


「見張りと、見慣れぬ兵どもが田の外れにて衝突したとの急報にございます! 火まで上がったと!」


今度こそ、外の火だった。


内の火を抱えたまま、境ではついに刃が触れた。

噂でも、影でも、疑いでもない。

小規模とはいえ、衝突だ。


義重は欄干から手を離した。


胸の内で何かが、静かに切り替わるのを感じた。


これまでは見ていた。

聞いていた。

覚えていた。

人の顔を、言葉を、裏道を、矢羽を。


だが、もうそれだけでは済まない。


内を見ねばならぬ。

外にも備えねばならぬ。

どちらかだけでは足りない。


老臣もまた、その変化を若君の横顔に見たのだろう。ほんの一瞬だけ、目を伏せ、それからすぐに前を向いた。


若君の“見て学ぶ時期”は、ここで終わる。


次に来るのは、動く時期だ。


「若君」


老臣が低く言う。


「参りましょう」


義重は短く頷いた。


城下の向こう、春の霞の下で、戦が本当に動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ