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佐竹義重物語『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』戦国異聞伝  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第11話 境の村に、火は小さく上がる

急報というものは、不思議なほど城の空気を変える。


怒鳴る者がいるわけではない。

大太鼓が鳴るわけでもない。

だが、たった一人の使者が泥を跳ね上げて駆け込み、息を乱したまま膝をつくと、それだけで城全体の歩幅が変わる。


速くなるのだ。


走るほどではない。

けれど、皆が半歩だけ速く動き始める。

近習は角を曲がる時に裾をさばくのが早くなり、台所では鍋の蓋を置く音が少し鋭くなる。見張りの声も、いつもより短く要だけを伝えるようになる。


義重は、その「速さ」を見ていた。


境の村にて小競り合い。

火が上がった。

見慣れぬ兵どもが田の外れに現れ、村の者と見張りがぶつかった。


第十話の終わりに飛び込んできた報は、朝になっても城の中で冷えきらなかった。むしろ夜のうちに人の頭をめぐり、朝にはもっと細く、もっと鋭い形に変わっていた。


大合戦ではない。

城攻めでもない。

名のある大軍勢が押し寄せたわけでもない。


それが、かえって不気味だった。


村外れ。

小競り合い。

火は小さい。

だからこそ、何のための火なのかが読みにくい。


義重は評定の間の前まで来て、また当然のように入ろうとした。

当然のように止められた。


「若君」


老臣が、もはや呆れを隠しもせずに言う。


「本日は、昨日までのような“聞いて学ぶ”だけの話ではございませぬ」


「だから聞く」


「そう申されると思いました」


「なら止めるな」


「止めぬとは申しませぬ」


「どちらだ」


老臣は深く息を吐き、義重の顔を見下ろした。


「若君は今、出たいのでございましょう」


義重は少しだけ顎を上げる。


「出るべきだ」


「何処へ」


「境の村へ」


老臣は即答した。


「なりませぬ」


「なぜだ」


「若君が行って何をなさる」


「見る」


「それは城でも見られます」


「現場は現場だ」


「はい。だからこそ、若君を出せぬのです」


義重は黙った。


反論の言葉はあった。

だが、それをここで全部吐けば、かえって押し負けるのも分かっていた。

何しろ相手は老臣である。真正面から押せば引かぬし、理で来ればそれなりの理を返してくる。


老臣は続けた。


「よろしいですか、若君。今起きているのは、大軍勢のぶつかり合いではございませぬ。村外れでの衝突にございます。小さいからといって軽いわけではありませぬが、小さいからこそ、何をどう動かすかを誤れば、かえって事を大きくいたします」


義重は眉を寄せた。


「兵を出さねば、向こうは調子づく」


「兵を出しすぎれば、“こちらが何を怖れたか”を相手へ教えることにもなります」


「……」


「それに若君、今は村を安心させるのが先にございます」


その言葉に、義重はわずかに口をつぐんだ。


村を安心させる。


斬るだの追うだのより先に出る言葉としては、少し意外だった。

いや、意外に思うこと自体が、まだ若い証なのかもしれない。


「兵を送るだけでは足りぬ」


老臣は静かに言う。


「火が上がったと聞けば、人はまず“また来るのではないか”と怯えます。怯えれば逃げます。逃げれば田は荒れ、道は細り、次の報も遅れます。ゆえに、兵と同じくらい、言葉と段取りが要るのです」


義重は、ほんの少しだけ息を吐いた。


自分は今すぐ現場へ出て、目で見て確かめたい。

だが、ここで交わされているやり取りもまた、現場へ届く刃なのだろう。


「……なら、見る」


「はい」


「出られぬなら、せめてここで全部見る」


老臣は、ようやくひとつ頷いた。


「それがよろしゅうございます」


評定の間に入ると、空気はすでに実務のものへ変わっていた。


昨日までのような「誰が怪しい」「どの顔が動いた」といった、目に見えぬ探り合いも消えてはいない。だが今朝はそれより先に、まず人と物をどう動かすかが並んでいる。


誰を使者に立てるか。

どの村へ先に伝えるか。

見張りをどう増やすか。

村からの逃げ出しをどう抑えるか。

火の手が本当に小さいのか、田へ広がる恐れがあるのか。


父も座していた。

言葉は多くない。だが、誰よりも先に「何を優先するか」を決める顔をしている。


使者が改めて口を開く。


「……火は田の外れの藁束に移ったのみ、とのことにございます。村そのものへはまだ及んでおりませぬ」


「“まだ”か」


年長の重臣が言う。


「はっ。村の者どもが急ぎ消し止め、広がりは防いだ由」


「怪我人は」


「見張りの者が二人、村の男が一人。命に別状は今のところ……」


「敵の数は」


「定かではございませぬ。五、六とも、もっと少ないとも」


「少ないな」


「少ないゆえに、かえって厄介かと」


そう言った重臣の声音には、焦りより嫌な納得があった。


五、六。

その程度の数であるなら、村を落とすことなどできない。

だが荒らし、怯えさせ、こちらを動かすには十分だ。

目的が占領ではなく、挑発や探りや局地の圧迫なら、むしろそのくらいの方が都合がいい。


義重はそこに気づき、前のめりになりかけた。


「若君」


老臣の小さな声が飛ぶ。

義重は寸前で体を戻した。


代わりに耳を研ぐ。


重臣の一人が言った。


「ただの野盗ではあるまい」


「見張りとぶつかって、火をつけて退いたというのが妙ですな」


「村を焼く気なら、もっと手はある」


「焼く気ではなく、“火を見せた”のやもしれぬ」


「……こちらの目を境へ向けさせるためか」


「あるいは、村そのものへ“ここは揺らせる”と教えるため」


義重はその言葉を覚えた。


火を見せる。


焼くためではなく、火を見せるために火を使う。

それは村に対しても、城に対しても同じことなのかもしれない。


父が低く問うた。


「旗は見えたか」


使者は首を振る。


「それが……」


「申せ」


「どこの旗とも、定かではございませぬ。掲げておらなんだ、という者もあり……布を巻いて隠していたようだ、と申す者も」


場の空気がわずかに沈んだ。


旗がない。


それは義重にとって、まだ新しい不気味さだった。

敵は名乗って来るものだと思っていた。

槍より先に旗が見え、旗より先に噂が来るものだと思っていた。

だが旗を隠すのなら、相手は「見られたくない」のではない。むしろ「見た者に迷ってほしい」のだ。


どこの兵か。

どこの差し金か。

野盗か、国衆の手勢か、挑発か。


断じられぬようにしている。


義重はそれを聞いて、胸の奥が少し冷えた。


分かりやすい敵ほど楽だ。

旗があれば、こちらも心を決めやすい。

だが旗がなければ、怒りも恐れも向かう先が曖昧になる。

それがいちばん、人を疲れさせるのかもしれない。


父が短く命じた。


「まず村を落ち着かせよ」


義重はその言葉に、反射のように顔を上げた。


重臣たちもすぐ応じる。


「は」

「見舞いの米を先に」

「負傷人へ薬も」

「近村へも、慌てて逃げぬよう使いを」


兵をどう出すか、ではない。

まずは村を落ち着かせよ。


義重は、そこに少なからず驚いた。

だが驚きながら、どこかで納得もした。


村が騒げば、噂が走る。

噂が走れば、他の村も揺れる。

揺れれば、道も田も荒れる。

結局、敵の小さな火が、こちらの中で大きくなる。


だから、火そのものより先に、人を鎮める。


戦は刃の前に段取りで始まる。


そのことを、義重はこの朝はじめてはっきり知った。


兵ももちろん出る。

だが、出し方が乱暴ではない。


一隊すべてを動かすのではなく、まず近場の押さえを知る者。

地形を知る者。

村人と口が利く者。

そうした者が選ばれていく。


義重は、その選ばれ方を見ていた。


強い者から行くわけではない。

怒っている者から行くわけでもない。

知っている者、落ち着いている者、口の堅い者から出る。


「面白くない顔をなさいますな」


老臣が小さく言った。


「面白くはない」


「若君は、もっと早く、もっと強く、と思っておいででしょう」


義重は否定しなかった。


老臣は、わずかに口元を和らげる。


「それもまた大事にございます。ですが今回は、早さより順序の方が重い」


「……兵は、遅くてもよいのか」


「よくはございませぬ」


「なら」


「兵を出す前に、誰へ何を届かせるかを誤れば、兵が着いた時には村の心の方が散っております」


義重はその言葉を噛んだ。


心が散る。


それは兵の数や槍の長さとは違う話だ。

だが村を守るなら、たしかにそちらの方が先に割れてしまっては困る。


評定は、次々と現場の段取りへ移っていく。


どの道を使うか。

川筋は今どうか。

火の見張りをどう増やすか。

南の通りの見慣れぬ者どもと、この件をどう繋げて考えるか。

そして、あまりに大事にせぬこと。


この「大事にせぬ」というのも、義重には最初ぴんと来なかった。


火が上がったのだ。

村で血も流れた。

なら、大きく構えるべきではないのか。


だが、父も年長の重臣も、そこは共通していた。


大きく見せれば、相手に「効いた」と教える。

村へも「いよいよ始まる」と伝えてしまう。

だから中では素早く、外には騒がず。


城は、そういう顔も使うのかと義重は思った。


評定の途中、一度だけ父の視線が義重に向いた。


何も言わない。

だが、「見ておけ」と言っているように見えた。


義重は、その視線を正面から受けた。


自分はまだ出られない。

馬にも乗れぬ。

槍を持って先頭にも立てぬ。

だが、今ここで動いているものは、どれもいずれ自分が背負うものだ。


使者の顔。

重臣の声の強さ。

兵を選ぶ順。

米を運ぶ手配。

そして、村を落ち着かせるために最初に送る言葉。


どれも、忘れてはならぬ気がした。


評定が一段落した頃には、城のあちこちで人がもう動き始めていた。


厩では馬が引き出され、台所では持たせる飯の支度が始まり、蔵では見舞いの米が選り分けられる。近習の少年たちまで、いつもより顔つきが一段固い。


義重は廊下へ出ると、しばらくその流れを見ていた。


皆、忙しい。

だが、やみくもではない。

慌てているように見えて、どこか順序がある。

今朝までの自分なら、「早く行け」と思ったかもしれない。

今も思わぬわけではない。

だが、それだけでは駄目なのだと、少しだけ分かった。


「若君」


横に老臣が立つ。


「何だ」


「本日は、ようご覧になりましたな」


「見ただけだ」


「見ただけ、がいちばん大事な時もございます」


義重は庭の向こうを見た。

その先に城下があり、城下の先に村がある。

いまごろ、火の消えた藁の匂いが残る田の外れで、人はまだ落ち着かぬ顔をしているのだろう。


「……出たかった」


義重がぽつりと言うと、老臣は少しだけ笑った。


「はい」


「今も出たい」


「それも、はい」


「だが」


義重は廊下の下で動く人々を見た。


「動く前に決まることが多いのだな」


老臣は、今度は笑わなかった。

ただ、静かに頷いた。


「戦は刃の前に始まります」


義重はその言葉を、胸の中で繰り返した。


戦は刃の前に始まる。


村へ送る米。

選ばれる兵。

使者の順番。

どこまで騒がず、どこから動くか。

そういうものが、もう戦なのだ。


若君はようやく、その入口に立ったのかもしれない。


昼を少し過ぎた頃、最初に出ていた使者が戻ってきた。


泥がついた足。

乾ききらぬ汗。

顔つきは、朝よりさらに固い。


評定の場がまた整えられ、義重も当然のように隅へ座る。

今度はもう、誰も何も言わなかった。


使者が頭を下げる。


「申し上げます」


「申せ」


父の声は短い。


使者は一度息を整え、それから言った。


「敵の小勢にございますが……」


誰も動かない。

次の一言を待っている。


「旗は隠していたとのことにございます」


場の空気が、音もなく重くなる。


やはり。


義重は思った。


見られたくないのではない。

見た者に迷ってほしいのだ。

そして迷いは、そのままこちらの足を鈍らせる。


使者はなお続ける。


「布を巻いておった、と申す者あり。初めから掲げておらぬと申す者あり。いずれにせよ、どこの勢か定かにはございませぬ」


年長の重臣が低く言う。


「名乗らぬ兵、か」


老臣がさらに低く応じた。


「小さい火ほど、煙は読みにくうございますな」


義重は、そのやり取りを聞きながら、胸の内で静かに熱くなるものを感じていた。


敵はまだ見えぬ。

だが、確かにいる。

そしてこちらが何をどう見るか、試してきている。


若君の“見て学ぶ”は、ここからもう一段深くなるのだろう。


城の中では段取りが走り、

境の村では小さな火が上がり、

旗なき兵がそれを見ていた。


常陸の境目は、ただの線ではなかった。

人の暮らしと、人の惑いと、人の思惑がぶつかる、柔らかな帯のような場所だった。


そしてその帯が、いま少しずつ、きな臭く燃え始めていた。

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