第10話 幼き牙、はじめて人を見切る
ある名が疑いとして評定の場へ落ちた瞬間、部屋の空気は目に見えぬ刃を帯びた。
誰もすぐには動かなかった。
だが、動かなかったからこそ分かるものがある。
息を呑む者。
目を伏せる者。
わずかに膝の向きを変える者。
そして、名を挙げられた当人が、ほんの一拍遅れて顔を上げること。
義重はそれを見ていた。
疑いを向けられた重臣は、年の頃四十をいくつか越えたあたりか。家中でも軽い立場ではない。声も通り、場における位置も心得ている男だ。ふだんなら、穏やかさと分別で周囲を押さえる側の者だろう。
だが今、その男の顔は、穏やかさより先に怒りを見せた。
「……お待ちくだされ」
低く、しかし腹の底に力を込めた声だった。
「いかに何でも、それはあまりな言いようにございます」
名を挙げた重臣は、決して喧嘩腰ではない。むしろ慎重ですらある。
「疑いとして申し上げております。決めつけではございませぬ」
「疑いとして名を出された時点で、人はどう見る」
「ならば、何も申さずに城中を疑心暗鬼へ沈めよと」
「少なくとも、細工ひとつで我が名へ泥を塗るような真似を、評定の場で軽々しくなさるべきではありませぬ!」
声が少し上ずった。
場が荒れかける、というのはこういうことかと義重は思った。怒鳴り合いにまで至っているわけではない。だが、言葉のやり取りがもう「事を探る」ためのものではなく、「己を守る」ためのものへ寄り始めている。
別の重臣が割って入る。
「静まられよ。まだ誰が黒と決まったわけではない」
「ならば名を出すべきではなかった!」
「出さねば、いつまでも霧の中だ」
「霧を払うために火をつけるのか!」
その言葉には理があった。理があるからこそ厄介だった。
義重は黙っていた。
黙って、顔を見ていた。
名を出された男は怒っている。
それは当然だろう。
だが、その怒りが本物かどうかはまだ分からない。無実であっても怒る。疑われれば、人は怒る。だから怒ったこと自体は証にはならぬ。
では何を見るか。
義重は、名を挙げた側の顔を見る。
その隣の顔を見る。
今まで黙っていた者が、どの言葉で初めて口を開いたかを見る。
名が出た途端に妙に静かになった男。
逆に、ここぞとばかりに「慎重に」と繰り返す男。
まるで今の混乱そのものを、どこかで待っていたような者までいる。
その時、義重の胸の内に、ひとつの感覚が生まれた。
――違う。
この場は、単に「疑われた者」と「疑った者」だけで動いているのではない。
もっと別の者がいる。
無実か有罪か、その前に、
この場が乱れること自体で得をする者がいる。
義重はそのことに気づくと、急に場の見え方が変わった。
これまでは、誰が嘘をついているかを見ようとしていた。
だが今は、嘘そのものよりも、嘘がどこへ流れるかの方が見える。
名が出る。
場が荒れる。
互いが互いを疑う。
そのあいだに、本当に隠れたい者は一歩引くことができる。
あるいは、別の疑いを育てることができる。
嘘をつく者。
嘘を利用する者。
それは同じではない。
評定の場ではなおも言葉がぶつかっていた。
「そもそも、その矢羽の細工とて、真似できぬものではなかろう!」
「真似できることと、実際にそうしたことは別にございます」
「ならば証をお持ちか!」
「今は証を探るための場にございます」
「探るという名で、先に人を刺す気か!」
年長の重臣が、そこでようやく強い声を出した。
「よい!」
場が止まる。
「ここは裁きの場ではない。疑いが出た、それだけのことよ」
疑われた重臣の肩が上下している。怒りか、焦りか、その両方か。だが義重はもう、その男だけを見ていなかった。
その男の怒りに合わせて、誰が安心したか。
誰がさらに火を注ごうとしたか。
誰が「これで話がずれた」と胸の内で思ったか。
そういうものを見始めていた。
やがて評定は、ひとまず深追いを避ける形で散会となった。無理もない。これ以上その場で名を押し込めば、家中の割れ目が表へ出すぎる。だが、何も解決していないことだけは全員が知っていた。
義重は立ち上がり、何も言わずに部屋を出た。
廊下へ出ると、ようやく張り詰めていたものが少し緩む。だが、緩んだといってもほんの表面だけだ。廊下の向こうで近習たちが頭を下げる。誰もが、評定の中で何が起きたかを知りたそうで、しかし聞けない顔をしている。
老臣が後を追ってきた。
しばらく二人は並んで歩いた。言葉はない。板張りの廊下に足音だけが小さく響く。曲がり角を二つほど折れたところで、義重がふいに立ち止まった。
外へ面した欄干のそばだった。
そこからは城下が見える。
屋根が重なり、通りが伸び、市の気配が霞のように広がっている。久慈川の方からは薄く湿り気のある風が来る。春の光が遠くの田に落ち、白くかすんで見えた。
義重は、その景色を見下ろしながら言った。
「敵は一人ではない」
老臣が静かに目を細める。
「……はい」
「嘘をつく者と、嘘を利用する者がいる」
老臣はすぐには返さなかった。
その言葉を、胸の中で一度受け止めたのだろう。やがて深く、長く息を吐く。
「若君」
「何だ」
「今のを、どこでお覚えになりました」
「今、見た」
老臣は苦く笑った。
「やはりそうでございましたか」
義重は欄干に手を置いたまま続ける。
「名を挙げられた男が黒かどうかは、まだ分からぬ」
「はい」
「だが、あれで場が乱れれば、別の者が助かる」
「……」
「怒った男だけ見ていれば、見落とす」
老臣は、若君の横顔を見た。
ただ賢いだけではない。
もう“戦の見方”を覚え始めている。
誰が強いか、誰が弱いかではない。
誰が何をしたか、だけでもない。
場がどう動き、誰が得をし、誰が隠れ、誰が次の手を打ちやすくなるか。
それはもう、戦の見方だった。
老臣の胸の内に、奇妙な感情が同時に湧く。
頼もしさ。
危うさ。
そして、ほんの少しの寂しさ。
この若君は、もうただの利発な子どもではいられない。
早すぎる、と老臣は思う。
だが乱世は、それを待ってはくれぬ。
ぽつりと、老臣はこぼした。
「若君は、もう子どもではいられませぬな」
義重は少しだけ目を細めた。
「なりたくてなっているわけではない」
「分かっております」
「だが、見えてしまう」
老臣は頷いた。
「はい」
「見えてしまったものを、見ぬふりはできぬ」
「それも、よう分かっております」
二人の間にしばし沈黙が落ちる。
下では、城下が今日も動いていた。魚を売る者がいて、薪を運ぶ者がいて、味噌を量る者がいて、子どもが走り、女が叱り、男が荷を担ぐ。遠目に見れば穏やかだ。けれど義重にはもう、それがただ穏やかな景色には見えない。
この屋根の下に、不安がある。
この通りの上に、噂が走る。
この町の隅で、裏道の名が囁かれ、矢が飛んだ。
そして城の中では、家のためという言葉の下で、人が人を測っている。
義重はその景色を見下ろし、初めてはっきりと口にした。
「守るのは難しい」
老臣は、その言葉にすぐ返事をしなかった。
若君は今、国を治める理を語っているのではない。実感として言ったのだ。人も、道も、暮らしも、家も、忠義も、疑いも、全部ひっくるめて守るということの難しさを。
やがて老臣が言う。
「はい。難しゅうございます」
「難しいのに、皆、簡単そうな顔で“家のため”と言う」
「簡単そうな顔をしていなければ、やっておれぬ者もおります」
「……ずるいな」
「人は、えてして左様なものにございます」
義重は少しだけ黙り、それから小さく言った。
「なら、俺はずるくない方を見る」
老臣は、はっとするほど真っ直ぐなその言葉に、一瞬だけ返事を失った。
まっすぐだ。
危ういほどに。
だが、だからこそこの若君は、乱世の中で折れずに立つのかもしれぬ。
その時だった。
廊下の向こうから、足音が走ってきた。
軽くない。
急ぎの足だ。
しかも、隠そうとして隠しきれていない切迫がある。
近習が息を切らして膝をつく。
「若君! 老臣どの!」
老臣の顔つきが一変する。
「何事だ」
「境の村にて……小競り合いが!」
義重の目が鋭くなる。
近習は荒い息のまま続けた。
「見張りと、見慣れぬ兵どもが田の外れにて衝突したとの急報にございます! 火まで上がったと!」
今度こそ、外の火だった。
内の火を抱えたまま、境ではついに刃が触れた。
噂でも、影でも、疑いでもない。
小規模とはいえ、衝突だ。
義重は欄干から手を離した。
胸の内で何かが、静かに切り替わるのを感じた。
これまでは見ていた。
聞いていた。
覚えていた。
人の顔を、言葉を、裏道を、矢羽を。
だが、もうそれだけでは済まない。
内を見ねばならぬ。
外にも備えねばならぬ。
どちらかだけでは足りない。
老臣もまた、その変化を若君の横顔に見たのだろう。ほんの一瞬だけ、目を伏せ、それからすぐに前を向いた。
若君の“見て学ぶ時期”は、ここで終わる。
次に来るのは、動く時期だ。
「若君」
老臣が低く言う。
「参りましょう」
義重は短く頷いた。
城下の向こう、春の霞の下で、戦が本当に動き始めていた。




